安倍由里と呪われし闇
はじめましての方も、そうでない方も、本書を手に取ってくださりありがとうございます。
『安倍由里と呪われし闇』は、平安時代を舞台にした和風ファンタジーです。陰陽師として名高い安倍晴明の孫娘・由里が、宮中の女官としての顔を持ちながら、夜には陰陽師として人知れず活躍し、四神とともにさまざまな事件に挑む物語となっています。
由里は、明るく天真爛漫でありながら、数奇な運命を背負う少女です。そんな彼女を取り巻くのは、彼女を溺愛する家族、忠誠を誓う四神、そして彼女の前に立ちはだかる強敵たち……。その中でも特に重要な人物が、蘆屋道満の孫・夢幻。彼は由里とは対極にあるようでありながら、どこか惹かれ合う不思議な関係となっていきます。
本作では、平安時代の文化や陰陽道の世界観を織り交ぜながら、ミステリーやアクション、そしてキャラクターたちの心の機微を描いていきます。読んでくださる皆様に、当時の雅やかさと妖しさが入り混じる世界を楽しんでいただけたら幸いです。
それでは、由里と四神、そして夢幻が織りなす物語の幕開けをお楽しみください。
著者:藍沢かれん
第一章 幻影の訪れ
1 都の闇
平安京、大内裏。
そこは貴族たちが優雅に暮らし、華やかな歌が詠まれる場所。紫宸殿の庭には桜が咲き乱れ、雅な時が流れている。しかし、その華やかさの裏には、誰も知らぬ「闇」があった。
この都には、怪異が潜み、呪詛が飛び交う。人々の目に見えぬ影の中で、陰陽師たちは戦い続けていた。
そして、その陰陽師の一人――いや、一人とは言い難いかもしれない。
彼女の名は、安倍由里。
名家・安倍家に生まれ、祖父である安倍晴明の血を引く少女。だが、彼女は兄たちのように正式な陰陽師として認められてはいなかった。女性であるがゆえに、陰陽道を表立って振るうことは許されず、昼は宮中の女官として働き、夜には密かに陰陽師として都の闇を祓う。
由里の力は本物だった。彼女には四神――朱雀・青龍・白虎・玄武という強大な守護者がついている。彼らは絶対的な忠誠を誓い、由里を主として認めていた。
しかし、彼女の戦いは決して表に出ることはない。
それが、**「女陰陽師」**という立場だった。
2 呪詛の依頼
「――今日は貴族の屋敷から依頼が来ている。」
安倍家の屋敷で、由里は兄の安倍時親からそう告げられた。
「また呪詛の依頼?」
「そうだ。今度はかなり強力らしい。すでに幾人もの陰陽師が手を出したが、誰も解くことができていない。」
由里は眉をひそめた。最近、都では不可解な呪詛が増えている。しかも、その呪詛は異様なほどに強い。まるで、何者かが意図的に都を乱そうとしているかのように。
「私が行くよ。」
「……気をつけろよ、由里。」
時親は由里の実力を認めているものの、陰陽師としての戦いは決して甘いものではないことも知っている。だが、由里はそんな兄の心配をよそに、すぐに準備を整え、夜の都へと向かった。
朱雀が陽気な声で言った。
「主が行くなら、俺たちも当然同行するぞ!」
青龍が軽くため息をつきながら頷く。
「当然だな。我らが主を一人で行かせるわけにはいかない。」
白虎は無言でうなずき、玄武も静かに後をついていった。
こうして、由里と四神は呪詛の調査に向かうことになった。
3 妖しき影
その頃、ある男が闇の中でほくそ笑んでいた。
「そろそろ来る頃か……安倍晴明の孫が。」
闇の帳の中、紅の衣を纏った青年が、静かに呪符を指先で弄んでいた。
蘆屋夢幻。
蘆屋道満の孫であり、闇の陰陽師として知られる男。彼は安倍晴明を陥れるため、静かに暗躍していた。
「さて……お前は、俺の術にどこまで抗えるかな?」
夢幻の唇に浮かんだ笑みは、どこか寂しげだった――。
第二章 妖しき影
1 夜の出会い
夜の都。
月の光が雲の切れ間から覗き、静寂の中で虫の音だけが響いている。由里と四神は貴族の屋敷へ向かっていた。
「……この呪詛、何か妙ね。」
玄武が冷静に分析する。
「確かに。ただの呪詛ではない。術者の意図がはっきりしている。標的をじわじわと追い詰める呪い……これは、並の陰陽師の仕業ではないな。」
由里は考え込む。都には多くの陰陽師がいるが、この規模の呪詛を扱える者は限られる。そして、その筆頭に浮かび上がる名前――
「蘆屋道満……」
由里が呟いた瞬間、不意に空気が張り詰めた。
「正解だ。」
闇の中から、ふっと現れた人影があった。
紅の衣を纏い、涼しげな目元に妖艶な微笑を浮かべる青年。風が長い黒髪を揺らし、その立ち姿は貴族のように優雅で、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
「……あなたが……蘆屋夢幻?」
由里は警戒しながら、夢幻を見据えた。
「ご名答。」
夢幻はゆっくりと歩み寄る。その動作には敵意がないように見えるが、由里の本能が告げていた。この男は、危険だ。
「安倍晴明の孫――そして、夜の陰陽師。お前が噂の由里か。女でありながら、陰陽道を使いこなすとは……面白い。」
「……私に何の用?」
由里が問うと、夢幻は片手を上げて肩をすくめた。
「ただの挨拶さ。敵意はない。」
しかし、その言葉とは裏腹に、夢幻の周囲には微細な呪力の流れがあった。まるで試すように、彼はわずかに術を練っている。
「……敵意がないなら、呪力を抑えなさい。」
「はは、さすが安倍家の娘。よく見えているな。」
夢幻はわざとらしく笑いながら、術を解いた。
「ふむ……確かに、少し試したくなったのは事実だ。だが、お前の強さは想像以上だった。これは……興味深い。」
その言葉に、朱雀がすかさず反応した。
「おいおい、勝手に俺の主を品定めしてんじゃねえぞ?」
夢幻は朱雀を一瞥し、愉快そうに笑った。
「四神……本当に従えているとはな。ますます面白い。」
青龍が静かに警告する。
「これ以上、馴れ馴れしくするな。」
だが、夢幻は微笑みを崩さなかった。そして、由里をじっと見つめたまま、まるで何かを確かめるように口を開く。
「……まあいい。お前のことは、これからじっくり知るとしよう。」
「なに?」
「また会おう。」
そう言うと、夢幻の姿は霧のようにかき消えた。
由里はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(何を考えているの……?)
