吾輩は犬である。
吾輩は猫である。
名前はまだない。
どこで生まれたのかとんと見当がつかぬ。
生まれた頃は紙で出来た箱の中に入れられ、何やら黒く冷たい水に打たれクゥーンクゥーンと鳴いていた記憶がある。
そんな折、不意に冷たい水が閉ざされ視界が僅かに暗くなった。
何事かと思い上を見れば傘をさした男がこちらを見ていた。
「こんなところに命が……まだ残っていたなんてね」
吾輩はそこで初めて人間というものを見た。
いずれにせよ、人間に吾輩は抱えられたので一つワンと鳴いてみせた。
「四足歩行……獣……人間に良く懐く……なら、きっとこの命は猫か?」
人間はそう言うと吾輩を抱き上げながら言った。
「よしよし。もう大丈夫だよ。安全なところへ行こう」
それから、随分と時間が経つ。
あの人間が何故、吾輩を猫と呼んだのか未だに分からない。
「こっちにおいで、猫ちゃん」
あの人間は今日も吾輩を猫と呼ぶ。
故に吾輩はワンと鳴いて人間の下へ行くのだ。
自分が犬であることなど些末なものだと思った。
この人間と共に居られるなら何もいらぬ。
それだけが幸せだったから。
故に吾輩は今日もこの冷たい鉄で出来た表情もない人間に抱きしめられるのだ。
吾輩と人間以外が見当たらぬ、この廃墟のような世界で。