第四話:黒衣の来訪者
魔物との死闘を終えた後も、真也の身体は戦慄いていた。
勝利の余韻ではない。気配――空気の密度が、変わっていた。
リィナから《癒しの鼓動》の魔封紙片――使い捨て型の巻物で、回復魔法が込められている――を使ってもらい回復していたため、真也も十分に戦える程度にはなっていた。
「リィナ……今、誰かが……。」
「分かってる。」
リィナはすでに短剣を構えていた。
声に余裕はない。
彼女がここまで緊張を見せたのは、訓練期間中、一度もなかった。
森の奥、影の揺らぎから“それ”は現れた。
黒い外套。深く被ったフードの奥には、血のように紅い瞳がひとつ、静かに浮かんでいた。
足音も気配もない。ただ“そこに在る”。
「……界越えか。」
リィナの声が冷たい。敵意を隠そうともしない。
「やあ。久しぶりだね、リィナ。」
男の声は澄んでいた。だが、無感情というわけではない。
寧ろ、どこか懐かしさと哀しみを湛えていた。
「フードを外せ。」
「いいよ。どうせ、分かっているだろう?」
黒衣の男はフードを払った。
露になったのは、まだ十代後半に見える少年の顔だった。
だが、空気が違う。気配が異質だ。
存在そのものが、何かを“逸脱”している。
「君が真也君か。初対面だね。思っていたより、良い目をしているじゃないか。」
男が微笑んだ。
優しさすらある笑みだった。
その優しさが、真也には酷く恐ろしく見えた。
「……誰だ。」
「僕はフレイン。神に抗い、神に”敗けた”者だよ。」
真也の身体は、無意識に戦闘態勢を取っていた。
警戒が理屈を超えて働く。
呼吸一つ、視線の揺れすら殺気を孕んでいる。
「目的は何?」
「ただ一つ、確認さ。“模倣者”がどこまで通じるか。君と、君の教え子と――」
言葉よりも先に、風が裂けた。
どうやらリィナが動いたようだ。
稲妻の軌跡が地面を焦がし、一気に間合いを詰める。
「《銀雷操弾》ッ!!」
雷光が閃き、一直線にフレインの胸元を貫こうとする。
だが、リィナの魔法は当たらなかった。
「《崩雷反掌(ブリッツ=ヴェルフェン)》。」
「ッ……。良い固有スキルよね、全く。確かにこれは厄介。」
手のひらをこちらへ向ける。
魔素が静かに、しかし激しく集束する。
「《縫空縛鎖(ナーデル=リーメ)》。」
空間が震えた。
次の瞬間、見えない糸のような“縛鎖”が空気を裂き、リィナの周囲に展開される。
「くっ……!」
リィナが跳躍で避けるが、縛鎖の一本が足首にかすり、電撃のような硬直が一瞬身体を襲う。
「ッ、今だ!」
真也が駆け込む。
《斬鋭黒爪》を起動、黒い爪が右腕に展開される。
「はあああっ!!」
フレインの死角から、真也の斬撃が迫る。
だが――
「遅い。」
フレインは身体を回転させながら、掌で魔素を練り上げた。
「でも、まだ終わりじゃない。」
リィナが構え直す。
短剣の刃が雷を帯び、彼女の足元に魔素が広がり始める。
「《雷縛陣域》――展開!」
地面に刻まれた魔素陣が一気に光り出す。複数の雷撃結界が展開され、フレインの逃げ場を奪う。
「させない!」
真也も立ち上がり、《屍縄跳躍》で縄状の魔素を射出。
フレインの腕を狙って縛りをかける。
だが。
「甘いよ。」
フレインの背から黒い翼のような魔素が広がり、一瞬で跳躍――
爆風のような衝撃とともに、空中へ抜け出す。
「この程度か。でも、悪くないね。」
雷陣が炸裂する直前、フレインは結界の外へと出ていた。
着地した彼の衣服は一部焼けていたが、本人は微塵も動じていない。
「リィナ、君はまだ“憎しみ”が足りない。だから、その雷は鈍る。」
「黙れ……!」
リィナの声が震える。感情があふれる。
真也は再び立ち上がる。
視界がぶれる。
足も震えている。
だが――心は折れていなかった。
「俺だって……ッ!」
《模倣取得》を起動――しようとした、その時。
「やめておきなよ、真也君。」
声が、真っ直ぐだった。
「今の君が僕のスキルを模倣しても、使いこなせやしない。下手をすれば、魔素に潰される。」
確信のある口調。
敵意がないわけではない。だが、殺意がない。
フレインはもう終いだと言わんばかりに、フードを再び被った。
「“神”に届くには、まだ全くと言って足りない。でも、見込みはある。」
風が吹く。
次の瞬間、フレインの姿はそこにはなかった。
魔素の残滓だけが、空中に消えてゆく。
真也は剣を突き立て、肩で息をしていた。
足元には破れた鎖と、焼けた地面。戦闘の痕跡だけが静かに残っていた。
「……行ったね。」
リィナが力を抜き、短剣を鞘に戻す。
「……あれが、界越え。」
真也の声は、震えていた。恐怖ではない。純粋な、力の差への実感。
「リィナ……お前と、あいつ……。」
「過去に色々あった。けれど、今はただの敵。忘れないで。界越えは、魔物とは違う。人間の知性を持ち、かつての人類を捨てた者たちよ」
赤紫の空に、一陣の風が吹いた。
真也の中に、はっきりとした“目標”が芽生えていた。
――追いつく。
あの背中に。
神を殺す力に。
“模倣者”として。
そのために、この世界で生き続ける。