彼の意図が読めず、得体の知れない不安が胸をよぎる。
しかし、由里はまだ知らなかった。
この瞬間から、夢幻の中に生まれた感情が、彼を大きく変えていくことを――。
2 夢幻の胸に宿るもの
夢幻は静かな屋敷の庭に立っていた。
手には、小さな呪符。
それを弄びながら、彼は独り言のように呟く。
「安倍由里……面白い女だ。」
初めて出会った時、彼はただの興味本位だった。安倍晴明の孫でありながら、女であるという矛盾。四神を従える異質な存在。
しかし、実際に目の前に立った彼女は、彼の予想をはるかに超えていた。
「俺は……何を考えている?」
由里のあの真っ直ぐな目。敵か味方かを見極めるような鋭さ。だが、そこにあったのはただの警戒ではない。由里は、決して人を安易に敵と決めつけることをしない。
「……馬鹿な女だ。」
夢幻は自嘲気味に呟く。
(俺は、お前の祖父に呪詛をかける者だぞ?)
そう思いながらも、彼の心にはほんのわずかな「迷い」が生じていた。
だが、その迷いを振り払うように、彼は呪符を握りしめた。
「これで……決着をつける。」
彼の次の標的は、安倍晴明。
そして、彼の知らぬ間に、その先に待つ運命が、静かに動き出していた。
第三章 呪詛の標的
1 静寂の夜に忍び寄る影
都の夜は、静寂に包まれていた。
満月が雲間から覗き、安倍家の屋敷に淡い光を落としている。
その屋敷の奥深く――そこに、この時代最も偉大な陰陽師、安倍晴明がいた。
書物を開き、穏やかな眼差しで呪符を並べている。その様子は、まるで千里先の未来を見通しているかのようだった。
そんな彼の背後に、黒き影が忍び寄る。
「……安倍晴明。」
低く囁かれた声が、静寂を破る。
晴明は、振り返ることなく呟いた。
「……来たか。」
現れたのは、蘆屋夢幻。
その手には、呪詛が込められた符が握られている。
「さすがに気づいていたか。」
「当然だ。お前が私を狙っていることなど、初めから分かっていた。」
晴明は静かに立ち上がり、夢幻を見据える。
「お前が私を討とうとする理由もな。」
その言葉に、夢幻の表情が一瞬揺らぐ。
「……知ったようなことを。」
だが、夢幻は迷いを振り払い、符を放った。
「黙れ……これで終わりだ!」
符が宙を舞い、呪詛が発動する。
だが、次の瞬間――
「なっ……!?」
夢幻の目の前で、符は晴明に届く前に霧のように消えた。
「何……?」
「愚かだな。」
晴明はため息をつくように言った。
「お前の呪詛は、未熟だ。」
夢幻の呪詛は、彼自身の心の迷いによって、すでに破綻していた。
だが――
「……!!」
突如、夢幻の身体に異変が起こる。
「ぐっ……!?」
呪詛の気が逆流し、彼の体内を蝕み始めた。
「まさか……俺が、呪詛に……!?」
それは、彼が仕掛けた呪詛が自身に返ってきた証。
「お前の呪詛は、お前自身を喰らうぞ。」
「くっ……!」
夢幻の体から黒い靄が立ち昇る。
意識が遠のき、足元が崩れていく感覚。
(まずい……このままでは……)
そんな中――
「待って!」
必死の声が、夢幻の耳に届いた。
2 由里の決断
由里が駆け込んできたのだ。
「……由里?」
「あなた、何をしてるの!?」
由里は迷わず夢幻に駆け寄る。
「近寄るな……!」
夢幻は必死に言うが、由里は無視した。
「このままじゃ、あなたが呪詛に呑まれる!」
「……それでいい。」
「何を言ってるの!?放っておけるわけないでしょう!」
由里は懸命に呪詛を解こうとする。
「やめろ……俺なんか……助ける価値はない……!」
だが、由里は真剣な目で言った。
「そんなの、関係ない。」
その言葉に、夢幻の心が揺らぐ。
「……なぜ、そこまで……?」
「……知らないわよ。ただ、私は……目の前で苦しんでいる人を見過ごせないだけ。」
そう言って、由里はさらに呪詛を解いていく。
(……何なんだ、この女は。)
(俺は、安倍晴明の孫を敵視していたのに……)
(……こいつは、俺を助けようとしている……?)
夢幻は、初めて混乱した。
(俺は、何をしているんだ……)
やがて、呪詛が消え、夢幻の体から黒い靄が抜けていく。
「……もう、大丈夫。」
由里は、ほっと息をついた。
だが、夢幻は呆然としたまま、由里を見つめていた。
(……俺は……)
この時から、彼の心に変化が生まれ始めたのだった。
第四章 闇と光の狭間で
1 朝陽とともに
京の朝は、夜の静寂とはまるで異なる活気に満ちていた。
宮中の回廊には、色鮮やかな衣をまとった女官たちが行き交い、そこかしこで笑い声や話し声が飛び交っている。
その中に、一人の少女――安倍由里の姿があった。
彼女は、昨夜の出来事を胸に秘めながらも、表面上は何事もなかったかのように振る舞っていた。
「由里様、おはようございます!」
「おはよう、桜子。」
微笑みながら挨拶を返すと、女官の一人が心配そうに囁いた。
「また夜更かしをなさったのでは?少しお疲れのご様子ですが……」
由里は苦笑した。
(やっぱり、隠しきれてないか。)
昨夜は、夢幻の呪詛に対処し、彼を助けた。その影響でほとんど眠っていない。
だが、そんなことは言えない。
「ちょっと夜更かししちゃっただけよ。気にしないで。」
「本当に大丈夫ですか?」
「もちろん。」
そう言って、由里は手に持っていた文を広げた。
女官としての仕事は、決して楽なものではない。
貴族からの依頼を取りまとめ、宮中の儀式や行事の準備をし、必要に応じて文を届ける。
陰陽師としての活動とはまるで別の世界だが、由里はこの生活を嫌いではなかった。
むしろ、女官としての穏やかな時間は、彼女にとっての**「光」**だった。
(でも……)
夢幻のことが頭をよぎる。
(あの人、今どうしてるんだろう……)
まさか、自分が助けた相手を気にしてしまっているのか?
