第三話:牙を刻む
その日も、森には血のような赤紫の陽光が差していた。
リィナの指導を受けてから、およそ一ヶ月が経とうとしていた。
真也はこの世界 《ヴァイラス》の空気に少しずつ馴染み、鏡界人としての生き方を叩き込まれていた。
武器はロングソード。
重量も扱いやすく、剣術の基礎を学ぶには最適だとリィナに勧められたものだった。
「斬り込みが浅い! 力に頼りすぎ!」
訓練場に雷鳴のような声が響く。
リィナの指導は厳しかったが、迷いのない言葉にはいつも芯があった。
汗に濡れた真也の手が剣を握り直す。地面には浅い切り跡が幾重にも刻まれていた。
「剣は振るものじゃない。"通す"の。風のように、流れるように。」
「くっ……、はあっ……。わかった……っ。」
気を抜けば命を落とす世界。
この一ヶ月、真也は食べ、寝て、剣を振るだけの日々を繰り返していた。
筋肉痛と擦過傷はもはや日常で、驚くほど感覚が麻痺してきているのを感じる。
だが、それでも進んでいた。少しずつ、確かに力は身についている。
「休憩にしよう。今日は実践訓練があるからね。」
「……え? まさか……。」
「うん。魔物相手に、実戦で"本物の殺意"を体感してもらう。」
リィナの言葉に、真也の喉が無意識に鳴った。
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リィナに従い森を迂回するように通ったが、空気が異様に重く、森の息遣いが変わっていることにすぐ気付いた。
「……何かいるな。」
《加護視界》が映し出す立体像。森の先に、異様な“塊”があった。
四肢に相当する部位が異様に長く、頭部は逆さ吊りになった人間のような形状――いや、頭部そのものが縄で縛られており、木から吊るされている。
リィナの気配が一瞬にして張り詰め、短剣を抜き警戒を始める。
「下がって、真也。あれは《吊虐獣》。中級の魔物よ。」
向こうもこちらに気付いたようで、縄で出来た肢体がずるりと動き、樹の上から降りてくる。
捻じれた関節が不規則に軋み、ぶら下がる縄がひとりでに動くたびに濁った空気が漂う。
リィナが即座に前へ出ようとした、その時。
「……リィナ。俺にやらせてくれ。」
真也の目が静かに燃えていた。
訓練の日々、リィナの刃を受け続けたあの時間は、真也を強くするには十分だった。
「覚悟はある?」
「ああ。……やるしかない。」
言葉と共に、真也のスキルウィンドウが浮かび上がる。
《斬鋭黒爪》を展開。
黒い魔素が右腕に集まり、刃の如く具現化する。
ハングドビーストは距離を詰めながら、不快な摩擦音を立てて縄を揺らした。
突如、縄の一本が飛んでくる。
反射的に右腕を振るい、空中で切り裂く。
次の瞬間、四方から複数の縄が一斉に襲いかかってきた。
「うおおッ!!」
跳躍、斬撃、回避。
魔素の流れを《加護視界》で読み、縄の動きを予測して身を翻す。
だが、一本だけ背後から来た縄が左足首を絡め取った。
「ッ……くそっ!」
引きずられる。木に叩きつけられる寸前、右腕の爪で自らの足首に絡みついた縄を断ち切った。
転がる。立ち上がる。呼吸が荒くなる。
それでも、真也は前を向く。
縄でできた四肢がしなり、地を滑るような速度で迫ってくる。
地面に足音ひとつ残さないその動きは、まるで生きた影のようだった。
「――速い……!」
《加護視界》が敵の魔素の動きと軌道を明示してくれる。
だが、それでも真也の反応はギリギリだった。
見えれば避けられるわけではない。
体をひねって一撃を躱す。
その瞬間、ハングドビーストの腕が地面を抉った。
土が爆ぜ、飛散した石片が頬をかすめる。
「チッ……来るか!」
紅い双眸がユラユラと妖しく煌めく。
次の瞬間、ハングドビーストの姿がふわりと霧散するように消えた。
否――消えたのではない。
高速移動により視認が間に合わないだけだ。
「ッ、消えた!? ……いや、違う、《加護視界》が――後ろかっ……!」
本能と視界の警告が重なる。
真也は反射的に振り返りざま、右腕を振り抜いた。
「うおおおッ!!」
《斬鋭黒爪》が黒い軌跡を描く。
