―78― 故郷の味
セツさんが、壊れてしまった。
わたし――リリア=ヴェルトは、戦慄とともにその光景を見つめていた。
「ふふふ……これだよ、これ……」
さっきからずっと、キッチンに立つセツさんは、不気味なほど上機嫌だった。
鼻歌交じりに包丁を振るい、時折、カウンターに置かれた瓶を愛おしそうに撫でている。その瓶の中には、どろりとした漆黒の液体が入っていた。
どう見ても、まともな調味料には見えない。
毒薬……、あるいは呪いの触媒!?
「……ねぇ、ダーリン、やっぱりおかしいわよね」
ソファの陰で、シーナさんが青ざめた顔で囁く。
あの傍若無人な魔女が本気で怯えているのだ。事態は深刻と言っていい。
「うん……。普段のセツさんなら『面倒だ』って言って、もっと気だるそうな表情をしているのに、初めておもちゃを与えられた子供みたいな表情をしているなんて……」
「わたし、あの黒い水に禍々しいオーラを感じます。もしかして、精神汚染系の呪いでは……!?」
フィネアちゃんの言葉に、ひえっ、と背筋が凍る。
わたしたち三人は、固唾を呑んでセツさんの挙動を見守ることしかできなかった。
ジュウウウウウッ……!
突然、激しい音が響いた。
セツさんが熱した鉄板の上で、鶏肉を焼き始めたのだ。皮目が焼ける脂の匂いが漂う。ここまでは、まだいい。
問題は、次の瞬間だった。
セツさんは、あの「黒い液体」を小鍋に入れ、さらに別の白い粉や琥珀色の液体を混ぜて煮詰め始めた。
そして、あろうことか、そのドロドロになった黒いタレを、焼きあがった鶏肉の上に豪快に回しかけたのだ。
ジュワアアアアアアッ!!
白煙が猛烈な勢いで舞い上がる。
フィネアちゃんが「呪いの煙!?」と叫んで口元を覆った。
けれど――。
「……あれ?」
鼻孔をくすぐったのは、刺激臭ではなかった。
焦げたような、香ばしい匂い。脂の甘い香りと、あの黒い液体が熱されることで生まれた、独特の濃厚な香り。
それは、わたしの記憶にあるどの料理とも違う。もっと本能に直接訴えかけてくるような、暴力的なまでの芳香だった。
唾液が、勝手に溢れ出してくる。
「よし……炊けたな」
セツさんが魔導コンロで火にかけていた土鍋の蓋を開ける。
ぱかっ。
立ち上る湯気の向こうに現れたのは、宝石みたいにツヤツヤと輝く、真っ白な粒の集合体だった。
見た目は穀物のようだけど、わたしの知っているのとはまるで違う。短くて丸みを帯びた粒が、水分をたっぷりと含んで、ふっくらと身を寄せ合っている。
そしてもう一品。湯気を立てるお椀の中身は、茶色く濁った正体不明のスープだ。そこからは、なんとも形容しがたい独特の香りが漂っている。香ばしいような、けれどどこか鼻の奥をくすぐるような……未知の匂い。
それなのに、なぜか不思議と不快感はない。
セツさんは慣れた手つきで盆に料理を並べた。
黄金色に照り輝く鶏肉。湯気を立てる白い穀物。そして、茶色いスープ。
彼はそれをテーブルに運び、席についてもまだ、わたしたちは遠巻きに眺めることしかできなかった。
「……いただきます」
厳かな声だった。
セツさんは、二本の細い木の棒を器用に指で操り、鶏肉を一切れ持ち上げた。
……えっ、フォークじゃないの? そんな棒きれで食事ができるの?
セツさんは、肉を白い穀物の上に一度乗せ、タレを染み込ませてから口へ運ぶ。続けて、タレのついた白い粒をかきこみ、最後に茶色いスープを一口。
「――っ……」
セツさんの動きが止まる。
天井を仰ぎ見たかと思うと、その目から一筋の涙がツーっと流れ落ちた。
「……うまい」
その言葉は、まるで魂の底からの慟哭のように聞こえた。
泣いている。あの常に淡々としているセツさんが、食事をして泣いているだって!?