「……いやいや、違う違う!」
首を振り、気を引き締める。
「由里様?」
「な、何でもない!」
(考えたって仕方ない。とにかく、今は仕事に集中しないと。)
だが、彼女はまだ知らなかった。
すぐに、彼女を待ち受けるのは兄たちの尋問であることを――。
2 兄たちの疑念
昼の仕事を終え、安倍家の屋敷へ戻ると、待っていたのは兄たちの厳しい視線だった。
「由里。」
「……あ、時親兄上。」
彼女の前に立っていたのは、長兄・安倍時親と次兄・安倍章親。
二人とも険しい顔をしている。
(あ、これ……絶対バレてる。)
由里は逃げ場を探したが、すでに遅かった。
「お前、昨夜のこと……説明してもらおうか?」
「……ええっと……」
時親の声は低く、章親は腕を組んで睨んでいる。
「女官として宮中に仕えている身でありながら、夜中に危険な場所へ行くとはどういうことだ?」
「まさか、夢幻とかいう奴を助けたってわけじゃないだろうな?」
ズバリ核心を突かれ、由里は言葉を詰まらせた。
「……そ、それは……」
兄たちの怒りは、夢幻に向いているのは明白だった。
「そもそも、なぜ夢幻があの場にいた?」
「それは……」
「言え。」
「……夢幻が、おじい様に呪詛をかけようとしていたの。」
その瞬間、二人の表情が凍りついた。
「……何だと?」
「許せん……!」
時親の拳が震え、章親は忌々しげに顔をしかめる。
「そいつを、どうした?」
「私が……助けたの。」
「……は?」
「夢幻は、呪詛が自分に返ってきて、呑まれかけていたの。放っておけなかったから……」
「由里!!」
時親が机を叩く。
「なぜ、そんな奴を助ける!?」
「……だって……」
「甘いぞ、由里!!」
時親の声は、普段の穏やかなものではなかった。
「俺たちは、あの男を決して許さない。そんな奴を助けるなど、愚の極みだ!」
「でも……!」
由里は言い返そうとしたが、章親が口を開いた。
「由里、お前は優しすぎる。」
「……。」
「だが、それが命取りになることもある。次は――必ず、俺たちの許可を得ろ。」
(……本当は、もう何かするなって言いたいんだろうな。)
由里は、黙って頷くしかなかった。
だが、彼女の心の中には、確かに引っかかるものがあった。
「……夢幻は、本当に敵なの?」
「……何?」
「……分からないの。ただ……彼の瞳が、少しだけ寂しそうに見えたの。」
兄たちは何も言わなかった。
だが、彼らの答えは、もう決まっている。
夢幻は、敵だと――。
3 夢幻の葛藤
一方その頃、夢幻は安倍家の屋敷の外れで佇んでいた。
(……何をやってるんだ、俺は。)
由里の言葉が頭から離れない。
「放っておけるわけないでしょう!」
なぜ、あの時あの娘は俺を助けた?
なぜ、俺はあの娘の手を拒まなかった?
夢幻は、自分の心が揺らいでいることに気づいていた。
(俺は、安倍晴明の孫を……敵を……意識している?)
「……ふざけるな。」
だが、彼の胸の奥で確かに何かが変わり始めていた――。
第二章「蠢く運命」
大内裏の朝は早い。まだ日が昇り切らぬ薄明の時間、静けさを纏った回廊を、女官たちが忙しく行き交う。安倍由里もまた、その一人だった。
彼女は安倍晴明の孫でありながら、陰陽寮ではなく大内裏に仕える女官という立場にある。誰しもが「由里が男であったなら、きっと陰陽寮で名を馳せる陰陽師となっていただろう」と口にするほどの才を持ちながらも、由里自身はそれを笑って受け流していた。
「おはようございます、由里様」
馴染みの女官たちが挨拶を交わす。彼女は明るく、誰にでも分け隔てなく接するため、宮中でも多くの者に慕われていた。
「おはようございます。今日は帝にお茶をお持ちする当番ですね?」
「はい、緊張します…」
「大丈夫ですよ。帝は優しい方ですし、それに、慣れてしまえばなんてことはありません」
微笑みながら、由里は女官を励ます。そんな彼女の姿を、遠くから見つめる影があった。
***
昼の務めを終え、由里は陰陽寮へ向かっていた。帝からの依頼を伝えるため、安倍家の長男である安倍時親のもとへと足を運ぶ。
陰陽寮の門をくぐると、厳かな空気が満ちている。そこは、昼間でもどこか薄暗く、常に神秘的な雰囲気が漂っていた。
「おお、由里か」
由里が陰陽寮の廊下を進んでいくと、見知った顔が現れた。安倍家の次男、安倍章親だ。
「兄上、お久しぶりです」
「お前こそ、最近は宮中の務めが忙しいのではないか?父上もたまには顔を見せよと言っていたぞ」
「父上にもよろしくお伝えください。今日は帝からの依頼を持って参りました」
由里が巻物を差し出すと、章親はそれを受け取りながら「時親兄上のところへ行くといい」と言った。
***
「由里か、入れ」
兄であり、安倍家の長男でもある安倍時親は、陰陽寮の一室で巻物を広げ、何やら調べていた。
「帝からの依頼をお持ちしました」
「ご苦労だったな。しかし、女官の務めの傍ら、こうして陰陽の世界にも関わるとは…やはり、お前が男であったならば」
「もう、またですか?私は女官としての務めも気に入っていますよ」
由里は笑うが、時親は複雑な表情を見せた。
「由里、お前は…危険なことには関わるな。今のままで良い」
「…兄上?」
「何でもない。それより、今宵の宮中での異変には気をつけるのだぞ」
時親の言葉に、由里は少しの違和感を覚えた。兄は何かを知っているのではないか――そんな気がしたのだ。
***
陰陽寮を出た由里は、途中である人物と出くわした。
「やあ、由里」
声の主は鷹宏だった。安倍晴明の弟子にして、由里の幼馴染でもある青年。由里と同じく陰陽道を学ぶ身だが、立場上、彼は陰陽寮の正式な陰陽師として活動している。
「久しぶりね、鷹宏」
「お前の兄上方に会っていたのか?」
「ええ、帝の依頼を持ってね」
「ふむ…」
鷹宏は腕を組みながら、「最近、陰陽寮内でも不穏な噂が流れている」と呟いた。
「不穏な噂?」
「ああ。何やら強力な呪詛が宮中にかけられているらしい。しかも、それを仕掛けたのは――」
「――蘆屋道満」
由里がその名を口にした瞬間、鷹宏は驚いたように目を見開いた。
「何故、それを?」
「兄上の様子が少しおかしかったの。それに、陰陽寮の空気もいつもと違う。おそらく、道満の動きが活発になっているのでしょう」
鷹宏はしばらく沈黙した後、「今夜は気をつけろ」と忠告した。
***
夜になり、由里は宮中のある一角へと向かっていた。
そこでは、不穏な気配が渦巻いていた。
「…これは」
空気が淀み、まるで何かに侵されているかのようだった。
その時、不意に黒い影が現れた。
「まさか…!」
由里の前に現れたのは、あの男だった。
「久しいな、安倍由里」
低く、どこか甘やかな声が響く。
「蘆屋夢幻…!」
由里はすぐに構えを取る。
「どうしてここに?」
「決まっているだろう。お前たちの大切な者に呪詛をかけるためだ」
夢幻の手には、黒い符があった。
「…まさか」
その符が、まさに今、安倍邸にいる 安倍晴明 に向けられたものであると気づいた時――。
由里の心臓が、大きく鳴った。
第三章「呪詛の影」
「安倍晴明に呪詛をかける?」
由里の声が、夜の静寂を切り裂いた。
蘆屋夢幻は薄暗い月の光を背にして、どこか楽しげに微笑んでいた。その姿は妖艶で、まるで闇に生きる者そのものだった。
「そうだ。お前の祖父、安倍晴明――やつの力はあまりに強すぎる。俺の祖父がそうであったようにな」
その言葉に、由里の目が鋭くなる。
「あなたの祖父、蘆屋道満は…」
「負けた。安倍晴明に、な」
夢幻は低く呟いた。だが、その声には怒りや悔しさよりも、どこか冷めた諦めのような響きがあった。
「だからお前も、俺を止めるか?」
由里は迷わず懐から符を取り出し、印を結んだ。
「当然です。あなたが何を企んでいようと、祖父に手を出させるわけにはいかない!」
その瞬間、夢幻の目が細められる。
「ならば、力で止めてみろ」
闇が蠢く。夢幻が手をかざすと、黒い気が空間に広がり、まるで周囲の空気そのものを侵食していくかのようだった。
(この気配…ただの呪詛ではない。もっと深い、もっと邪悪な何か…!)
