冬のオリオンは許しのあかし
とある冬の夜、ドン底の青年に起こった、サービスエリアでの小さな奇跡の話
海沿いの高速をトラックで走って三時間。時刻は深夜二時になっていた。辛いガムを噛んで誤魔化しながら走っていたが、さすがに体力の限界が近づいてきた。
単調な白線と等間隔の照明は眠気をさそう。ふとした瞬間あくびが出た。これはまずい。自分があくびが出るとすぐに寝てしまう体質であることを中学時代の経験から知っていたので、近くのパーキングに停めることにした。ちょうどトイレにも行きたくなってきたし、昼から食べてない腹の減り具合は最高潮。同じ会社のヤツに見つかるとどやされるが、事故るよりマシだと思ってほしい。まったく、アイツらはスグに無茶な納期を押し付けやがる。
看板の案内に沿って横道に逸れると、後ろに別のトラックが入った。別の会社であることに安堵しながら、こんな時間にも働いている仲間がいることに仲間意識と同情交じりの気持ちをほんの一瞬抱いた。が、それはすぐに眠気に打ち消された。
深夜のパーキングに並んだ灯りも等間隔。高速道路というものはよくできている。まるで社会の縮図のようだと、ずっと前から感じていた。
さて、やっと手に入れた休息だが、長居する訳にはいかない。なんせ納期が詰まっている。ネット通販が流行り始めたこの時代。ちょっとでも遅れるとクレームの嵐だ。そんなわけで、朝五時までに目的の支部に届けなければならない。それはここからちょうど三時間くらいのところで、そのくらいになると交通量も増える。寝る訳にはいかないのだ。
運転席を出たとき、上司の怒鳴り声がフラバした。
──「なんでテメェはこんなこともできねえんだよ!」
視界が悪かった、道が混んでた。雨が降っていた。いろいろ理由はあるが、納期に一時間遅れた。昼間のことだ。監獄みたいな食事スペースで、周りには後輩もいる。みんなが真顔でメシ食ってる中、すんません、すんませんと馬鹿の一つ覚えみたいに謝る自分がみじめで、あのときは泣きたかった。みんなが俺を嘲笑ってる気がした。
いつも最悪だが、今日は特に最悪だった。だからこんなことを考えるのかもしれない。いや、そうでなくとも自分の人生は、いつも怒られてばかりだった。
冬の空気は身を切るように冷たい。昼間の雨で濡れた地面はそこかしこを冷やし、息が白くなって、それがハッキリ見える。反対に電気の届かないところなんかは闇が濃くて、押し潰されそうだ。ズキンと頭が痛む。だいぶよくなったと思ってたんだがなあ、ちくしょう。
不登校の頃、ちっぽけな自分は誰からも許されず、明日なんて永遠に来なければいいと思っているうち、頭痛薬が手放せなくなった。副作用でグラグラするから気が紛れて、効かなくなると薬を増やした。倒れて医者に説教された。
次に手を出したのは酒とタバコ。映画でみたせいか、ガキだった俺はそれらに〝大人の魅力〟を感じていたような気がする。けれどそんなんじゃ、少しも救われなかった。惰性で続けたせいで、今じゃ立派な酒クズ、ヤニカスだ。それでも俺は夜が怖かった。違う、毎日が怖くて仕方がなかった。今もなお。
震えと暗闇に耐えて、やっとのことで建物に着く。自動ドアからぬるい風が吹いて、その熱にすら安心する。イートインにはだれもいなかった。ホットスナックの自販機が眩しい。暗闇と光のコントラストで目がやられそうだ。
ポケットに手を突っ込んで財布を取り出そうと……して、そこはからっぽだった。慌ててすべてのポケットを確認する。出てきたのはほんの一本、ケースにも入ってないタバコと一〇〇円ライター。
たったそれだけを、泣きたいような気持ちでみつめた。そうだ、財布はロッカーに忘れたんだ。メシの時間に食いっぱぐれたから、後でと思っていれたんだ。荷物の積み下ろしのために。