「やっぱり……! ダーリン、死ぬ気なのね!? 最後の晩餐だから、泣くほど味わってるのね!?」
たまらず、シーナさんが飛び出した。 わたしとフィネアちゃんも慌てて続く。
「やめてセツさん! 泣かないでください! 何か悩みがあるなら聞きますから!」
「ダーリン! それが毒なら、あたしも一緒に食べる! ダーリンがいなくなる世界なんて信じられないもん! 一緒に死ぬ!」
シーナさんがセツさんの腕にしがみつき、本気で泣き叫んでいる。
セツさんは涙を拭うと、どこか哀れむような、それでいて慈愛に満ちた目でわたしたちを見た。
「……おい、お前ら。何を勘違いしてるのか知らんが、これはただの飯だ。しかも、世界で一番美味い飯だ」
「嘘よ! だって泣いてたじゃない!」
「美味すぎて泣いたんだよ。……ほら、お前らも食ってみるか?」
セツさんは有無を言わさぬ圧力で、わたしたちの分も用意し始めた。
目の前に置かれたお盆。ツヤツヤと黒光りするタレを纏った鶏肉。そして、隣には山盛りにされた謎の白い穀物。
匂いは……相変わらず、強烈に胃袋を刺激してくる。毒々しい見た目のはずなのに、なぜか目が離せない。
「……セツさん。この、白い粒々はなんですか? それに、この黒いソースがかかったお肉は……」
わたしはおずおずと尋ねた。
「肉は『照り焼きチキン』。この黒いタレが決め手だ。そして、こっちの白いのは『米』っていう穀物だ。東方の大陸じゃ主食なんだよ」
「コメ……?」
聞いたことのない名前だ。
「ああ。この照り焼きとの相性は最強だ。騙されたと思って、肉と一緒に食べてみろ」
セツさんは、自分の使っている二本の棒――『箸』というらしい――をわたしたちにも差し出してきたけれど、使い方がさっぱりわからない。
わたしは迷わず、テーブルにあったフォークを手に取った。シーナさんとフィネアちゃんも、スプーンやフォークを構えている。
「セツさんがそこまで言うなら……」
わたしは意を決して、鶏肉を一切れ、フォークで突き刺して口に運んだ。
――カリッ。
皮目の香ばしい食感。
次の瞬間、じゅわりと熱い肉汁が溢れ出し、あの黒いタレの味と混ざり合った。
「……っ!」
衝撃だった。
甘くて、辛くて、しょっぱい。その複雑な旨味が、舌の上で爆発する。
けれど、くどくない。濃い味付けのはずなのに、不思議と後を引く。
「……これが、テリヤキ……」
美味しい。でも、味が濃い。これだけだと、少し喉が渇くかもしれない。
そう思った瞬間、セツさんの言葉が蘇った。
――肉と一緒に食べてみろ。
わたしはフォークで、隣にある白い穀物――コメをすくい上げた。
熱々の湯気が立つ、真っ白な塊。
ええい、ままよ!
わたしはコメを口の中に放り込んだ。
「……あ」
その瞬間、世界が変わった。
淡白で、ほのかな甘みを持つコメが、口の中に残っていた濃厚なタレの味を優しく受け止めたのだ。濃すぎた味が中和され、それどころか、お互いの旨味を引き立て合って、完璧な調和を生み出している。
これが……『コメ』……!
「……んんっ……」
隣で、シーナさんが身をよじらせていた。
彼女もまた、一口食べて言葉を失っているようだ。
「……すごい。なにこれ。口に入れた瞬間はガツンとくるのに……この白い穀物と一緒に食べると、いくらでも入っちゃう」
そして、フィネアちゃんはお椀の茶色いスープをスプーンですくい、恐る恐る口に運んだ。 一口飲んで、ほう、と深く長い息を吐いた。
「はぁぁぁ……っ。温かい……。身体の芯から解きほぐされていくみたい……」
わたしも、そのスープに口をつける。
ふわっと鼻に抜ける香り。塩気の中に感じる、深いコク。派手さはない。けれど、喉を通った瞬間、温かいものが胃の腑にじんわりと染み渡り、強張っていた身体の力がふっと抜けていくような感覚。
まるで、遠い故郷に帰ってきたような……絶対的な安心感。
「……セツさん、これ……」
わたしはフォークを持ったまま、セツさんを見た。
彼は満足そうに頷き、自分の分の残りを愛おしそうに食べている。
「どうだ。これがオレの故郷……東方の料理だ」
わたしは何も言えずに、ただ頷いた。
言葉にするのがもったいない。
一口、また一口。
鶏肉を齧り、コメをかきこみ、スープで流し込む。
そのループが止まらない。
シーナさんも、フィネアちゃんも、無言だった。
ただ、カチャカチャと食器が触れ合う音と、咀嚼する音だけがリビングに響く。
そこには、死への恐怖も、呪いへの疑念もなかった。
あるのは、ただ純粋な食への没頭と、満たされていく幸福感だけ。
気づけば、全員の器は綺麗に空っぽになっていた。
「……ふぅ」
誰からともなく、満足げなため息が漏れる。わたしは空になった器を見つめ、自然と口を開いていた。
「……セツさん」
「ん?」
「おかわりって、ありますか?」
少し恥ずかしいけれど、言わずにはいられなかった。
セツさんは苦笑しながらも、立ち上がってくれた。
「あるぞ。だが、大事に食えよ。こいつは貴重品なんだからな」
わたしたちは無言で、しかし全力で頷いた。
この不思議な料理の虜になったのは、間違いなくわたしたちだけじゃない。この街中の人が知ったら、きっと大変なことになるのかも。
そんな予感を抱きつつ、わたしは差し出された二杯目のコメ――を、大切に受け取った。