由里は素早く印を結び、呪を唱えた。
「破邪顕現!」
光の符が舞い、由里を包み込む。その瞬間、夢幻の放った呪詛が弾かれ、辺りに散った。
「ほう…なかなかのものだな」
「当たり前です。あなたのような者に、負けるわけにはいきません!」
だが、夢幻は余裕の表情を崩さない。それどころか、どこか楽しそうに由里を見つめていた。
「…ならば、お前に問おう」
「…?」
「お前は、本当に安倍晴明が“無敵”だと思っているのか?」
由里の表情が凍る。
「…何が言いたいの?」
「俺の呪詛が効かぬと、果たして言い切れるか?」
その言葉と同時に、夢幻が掌を翻す。すると、黒い符が舞い、夜空へと消えた。
「しまった!」
由里はすぐに動き出した。晴明がいる安倍邸へ向かうため、宮中を飛び出す。
(間に合って…!)
だが、走る途中、背後からの視線を感じた。
振り返ると、そこには夢幻が立っていた。
「…逃がすと思うか?」
彼は微笑んだ。だが、その瞳の奥には、燃え上がるような感情が宿っていた。
***
安倍邸に到着したとき、結界が揺れていた。
「おじい様!」
由里が駆け込もうとすると、先に屋敷から姿を現したのは、兄の安倍時親と章親だった。
「由里!」
「兄上!」
「どういうことだ、何があった?」
「蘆屋夢幻がおじい様に呪詛を…!」
その瞬間、屋敷の奥から不気味な音が響いた。
「…来るぞ」
時親が刀を構える。章親も符を取り出し、戦闘態勢をとる。
そして――屋敷の奥から、黒い影が滲み出た。
「…呪詛は、確かに届いているな」
その影の中から歩み出たのは、夢幻だった。だが、様子がおかしい。彼の体の周囲を黒い気が覆い、その瞳は赤く光っていた。
(呪詛が…彼自身を蝕んでいる!?)
由里はすぐに悟った。夢幻は強力な呪詛を使いすぎたせいで、自らが闇に呑まれかけていたのだ。
「…くっ…!」
夢幻が苦しげに膝をつく。彼の体が徐々に闇に包まれていく。
「夢幻!」
由里は駆け寄ろうとしたが、時親がそれを制した。
「行くな、由里!あいつは敵だ!」
「でも…!」
「…俺は…敵か?」
闇に侵されながらも、夢幻は微笑んでいた。だが、その微笑みはどこか哀しげだった。
「このまま…俺は…」
闇が彼を覆い尽くそうとした瞬間、由里は決断した。
(見過ごせない…!)
「破邪浄化!」
彼女は強く符を握りしめ、夢幻の体に向けてそれを放った。すると、光の波が広がり、彼を包み込む。
「…っ!」
夢幻の顔が苦悶に歪む。
「何を…している…」
「放っておけるわけないでしょ!」
由里は必死だった。彼のことを許したわけではない。だが、このまま闇に呑まれさせることもできなかった。
「…私は、祖父の因縁なんて関係ないと思っている。あなたが蘆屋道満の孫であろうと、そんなの関係ない」
「……」
「だから…あなたがどうするか、私に見せてよ!」
由里の手が、夢幻の手を握る。
第四章「交わる運命」
由里の手が夢幻の手を握った瞬間、黒い気が激しく揺らめいた。まるで意思を持っているかのように、夢幻の体を包み込もうと蠢く。
「…くっ…!」
夢幻は歯を食いしばる。彼の体に絡みついた呪詛は、今もなお彼を闇へと引きずり込もうとしていた。
「…このままじゃ…俺は…!」
彼の声はかすれていた。その目には、かつての余裕はなく、代わりに焦燥と苦悶が浮かんでいた。
由里は迷わなかった。
「破邪浄化!」
再び符を掲げ、強く念じる。
すると、光が夢幻の体を包み込み、黒い気が弾かれるように散っていく。
「…ぐっ…!」
夢幻が膝をつく。彼の周囲を覆っていた呪詛は薄れ、やがて完全に消滅した。
「…間に合った…」
由里は大きく息を吐いた。
「……なぜ、助けた?」
息も絶え絶えに、夢幻が呟く。
「あなたが…闇に呑まれるのを、見過ごせなかったから」
由里は静かに答えた。
「私にとって、祖父とあなたの祖父の因縁は関係ない。私たちは、私たち自身の道を選ぶべきよ」
その言葉に、夢幻の目が揺れる。
(…こいつは…なんなんだ…?)