深く深くため息をついて、タバコを咥えて火をつけようとしたそのときだった。ドアが開いたのは。
入ってきたのはオッサンだ。
オッサンはこっちを見ると、「おう、兄ちゃん。禁煙だぜ、ここ」と言った。ああ、何一つうまくいかない人生だ。
恥ずかしくなった。すんません、とボソッと言って外に出ようとするとオッサンに腕を掴まれる。
「まあ待てよ。……奢ってやるからさ、話さねえか?」
空腹が限界の俺が、抗えるはずもなく。
あれよあれよというまに、奢られることになった。見知らぬオッサンに。
※
自販機のホットスナックはお世辞にも質がいいものじゃない。冷凍した米はパサパサしているし、アッツアツの部分と冷たい部分の落差が大きい。ほうじ茶にしたって、普段なら味なんて気にも留めないだろうに、
「うめぇ……」
今日のそれは一味違った。それは空腹からくるものなのか、見知らぬ他人に奢ってもらったことが大きいのか。わからないが、醤油味のおにぎりは染み渡るほどうまくて、ほうじ茶は冷えた体をじんわり暖めた。
せめて礼をしようとすると、オッサンは「ん? なんだ、唐揚げも食え」と差し出した。違う、そうじゃない。
「自販機のスナックってうまいよな。俺、好きなんだ。さんざ走った後にこれ食うの」
へへ、だかはは、だかわからない愛想笑いするしかできない情けない俺は、どうしてオッサンがこんなことをしてくれたのかも聞けない。
走ったという言葉で、オッサンが同業者なんじゃないかとピンとくる。
「……俺らみたいな職種だとさぁ、店開いてなくてもあったけぇモン食えるって嬉しいよなぁ。熱の入ったモンは元気が出るよ、やっぱ。冷食でもな」
ああ、やっぱり。トラック運転手だ。
急に親近感が湧いてきた。その途端、おれの口は勝手に開いた。
「……この職種、しんどくねっすか」
咄嗟にでてきた口調は随分砕けていて、昼間に「マトモな敬語も使えない」と怒鳴られたことを思い出す。やっぱりその通りなのだ。俺は。恥ずかしくなって口を閉じようとして、喉は勝手に言葉を作る。
「遅れないのが当たり前、サビ残、安月給、パワハラ。しんどくねっすか」
口をついて出てきたのは愚痴。またやってしまった。初対面でこんなこと、話すもんじゃないのに。酒の場でもないのに。あそこには確かな無責任さがある。だからこそ、今のこれは場違いで。けれど一度溢れたドロドロの言葉は止まらなかった。ああ、オッサン、いい人なのにごめんな。
「……お前、なんかあったんか?」
なんか、なんて、ずっとあった。
急に黙り込んだ俺を、オッサンは気に留めていないような素振りで椅子にドカッと座り直す。
「そうかぁ、マ、いろいろあるよなあ、人生。長ぇもん」
人生、長ぇもん。その言葉が妙に心に残った。
そうだ、人生は長い。織田信長の頃は五〇とか言われてたのに、今はなんだ、七十八十が当たり前じゃないか。俺はこのまま生きていくのか、それならいっそ。なんて思って、死にきれないまま三十路に差し掛かってしまった俺は。
「オッサンはなんでこの仕事を?」
なんで続けていられるのか。なんで選んだのか。聞きたいことなんて、自分でも分かっていなかった。
救いを求めるように、他人の人生にすがりたかった。そうすれば、自分のみじめさがマシになる気がしたから。
「それを言うならお前から、な」
しかしオッサンは見透かしていたらしい。これがただの逃避であると。
「お前は、なんでこの仕事を?」
相手に向けた言葉が、氷柱の鋭利さで突き刺さった。
俺は、俺は。
※
アニキの出来がよすぎた。それがすべての始まりだった。
「いい子」「優等生」「あのカッコイイ男の子」。それらはすべて、アニキに向けられた言葉だった。
スポーツは万能。ジャニーズみたいに顔はいい。テストは九〇以下を取ったことないし、一度県内トップを取ったことがあるという。生まれた時から常に〝強者〟の側にいたせいで、そこに必要な傲慢さも備わっている。けどその傲慢さを、誰が諌められたというのか。