鋭く、速く、ハングドビーストの右前肢をかすめ、赤黒い血が宙に散った。
だが、その直後。
「がああッ!!」
ハングドビーストの巨体が体当たりのようにぶつかってくる。
避けきれずにまともに喰らってしまった。
真也の身体が空中を舞い、激しく地面を転がった。
背中から落ちた衝撃で肺の空気が抜け、肋骨にひびが走った感触が脳を刺す。
「クッ……ガハッ……!」
呼吸が荒い。意識が霞む。だが――まだ、動ける。
「まだ……やれる……!」
血の味が口内に広がるのを無視して立ち上がる。魔素を集中。
《斬鋭黒爪》の魔刃が再び右腕に形成される。だがその瞬間――
真也の脳裏に、視界とは異なる感覚が閃いた。
ウィンドウが開く。文字が、光と共に表示される。
【対象:魔獣「吊虐獣」/スキル選択中……】
身体の奥が、ざわめいた。
意識の深層で、二つのスキルが提示される。
【スキル候補:
《屍縄跳躍》――魔素を縄状に変換し、敵を拘束しつつ跳躍を補助する近接制圧スキル。
《死肉感知》――一定範囲内の「死に近づいた生物」の位置と状態を感知する知覚系スキル。】
「来い……!」
攻め手に欠ける現状において補助系スキルが来るのは、負けを意味する。
真也が強く願ったのに呼応するように――
【スキル:《屍縄跳躍》を取得しました】
次の瞬間、真也の背中を貫くように“新しい感覚”が走った。魔素の流れが変わる。
背骨を中心に、黒紫のエネルギーが湧き上がり、手足とは異なる【一対の肢】がそこに存在するかのような錯覚が襲う。
「……これは……使えるッ!」
ハングドビーストが再び跳びかかってくる。今度は真也も先手を取る。
「《屍縄跳躍》ッ!!」
咆哮と共に、背から黒紫の魔素が弾けるように放たれた。二本の縄のような触手が高速で射出され、ハングドビーストの四肢へと絡みつく。
触れた瞬間、魔素が“締まる”。
触手によりハングドビーストの動きが止まった。
否、動けないのだ。
縄が魔素を吸い、敵の筋肉の動作そのものを封じるように締め上げている。
「今だ……!」
真也は全力で地を蹴った。
《屍縄跳躍》の補助で、体がまるで空気を切り裂くように加速する。
ハングドビーストが吠え、縄を振りほどこうと身を捩る。
だが遅い。
既に距離はゼロ。
「喰らえええッ!!」
渾身の《斬鋭黒爪》が振り下ろされる。
黒の刃が獣の首筋を斜めに裂く。
肉が裂け、骨が軋み、赤黒い血が噴き出した。
叫び声が森に轟いた。
真也のものか、ハングドビーストのものかは分からない。
ハングドビーストが暴れ、縄を引きちぎりながらよろけて後退したが、力尽きたように膝を折り、崩れ落ちた。
真也は暫くの間呼吸ができなかった。
肺が悲鳴をあげ、全身の筋肉が痛みを訴える。
だが――
「……勝った、のか……。」
その呟きに、黒紫の縄がふわりと風に溶けて消えた。
ガクガクと全身が震えていた。
恐怖か、興奮か、判断できない。
だが確かに、自分の手で――初めて“生き残った”のだ。
「よくやったね。初陣でこれなら上出来だよ。」
リィナが、ほんの少しだけ笑った。
厳しさの中に、どこか誇らしげな光が宿っていた。
「でも……まだこれは始まりに過ぎない。次に現れるのは、魔物なんかじゃないかもしれないから。」
彼女の視線は、森の奥へと向けられていた。
その先から、真也でも分かる程の気配が感じて取れた。
「……“界越え”?」
「うん。君に興味を示す鏡界人が、そろそろ出てきてもおかしくない。」
真也はふと、亡骸となった魔物を見た。
あの魔物でさえ死闘だった。
だが、これから出会うであろう存在――界越えと呼ばれる、人を逸脱した存在はこれを遥かに超えてくる。
緊張が胃に沈む。
不安に押しつぶされそうになる。
それでも、逃げる気持ちはなかった。
この世界で、何としてでも生きると決めたのだ。
「――上等だ。来るなら、迎え撃つだけだろ?」
リィナはその言葉に少し驚いた様子だったが、真也の確かな自信を感じていた。
「!……ふふっ、いいね。」
リィナの目を見つめ、剣の鍔を強く握りしめる。
その時、風が吹いた。
赤紫の葉が、真也の肩に一枚、静かに落ちた。
鏡界での本当の試練が、始まろうとしていた。