彼にとって、由里は異質な存在だった。
これまで夢幻が出会ってきた陰陽師たちは、自分のことを「道満の孫」としてしか見なかった。
彼がどれほど力を持とうと、どれほど努力しようと、その評価は変わることがなかった。
だが――この少女は違う。
「…お前、ほんとうに変わってるな」
夢幻は力なく笑った。
「そう?」
由里は首を傾げる。
「まぁ…礼は言っておく」
「ふふ、素直じゃないわね」
由里がくすっと笑うと、夢幻は面白くなさそうに顔を背けた。
***
「…由里、説明してもらおうか?」
突然響いた低い声に、由里はハッと振り返った。
そこには、兄の時親と章親が立っていた。
「兄上…!」
「お前、夢幻を助けたな?」
時親の目は鋭かった。
「…ええ、助けました」
由里はまっすぐに答える。
「こいつは敵だぞ。お前もわかっているだろう?」
「……でも、見捨てることはできませんでした」
由里の瞳に迷いはなかった。その様子に、時親はため息をつく。
「お前は昔からそうだな。誰に対しても優しすぎる」
「……」
「由里、俺たちはまだこいつを許したわけじゃないぞ」
章親が低い声で言う。
「邸に出入りすることも、本来なら認めるべきではない」
「でも、おじい様は…」
「おじい様は別だ」
章親の声が少し強まる。
「俺たちは、まだこいつを信用できない」
由里は黙った。
(…やっぱり、すぐには受け入れられないか)
彼女は兄たちの気持ちを理解していた。夢幻が晴明に呪詛をかけようとしたことは事実であり、安倍家の者として、許せるものではない。
「……わかったわ。兄上たちの気持ちも尊重する。でも…」
由里は夢幻の方を振り返った。
「私は、彼を見極めたい」
夢幻の瞳がわずかに見開かれる。
「……勝手にしろ」
時親は呆れたように言い残し、その場を後にした。章親も、最後まで夢幻を睨みつけたまま、後を追う。
***
その後、由里は邸の奥にいる晴明のもとへ向かった。
祖父の部屋に足を踏み入れると、晴明は静かに香を焚いていた。
「おじい様…ご無事ですか?」
「ふむ、あれしきの呪詛でどうにかなるほど、私は衰えておらぬよ」
晴明は穏やかに微笑んだ。
「それよりも、どうやら“面白いもの”を見せてもらったようだな」
「え?」
由里が目を瞬かせると、晴明はゆっくりと立ち上がる。
「蘆屋夢幻。彼がどう動くか、しばらく様子を見るのも一興だろう」
「…おじい様は、彼を許しているのですか?」
「許すも許さぬもない」
晴明は静かに答えた。
「彼が“どう生きるか”――それを見届けることが大事なのだ」
由里はその言葉の意味を噛みしめた。
(…おじい様も、夢幻を見極めようとしているのね)
彼女は小さく頷いた。
「では、私も見守ります」
「うむ。由里、お前の目で確かめるがよい」
***
その夜――
夢幻は、屋敷の庭で静かに月を見上げていた。
(…俺は、何をしているんだろうな)
安倍晴明に呪詛をかけようとしたはずだった。
それが、なぜか安倍由里に救われている。
(…馬鹿な女だ)
夢幻は小さく呟いた。
(だが…気になる)
彼女の言葉、彼女の行動――すべてが、これまで関わってきた人間とは違った。
そして何より――
(…あの手の温もりが、頭から離れない)
彼は自分の手を見つめ、そっと握る。
その瞬間、胸の奥で妙な感情が広がった。
(……これは、なんだ?)
その感情の正体を、夢幻はまだ知らなかった。
しかし、この日を境に――彼の心には、確かに変化が生まれ始めていた。
***
第五章「新たなる旅立ち」
安倍邸に夜の静寂が訪れる頃、一人の青年が屋敷の庭に立っていた。
月明かりに照らされるその姿はどこか儚げで、どこか寂しげだった。
――蘆屋夢幻。
彼はふと、開いた手のひらを見つめる。そこには、まだ微かにあの温もりが残っている気がした。
(……馬鹿な)
思わず舌打ちし、拳を握りしめる。
呪詛をかけるはずだった安倍晴明の孫娘・由里。
彼女はなぜ自分を助けたのか。なぜあんなにも真っ直ぐに、自分に手を差し伸べたのか。
――「私は、あなたを見極めたい」
その言葉が頭から離れなかった。
(……見極める、だと?)
あんな風に言われたのは初めてだった。
彼はこれまで、憎しみと敵意の視線しか向けられたことがなかった。
蘆屋道満の孫として生まれた時から、世間は彼を「安倍晴明の敵」としてしか見なかった。
だが、由里は違った。
彼女はまるで、夢幻という「個人」を見ようとしているようだった。
(……くだらん)
自分の中に芽生えつつある感情を振り払うように、彼はそっと息を吐く。
すると、背後から静かな声が聞こえた。
「まだ帰らないの?」
振り向けば、そこには由里が立っていた。
「……安倍の屋敷に長居する義理はない」
夢幻は冷たく言い放つ。
だが由里は気にする様子もなく、彼に歩み寄った。
「でも、おじい様はあなたのことをしばらく見極めるつもりみたいよ?」
「……ふん。安倍晴明に観察されるとは、光栄なことだな」
皮肉めいた笑みを浮かべる夢幻。
由里はそれに対して、ふっと微笑む。
「だったら、私たちと一緒に仕事をしてみない?」
「……は?」
思わぬ提案に、夢幻は眉をひそめる。
「今、貴族の間では呪詛による事件が相次いでいるの。陰陽寮の仕事だけでは手が回らなくて、個人的に依頼を受けることも多いのよ」
「だから?」
「あなたも来て、一緒に解決してみない?」
由里はいたずらっぽく笑う。
「もちろん、あなたが協力するかどうかは自由よ。でも…」
彼女はそっと夢幻の目を覗き込んだ。
「あなたはきっと、まだ迷っている」
「……っ」
夢幻は無意識に息を飲んだ。
この女は、まるで人の心を見透かすかのようだ――
「別にいいわ。無理にとは言わない。でも、もし一緒に来る気があるなら…」
由里は一歩、夢幻に近づく。
「“仲間”として迎えてあげる」
夢幻は驚いたように目を見開く。
(…仲間、だと?)