両親はアニキを愛していた。優秀なアニキを。
だからだろうか。両親は次回作を作ろうと考えた。そして生まれたのがこの俺である。
優秀なアニキの残りカスしか残らなかったようだ。両親に期待された俺はそそっかしくて、バカで、愚鈍で、どん臭くて。
とんだ期待はずれだ。
俺は見る見る間に放置されるようになった。両親の愛が優秀な子にしか向けられないと気づいたのは、小学生のころである。幼稚園時代から違和感は感じていた。たとえば、図工作品。アニキの上手い絵は一番よく見えるところに飾ってあるのに、俺の下手な絵は物置行きだ。そういうことが何度もあった。
けれど一縷の望みをかけたであろう初めてのテストでヒドイ点を取ってからは、一切口出しされなかった。ただ生かすために生かしている、という感じで。
両親は、優秀なアニキを更に優秀にしようと躍起になった。そのころ俺は学校でからかわれるようになった。
卒業してなお、優秀だったアニキのウワサは小学校に残っていた。半ば伝説として。授業参観で俺を見に来たクラスメイトの親が、ホッとした顔で帰って行ったのをよく覚えている。担任が俺に対してあからさまに厳しかったのも。俺は両親にも教師にも期待はずれだった。唯一役に立ったのは、他人の親の劣等感を紛らわせることだけ。
そういう空気は子供にも伝わる。むしろ、子供の方が敏感だ。たぶん彼らは隠そうとしていたけれど。
そのころ頭痛が始まった。毎日薬を飲む俺を、父は「病気ぶるんじゃない」と叱りつけて、更に痛みがひどくなった。倒れたのも、眠りが浅くなったのもこのころだ。
そして小五のとき、決定的な事件が起こる。
「ねえ、お兄さんは優秀なのに、なんでアンタはそうなの?」
性格のキツイ女子の言葉だった。いつものからかいだった。教室で、何人もいるときのことだった。
プツンとなにかが切れた音がした。幻の音だ。今でも鮮明に覚えている。
第二次性徴に差し掛かった体は簡単に彼女を殴り飛ばして、気づけば彼女は血を流して倒れていて、俺は押さえつけられてて。
なにかを必死に叫んでいたと思う。けど、その言葉さえ覚えていない。わかるのはただふたつ。彼女の顔に消えない傷を作ったこと。それと、両親が俺に勘当を言い渡したことだけ。
完璧超人に苛まれ続けて、ついに学校に行けなくなった。家の中は分断されていた。両親とアニキ、隔てられて俺。中学生になってもそのままだ。眠れないくせに昼間は眠くなるから、怒鳴られた。また学校に行けなくなって、そのころ髪を金色に染めた。酒もタバコも、そのころからだ。悪いヤツとつるむことが楽しかった。
俺にこんな苦難を負わせたアニキは六歳差。とうとう大学受験の歳だ。優秀だったアニキは某有名大学を受験し──
そして、落ちた。
アニキは荒れた。俺以上に。食事中にテーブルをひっくり返したり、かと思うと俺をイキナリぶん殴って罵倒したり。お前のせいで、とか言われた気がする。どうやらアニキの論理では、俺がいるのが悪かったらしい。まったく関わりがなかったのに、ナゾだ。
だが、両親はそう思わなかったらしい。とうとう俺を追い出した。ちいさなアパートを借りて、バイト暮らしを始めた。思えば、このころが一番平穏だった気がする。
来たる二度目。アニキは、またもや落ちた。そうなるともう、周囲の失望も隠せなくなる。
アニキも可哀想だった。そう思えたのは、後になってから。盲目の両親、能力があるからとお目こぼしを受けた学生時代。気づけないままアニキ自身も増長して、いつしかアニキのプレッシャーになった。「自分はできる」「君はできる」「他とは違う」と言われ続けて、思い込んで、戻れなくなってしまった。