由里の言葉には、まるで敵意がなかった。
その瞳に映る自分は、「蘆屋道満の孫」ではなく、「蘆屋夢幻」という一人の人間だった。
それが――妙に心地悪くて、妙に気になった。
「……考えておく」
そう言い残し、夢幻は闇の中へと姿を消した。
***
翌朝――
由里は女官としての仕事に向かうため、早朝から大内裏へと向かっていた。
その隣には、同じく陰陽師であり、幼馴染でもある鷹宏がいた。
「昨日のこと、兄上たちに怒られたんだって?」
「ええ、まぁ…」
由里は苦笑する。
「そりゃあそうだろうな。蘆屋夢幻を助けるなんて、正気を疑うぞ」
鷹宏は呆れたようにため息をつく。
「でも…私は彼を見極めたいの」
由里は真剣な表情で言った。
「夢幻は敵なのか、それとも――」
「敵じゃない可能性もある、ってことか?」
鷹宏は腕を組む。
「ふぅん…お前らしい考え方だな」
「ねえ、鷹宏はどう思う?」
「俺か?」
鷹宏は少し考え込み、やがて口を開いた。
「まだ信用できるとは思わない。でも、由里が言うように見極める価値はあるかもな」
「ありがとう、鷹宏」
由里は嬉しそうに微笑んだ。
そんな彼女の横顔を見て、鷹宏は少し複雑な表情を浮かべる。
(……ったく)
彼は軽くため息をつき、頭をかく。
「ま、せいぜい気をつけろよ。俺はお前が無茶しないように見張っておくからな」
「ふふ、頼もしいわ」
由里は微笑みながら、大内裏へと足を進めた。
***
その頃――
屋敷の外れで、夢幻は静かに空を見上げていた。
(…仲間、ね)
由里の言葉が、まだ頭の中に残っていた。
彼は長い間、「敵」として生きてきた。
だが、もし――もしも違う道があるとしたら。
(……)
夢幻はゆっくりと歩き出す。
その先に何が待っているのか、彼自身もまだ知らない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
それは――彼の心に、新たな感情が芽生え始めているということ。
こうして、由里と夢幻の物語は、新たな局面へと向かっていくのだった。
第一章「新たな依頼」
都に流れる風は、どこかざわついていた。
最近、貴族たちの間では妙な噂が広がっている。
「夜な夜な屋敷の庭に妖が現れ、家人を脅かしている」
「奇妙な声が聞こえ、屋敷に住む者が次々と体調を崩している」
そんな話が増えていた。
陰陽寮にも依頼が殺到していたが、公的な仕事だけでは手が回らないため、私的な依頼として陰陽師たちが個別に対応することも多かった。
「由里、また依頼が来たぞ」
陰陽寮の一角で、鷹宏が巻物を手に由里に近づいた。
「今度はどこ?」
「藤原家の分家筋。屋敷に不可解な現象が続いているらしい。呪詛か、あるいは妖の仕業か…」
「ふむ…」
由里は巻物を開き、詳細を確認する。
「かなり広範囲に影響が出てるわね。となると、普通の妖というより、何か強いものが関与している可能性が高いわ」
「俺もそう思う。だから、お前一人じゃなく、俺も同行する」
鷹宏は腕を組み、由里を見つめた。
「ふふ、頼もしいわ。でも…」
由里は意味ありげに微笑むと、視線を庭の方へ向ける。
「どうやらもう一人、同行したがっている人がいるみたいね?」
「……」
鷹宏も目を向けると、庭の木陰に凭れかかる青年の姿があった。
「へぇ、もう動く気になったのか?」
「……気が向いただけだ」
木陰から姿を現したのは、蘆屋夢幻だった。
彼は面倒くさそうに前髪をかき上げながら、由里を見下ろす。
「お前がまた面倒ごとを引き受けるだろうと思ってな」
「ふふ、ありがとう。じゃあ、一緒に行くのね?」
「別にお前を助けるためじゃない。自分の興味のためだ」
「はいはい、そういうことにしておくわ」
由里はくすっと笑う。
鷹宏は呆れたようにため息をつき、腕を組んだ。
「お前、本当にこいつを信じてるのか?」
「まだ完全に、とは言えないわね。でも…」
由里は夢幻を見つめる。
「彼は少なくとも、私を害するつもりはないと思うわ」
夢幻は僅かに目を逸らした。
(……なんでこいつは、こんなにまっすぐなんだ)
「さて、話を戻しましょうか」
由里は巻物を閉じ、改めて二人を見た。
「今回は私たち三人で向かうとして…四神たちも呼んでおこうかしら」
その言葉を聞いた途端、空気が変わった。
突然、風が舞い上がる。
「待ってました!」
炎のような赤い髪が翻る。
「主よ、我を呼んだな!」
現れたのは、四神の一柱・朱雀だった。
続いて、涼やかな声が響く。
「まったく…お前が暴れなければいいがな」
水色の髪の青年・青龍が現れる。
白き髪が揺れ、美しい姿をした白虎が、静かに目を細めた。
「面白そうね」
最後に、緑色の髪を後ろで束ねた玄武が、冷静に頷いた。
「ふむ、今回もまた厄介ごとのようだな」
四神たちが現れる様子を、夢幻は興味深げに見つめていた。
(これが…四神。確かに並の式神とは格が違うな)
「さて、ではみんなで出発しましょう!」
由里の号令のもと、一行は依頼の屋敷へと向かっていった。
新たな事件、そして――夢幻にとっての新たな旅立ちが始まるのだった。
第二章「呪詛の気配」
都の外れに位置する藤原家の分家の屋敷は、格式高い佇まいをしていた。しかし、その敷地内には不穏な空気が漂っていた。
由里たちが屋敷の門をくぐると、執事らしき老齢の男が慌ただしく駆け寄ってくる。
「お待ちしておりました、安倍様!」
「ご依頼を受けてまいりました。詳しい話を聞かせていただけますか?」
由里がにこやかに尋ねると、執事は恐縮しながら深く頭を下げた。
「はい…。実はここ数日、屋敷の者たちが次々と体調を崩し、奇妙な夢を見るようになったのです」
「奇妙な夢?」
「はい。皆、一様に“黒い影”に呑み込まれる夢を見るのです。目覚めると高熱を出し、食事も喉を通らなくなります。すでに五人が倒れております…」
「黒い影…」
由里は目を細めた。
呪詛の可能性が高い。だが、まだ決定的ではない。
「体調を崩された方々は、今どちらに?」
「奥の離れに隔離しております」
「案内をお願いします」
執事の後に続き、由里たちは屋敷の奥へと向かった。
屋敷内には独特な重苦しさがあった。
その様子を観察しながら、夢幻がふと口を開く。
「これは、ただの妖の仕業ではないな」
「やっぱりそう思う?」
「間違いない。これは陰陽師の手によるもの…それも、かなりの使い手のな」
夢幻の鋭い瞳が闇を見通すように細められる。
「由里、この呪詛の気配、感じるか?」
「ええ…でも、まだ断定はできないわ」
由里は慎重に答えたが、夢幻の顔には確信の色が浮かんでいた。
「何者かが、確実にこの屋敷を狙っている」
その言葉に、鷹宏が剣の柄に手をかけた。
「となると、俺たちは屋敷の守りも固めなければならないな」
「ええ。四神たちにも屋敷内を調査してもらいましょう」
由里が振り返ると、四神たちがそれぞれ頷いた。
「私がこの屋敷の外周を調べるわ」
白虎が静かに告げる。
「じゃあ、俺は屋敷の上空から結界の様子を見る」
朱雀が赤髪をかき上げながら言う。
「俺は内側の異変を探ろう」
青龍は屋敷の廊下を見渡しながら歩き出す。
「私は文献を調べる。何かしらの記録が残っているかもしれない」
玄武は屋敷の書庫に向かった。
「頼りにしてるわ」
由里が微笑むと、四神たちはそれぞれの役割に散っていった。
そして、由里・鷹宏・夢幻の三人は、離れへと歩を進める。
離れの中は、重苦しい空気に満ちていた。
部屋の奥では、五人の病人たちが横たわり、うわごとのように何かを呟いていた。
「……いや……来るな……やめてくれ……」
「呑まれる……闇に……」
由里は近づき、そっと一人の額に手を当てる。
「……!」
瞬間、彼女の意識が引き込まれそうになる。
暗闇の中に、巨大な影がうごめいていた。
黒く濁った気配。それは、確かに呪詛の力を持つ何者かのものだった。
(これは…!)
由里が意識を取り戻し、息をのむ。
「どうした?」
鷹宏が心配そうに尋ねる。
「強い呪詛の痕跡があるわ。これを解くには、かなりの力が必要ね」
「つまり、そういうことだな」
夢幻が静かに言った。
由里は彼の顔を見つめた。
「……夢幻、あなたにはこの呪詛の正体がわかるの?」
「……いや」
夢幻は少しの間、沈黙した後、静かに言った。
「ただ、俺には見覚えがある」
その表情には、どこか苦しげなものがあった。
「見覚え……?」
由里が問いかけた瞬間、離れの外で突如として強い風が吹き荒れた。
「ッ!? 何かが来る!」
白虎の声が響く。
朱雀が屋敷の上空を飛びながら叫んだ。
「黒い影が……屋敷に集まってきてるぞ!」
「まさか……!」
由里が立ち上がった瞬間、屋敷の壁を黒い手が突き破った。
呻き声とともに、闇の塊が形を成す。
「ようこそ、安倍晴明の孫よ……」
その声は、ねっとりとした不気味な響きを持っていた。
「貴様……!」
鷹宏が剣を抜き、構える。
由里もすぐに呪符を取り出した。
だが、その隣で夢幻が一歩前へ出た。
「……なるほどな」
彼の表情は、どこか覚悟を決めたように見えた。
「これは、俺が決着をつけなきゃならない戦いかもしれないな」
そう言い、夢幻はゆっくりと手を掲げた。
「俺の名を知っているか?」
黒い影は、ゆっくりとうねりながら答えた。
「知っているとも……蘆屋道満の孫よ」
由里の目が大きく見開かれた。
(まさか、夢幻が……!?)
「ふっ……そうか。なら、話は早いな」
夢幻の瞳が妖しく光る。
次の瞬間、影が一斉に襲いかかってきた――。
第三章「蘆屋の影」
黒い影が波のように押し寄せる。
「ッ……来るぞ!」
鷹宏が剣を抜き、鋭く振り下ろすと、刃の光が影を裂いた。しかし、切られた影はすぐに霧散し、再び形を成して蠢く。
「無駄だ。こいつらは実体を持たない呪詛の残滓だ」
夢幻が静かに言い、袖の中から呪符を取り出す。
「雷よ、我が手に集いて敵を討て――『雷轟』!」
呪符が弾けると同時に、青白い雷がほとばしる。影に直撃すると、断末魔のような音を上げて弾けた。
「ッ……くそ、まだいるのか!」
鷹宏が舌打ちする。
由里もすぐさま呪符を構え、印を結ぶ。
「火よ、禍を焼き払え――『焔陣』!」
朱雀の力を借りた火炎が巻き起こり、周囲の影を焼き尽くす。
「ぐぅぅ……!」
影が苦しげにうねりながら、徐々に後退していく。
その様子を見ていた夢幻が、一歩前へ出た。
「さて……そろそろ正体を見せてくれないか?」
彼の低い声が響くと、黒い影の中心から、不気味な笑い声が漏れた。
「フフフ……さすがは蘆屋道満の血を引く者。やはり気付いていたか」
影の一部が形を成し、ぼんやりと人の輪郭を浮かび上がらせる。
「貴様は……!」
由里が警戒を強める。
「名を問うまでもないだろう。私は蘆屋の者。そして、お前たち安倍の者への復讐を誓った者だ」
「復讐……?」
鷹宏が眉をひそめる。
夢幻は静かに息を吐いた。
「……やはり、俺の祖父が関わっているのか?」
影はくつくつと笑う。
「蘆屋道満が安倍晴明と争い敗れた時、その恨みを晴らそうとする者がいなかったと思うか? 俺は、その意志を継ぐ者だ」
「くだらん」
夢幻の声は冷たかった。
「お前の呪詛は浅い。俺の祖父の名を騙るなら、もっと強い呪詛を使ってみせろ」
「ほう……? では、見せてやろう……蘆屋道満の血を引くお前に、俺の呪詛をな!」
影がうねり、膨れ上がる。
しかし、その時。
「――その程度の呪詛で蘆屋を名乗るとは、片腹痛い」
玄武の冷静な声が響いた。
「結界、発動」
由里が驚いて振り返ると、いつの間にか玄武が屋敷の柱に複雑な呪符を貼っていた。
次の瞬間、屋敷全体が青い光に包まれる。
「なっ……!」
影が苦しげにうごめく。
「結界……だと……!?」
「貴様の呪詛、これ以上はここに通じない」
玄武が冷静に呟いた。
由里はすぐさま印を結び、最後の仕上げに呪符を投げる。
「浄化せよ――『破邪浄陣』!」
白虎の力を宿した呪符が影に突き刺さると、黒い塊は断末魔の叫びと共に四散した。
屋敷の中に静寂が戻る。
「……終わった?」
鷹宏が剣を納め、周囲を見渡す。
「いや、まだだ」
夢幻はじっと床を見つめていた。
「これで終わりのはずがない。蘆屋の名を語る者が、こんな浅い呪詛で満足するわけがない」
彼の目には、どこか怒りと迷いが混じっていた。
「……夢幻?」
由里がそっと呼びかける。
夢幻は一瞬、何かを言いかけたが、すぐに黙り込んだ。
「……俺は少し、調べることがある」
そう言い残し、彼は屋敷の外へと歩いて行った。
由里は彼の背中を見つめながら、小さく息をついた。
(夢幻……何を抱えているの……?)