それからは手のひら返しだ。自分が凡人であったということをアニキ自身で感じながら、また後ろ指を指されながら、両親の二〇年ものの期待を背負い続けなきゃなんなかったのだから。凡人に生まれる優秀な子なんて、得てして呪いみたいなものだろう。
母が久々に俺を訪ねてきた。かつて自信に満ちていたその顔はアザで腫れ、瞳は恐怖に震えていた。いくら辛かったとはいえ、こんなにみじめだと可哀想にもなる。身を寄せたいというなら受け入れてやる気でいた。
曰く、戻ってくれないか、と。どうやら彼らはサンドバッグをご所望らしい。
前言撤回。哀れみが消えた。とっくに絶望しきったと思ってたのになあ。スタコラサッサ。俺は急いでアパートを引き払って、それからはバイト、免許を取ってトラック運転手に。
両親の愛は、自己顕示欲のかたちに酷く似ていた。
こんなはずじゃなかったなんて、何度思ったかわからない。
※
気づくと頬が、なにか熱いもので濡れていた。自分が泣いていることを知り、堪えきれずしゃくりあげる。
「お、れは」
それから話し始めた。両親のこと。アニキのこと。学校のこと。ずっと辛かったこと──プールの栓を抜いたように、ゲロ吐くように泣いた。
そうしてひとしきり聞き終わると、オッサンはまた、
「人生、長ぇよなぁ」
と頷いた。わかってんだかわかってないんだかわからない。けれどそうだ。人生は長いのだ。俺の人生、こんなはずじゃなかった。長い人生、こんなはずではなかった。
そうなるともう、泣くしかない。なににって、みじめさに。涙腺崩壊だ。顔面事故だ。
環境が最悪だったとか、俺のせいじゃないとか、いろいろ言えるだろう。けれど、「こんなはずじゃ」を繰り返して、いつの間にか俺はこんなところまで来た。それが人生なんだって言い訳して、転がり落ちた。それ自体、俺の選択の成果だった。我慢して我慢して、手には何も残らなかった。
生きづらかった幼稚園。行きづらかった小学校。苦しかった中学生。死にたくなったフリーター。
俺は、こんなはずじゃなかった。こんなに落ちぶれるつもりはなかった。
人生を反芻して、あまりの馬鹿馬鹿しさに死にたくなる。
だって、俺はなんにだってなれたはずなのに。こんなに転がり落ちることを選択したのが俺なんだっていうなら、俺は一体なんなんだ。
ああ、ちくしょう。涙が止まらねえ。訳わかんねえことをガキみたいにしゃくりあげる。「やり直しがきかない」とか、「死にたい」とか、なんだとか。
両親だとかアニキだとか言っても、今こんなにもみじめなのは俺なんだってことを、俺はずっと気づいていたのだから。
すると、それまで黙っていたオッサンがポツリと言った。
「やり直しがきかないってのは、違うぞ」
「は、」
「やり直しはきく。生きてる限り、何度でも」
俺はそれを、よくある名言の言い換えだと思った。
「オッサンに何がわかるってんだよ! 」
知った口を聞くんじゃないなんて、恩知らずにもほざく。ほざいたとこで何も変わらないのに。オッサンは落ち着き払っていて、自分の幼さが際立つようで嫌だった。
「なんにもわかんねえさ。お前さんの人生、可哀想だとは思う。けど、腐っちまったらおしまいじゃねえか」
……それでも。
「今から何になれるってんだよ」
「なんにだってなれる」
オッサンは力強く、ノータイムで答えた。だからだろうか。そこには不思議な説得力があった。まるで、なにが起きても大丈夫だと思えるような。
拍子抜けする。随分簡単に言ってくれる、とか、オッサンだって所詮トラック運転手じゃねえか、とか。言いたいことは色々あった。
のに、言葉が出てこない。
呆気に取られた。
「……うめぇな」
オッサンがもう冷めたであろう唐揚げを指さして言った。思い出したように焼きおにぎりの醤油味が広がる。
普段はうまくもなんともなかったそれが、ただ減った腹を満たすために食ってるだけだったそれが。けれど今日は、今日だけは、心から頷けた。