由里の胸に、小さな不安がよぎった――。
第四章「夜の迷い子」
夜の帳が都を包むころ、由里は静かに女官としての務めを終え、屋敷へと戻っていた。
昼間は宮中で働き、夜になれば陰陽師としての役割を果たす。
「今日も疲れたなぁ……」
ふっと漏れた独り言に、隣を歩く鷹宏が小さく笑った。
「お前が陰陽師の仕事を引き受けすぎなんだ」
「だって、頼まれたら断れないし……」
「それがお前の甘いところだ」
鷹宏は腕を組み、由里をじっと見た。
「それに、最近の呪詛はどうも妙だ。まるで何かが俺たちを試しているような気がする」
「……確かに」
由里もそれは感じていた。
「特に、蘆屋の名を騙る者が現れたこと。それが何を意味するのか……」
「道満がまだ裏で何か企んでいるのかもしれないな」
そう言いながらも、鷹宏はどこか険しい表情を浮かべていた。
由里もまた、心の奥底に引っかかるものを感じていた。
(……そして、夢幻のこと)
あの夜、彼は「調べることがある」と言い残し、姿を消した。
それから何度か顔を合わせることはあったが、どこか様子がおかしい。
まるで、何かに苛まれているような――。
◆
翌日、由里は再び宮中へと向かった。
女官としての務めは多忙で、特に帝の側に仕える身として気を抜くことはできない。
「由里様、お早うございます」
女官たちが笑顔で迎える。
「お早う。今日もよろしくね」
にこやかに挨拶を返しながら、由里は日々の仕事をこなしていった。
「由里殿、帝よりお召しです」
別の女官がそう告げると、由里はすぐに立ち上がった。
(今日はどんな話があるのかしら……)
慎重に歩を進め、帝の御前へと向かう。
帝はまだ若く、どこか少年の面影を残すが、その目には聡明さが宿っている。
「由里、そなたに頼みたいことがある」
「はい、陛下」
由里は慎重に頭を下げる。
帝はふっと微笑むと、傍らの文を手に取った。
「どうやら、最近都に不穏な噂が広がっているようだ。貴族の間で奇妙な病が蔓延していると」
「奇妙な病……?」
「夜ごと魘され、悪夢に苦しむ者が増えているという話だ。まるで、何者かが呪いをかけているかのように」
その言葉に、由里の胸がざわめいた。
「……それは、呪詛の可能性が?」
「うむ。陰陽寮でも調査を始めているが、まだ確証はない。だが、そなたの力を借りたい」
由里は深く頷いた。
「お任せください、陛下」
帝は満足げに微笑み、由里を見つめた。
「そなたは、本当に晴明殿の血を継いでいるのだな」
「……はい」
由里は静かに答えたが、心の中では複雑な思いが渦巻いていた。
(私は……まだ祖父のようにはなれない)
だが、それでも。
(この都を守るために、できることをしなければ……)
決意を胸に、由里はその場を辞した。
◆
宮中からの帰り道、由里はふと夜の風を感じた。
(夢幻は……今どこにいるのだろう?)
彼があの夜からずっと悩んでいることはわかる。
だが、彼が何を抱えているのかまでは――。
その時。
「――由里」
不意に、月明かりの下から声が響いた。
由里が振り向くと、そこには夢幻がいた。
「夢幻……!」
彼の顔はいつも通りの美しさを保っていたが、その目の奥には深い迷いが見え隠れしていた。
「お前に、話がある」
低く響く声に、由里の胸がざわついた。
第五章「呪詛の影」
夢幻の言葉に、由里は静かに息を呑んだ。
「……話って?」
月明かりの下で見る夢幻の姿は、いつもよりもどこか儚げだった。
彼は一瞬ためらったようだったが、すぐに口を開いた。
「お前は、呪詛の本質を知っているか?」
「え……?」
思いがけない問いに、由里は少し戸惑った。
「呪詛は、憎しみや怨念から生まれるもの。人の負の感情が積み重なり、それが力となって……」
「それだけじゃない」
夢幻の声が、夜の静寂に溶け込むように響いた。
「呪詛は、願いでもあるんだ」
「願い……?」
由里は夢幻の言葉の意図を探るように、じっと彼の瞳を見つめた。
「例えば、大切なものを奪われた者が、強く『取り戻したい』と願うとする。その感情が行き場をなくしたとき、それが呪詛となることがある」
「……」
由里は言葉を失った。
確かに、呪詛はただの負の感情ではない。時に、それは強い執着や切なる願いが歪んだ形で表れたものでもある。
「夢幻……まさか」
由里の胸に、嫌な予感が走った。
夢幻は、ふっと笑った。
「そうだ。俺は、呪詛をかけた」
「……誰に?」
「――安倍晴明に」
由里の背筋が凍りついた。
「なぜ……?」
「祖父の誇りのため……そう言えば納得するか?」
夢幻は自嘲するように笑ったが、その瞳には迷いがあった。
「蘆屋道満の孫として、俺は晴明に復讐しなければならなかった。ずっと、そう教えられてきた」
「……」
「だが……」
そこで夢幻は一度言葉を飲み込み、静かに続けた。
「俺は、迷っている」
「……」
由里は、夢幻の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その奥にあるのは、憎しみではなかった。
「私は……放っておけない」
「由里……?」
「たとえ呪詛をかけたのが夢幻でも……あなたが迷っているのなら、私はあなたを助けたい」
その言葉に、夢幻は僅かに目を見開いた。
そして、次の瞬間――。
「……ダメだ……っ!」
夢幻の体が、暗闇に呑まれ始めた。
「夢幻!?」
闇はまるで意思を持っているかのように、彼を包み込んでいく。
由里は咄嗟に印を結び、呪文を唱えた。
「このままじゃ……!」
だが、闇の力は強大だった。
「放っておけ……!」
夢幻が低く唸るように言った。
「俺は……こうなる運命だったんだ……!」
「そんなこと……そんなこと言わないで!」
由里は必死に手を伸ばした。
「私は、あなたを助けたいの!」
そして、その瞬間――。
由里の手が、夢幻の手を掴んだ。
闇が、少しずつ霧散していく。
「……どうして……?」
夢幻がかすれた声で呟いた。
由里は、ただ微笑んだ。
「そんなの、決まってるじゃない」
「……」
夢幻は、目を閉じた。
~完~
はじめましての方も、お久しぶりの方も、『安倍由里と呪われし闇』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
本作は、平安時代を舞台にした和風ファンタジーとして、陰陽師・安倍晴明の孫である由里が、四神とともに数々の事件を解決していく物語です。昼は宮中で女官として働き、夜は密かに陰陽師として活動するという二重生活を送りながら、彼女はさまざまな出会いや戦いを通じて成長していきます。
そして、本作では由里の前に現れる重要な敵役、蘆屋夢幻が登場しました。彼は祖父・道満の因縁を背負いながらも、由里と交わることで運命が少しずつ変わっていくキャラクターです。果たして彼は敵なのか、それとも──?
この物語を書きながら、平安時代の世界観をどこまでリアルにしつつ、エンターテインメントとして楽しんでいただけるかを考え続けてきました。陰陽道や四神といった伝説的な要素を取り入れつつも、登場人物たちがそれぞれの想いを抱えながら生きている姿を、少しでも感じていただけたなら幸いです。
物語はまだ始まったばかり。由里と四神、そして夢幻の関係がどう変わっていくのか、次巻ではさらに深掘りしていきます。とくに、由里がなぜ四神のような強大な存在を従えているのか──その核心にも迫っていく予定です。
最後に、ここまで読んでくださった読者の皆様に心からの感謝を申し上げます。由里たちの物語が、少しでも皆様の心に残るものとなれば嬉しいです。
それでは、また次の巻でお会いしましょう。
著者:藍沢かれん