だからだろうか。いつの間にか、あんなに痛んだ頭は痛まなくなっていた。
※
オッサンとふたりで外に出ると、時刻は三時を回っていた。オッサンとふたりで納期の話なんかをしながらトラックに向かうと、オッサンは入る時に見たあのトラックに乗ろうとしている。
あの中はオッサンだったのかと頷きながら、ふと俺は「それを言うならお前から」とオッサンが言ったのを思い出す。今聞いたら、答えてくれるだろうか。
「んじゃ、お前さん、元気で……ってなんだよ」
運転席に乗り込もうとするオッサンの腕を掴んで聞く。
「オッサンはなんで、この仕事を?」
今度はオッサンが呆気に取られる番だった。ほんの少しして思い出したらしい。「そんなたいした話でもねぇんだが……」と前置きをして、知ったのはオッサンが元大手のゼネコン社員だったこと。
「設計書の改ざんを命じられてな、それじゃビルが崩れちまうーっつって上司に進言して、まあ、その、」
路頭に迷った、と言った口調はあくまで軽いものだった。その軽妙さに、あんぐりあいた口がふさがらない。なるほど。その後再就職先に、ずっとなりたかったトラック運転手を始めたらしい。それも、運送会社社長として。つまりオッサンは、この歳で開業したということだ。
なるほど。そりゃ、なんにだってなれると言うはずだ。
「駐車場で見たお前の顔が、なんだか死にそうな人間に見えたんだ。そんで声かけたっつーわけさ」
俺に話しかけた理由もわかった。俺たちは、互いに互いをちょっと気にかけたらしい。この真っ暗なサービスエリアで、偶然。
「あ、そうそう」
ドアを開けて運転席に座っているオッサンは、いきなりポケットに手を突っ込んだ。なにか取り出したと思ったら、黒革のカードケースだ。
ゴソゴソすると、オッサンは紙を一枚取り出して、ほいっと俺に手渡す。
それは名刺だった。俺みたいにトラック運転手ではあまり見ることのない紙。会社員は毎日これを交換したりするんだとか。知らんけど。ともかくそこには電話番号と、オッサンの名前と会社名が書いてある。
これをどうしろとと見れば、オッサンはニヤリと笑う。
「再就職先が欲しけりゃウチに電話しろ。悪いようにはしねえ」
その顔があんまりにも悪どいものだったから、釣られて俺も笑ってしまう。引き抜きの誘いなんて、とんだワルだ。会社への忠義心とか……なんてことは、少しも思わなかった。
「すぐにでも」
と頷くと、オッサンが声を出して笑った。そりゃそうだ、と。
それから俺たちは別れて、それぞれの仕事に向かった。別々に出たはずなのに、しばらくすると前にオッサンのトラックをみつけた。
オッサンがぱちぱちと二回ハザードを点滅させたので、俺はパッシングを二回返した。秘密のやりとりのように。まだ車はいないんだ。これくらい、いいだろ?
たぶんあのトラックの中では、今ごろ豪放磊落なオッサンが、そりゃもう豪快に笑っているのだろう。
するとオッサンのトラックが車線を変更した。この先で降りるらしい。だんだん減速していたから、すれ違いざまグッドサインを送る。オッサンはウィンクで返した。それがなんとも面白くて、笑いながら手を振る。見えたかどうかはわからないけれど。
こんなに人と話せたのは久しぶりだった。じゃあな、オッサン。また後で。
窓を開けて空気を入れる。冴えた冬の空が顔面に飛び込んで来たみたいだ。涙が乾いて跡になる。視界が一気にクリアになった。冷たい空気が心地いい。
車窓の外は美しかった。ポツポツと灯る民家、遠くさざめく黒い海、夜空に光るオリオン座。景色が綺麗だと思ったのも久しぶりで、そのとき俺はようやく、若かった自分を許せたのだ。
深夜三時。目的地まであと三時間。遅れだ。きっと怒鳴られる。けれど俺は、どこか清々しい気持ちで現実を受け止めていた。