―76― 未知の食材
ここ最近、どうにも落ち着かない日々が続いていた。
シーナは相変わらずオレの家に居座っているし、フィネアとリリアも、なぜかすっかり常連になってしまった。
女子会なるものを開いては、オレをダシにしてキャッキャと盛り上がっている。正直、やかましくて仕方ないが……まあ、オレの淹れたコーヒーや作ったお菓子を、三人とも心の底から美味しそうに平らげてくれるので、悪い気はしない。
そんな賑やかな日常も悪くないな、なんて思い始めていた矢先のことだった。
商人であるバーラットの旦那から、「ちいとばかし、旦那のお知恵を拝借してぇもんがありやして」という、やけに勿体ぶった連絡が入ったのだ。
知恵を拝借、ねぇ……。
どうせどこぞの貴族に売りつけるための口上でも考えてくれって話だろう。
まあ、ちょうどコーヒー豆のストックも切れかけていたし、顔を出してみるか。
オレはそんな軽い気持ちで、夜の闇に紛れて彼の倉庫へと向かった。
◇
「おお、お待ちしておりやしたぜ、セツの旦那!」
重い鉄の扉を開けると、いつものように金歯を光らせたバーラットの旦那が、待ってましたとばかりの顔で出迎えてくれた。
倉庫の中は相変わらず、薄暗い魔導ランプの光の下で、大小様々な木箱や麻袋が雑然と積み上げられている。得体の知れない骨董品やら、怪しげな薬草の匂いが混じり合った、独特の空気が漂っていた。
「それで、相談ってなんのことだ?」
「へへっ、旦那、実は、どうにもこうにも扱いがわからねぇ代物が手に入っちまいましてね。こいつぁ旦那に見ていただくしかねぇと思った次第でさぁ」
バーラットは心底困っている様子で、倉庫の奥からずっしりと重そうな木箱を引っ張り出してきた。古びた釘をバールでこじ開けると、中から現れたのは……。
「……なんだ、これ?」
オレは思わず眉をひそめた。
いや、ひそめたフリをした。
木箱の中にぎっしりと詰められていたのは、小さな白い粒。そして、隣の甕の中には、どろりとした黒い液体と、茶色いペースト状の何か……。
バーラットはため息をつきながら、白い粒をひとつまみして見せる。
「新しく開拓された航路で、今まで取引のなかった東の果ての大陸から仕入れた品なんですがね。向こうじゃ主食として食われてるらしいんですが……どうにも調理法がさっぱりで。硬ぇし、味もねぇし……。こっちの黒い液体に至っては、しょっぱいだけで使い道が皆目見当もつかねぇんですよ」
彼は本気で頭を抱えているようだった。
だが、その言葉を聞くオレの内心は、まるで嵐のようだった。
きた……きた……きたぁああああああああああああああああああっ!!
心の中で、オレは歓喜の雄叫びを上げていた。
米! 醤油! そして味噌!
間違いない! 前世で慣れ親しんだ、あの日本の食材たちだ!
表面上は「ふーん、なるほどな」と冷静を装い、興味なさげに白い粒を指でつまんでみせる。だが、その指先は喜びのあまり、わずかに震えていた。
長かった……。本当に、長かった……!
「……バーラットさん」
「へい、なんでしょう、旦那」
「この食材、もしかしたらオレの知っている調理法なら美味しくできるかもしれん。……よかったら、今からオレの家に来ないか? こいつを調理して、あんたに食わせてやる」
「へっ!? 本当ですかい、旦那!?」
バーラットの顔が、ぱあっと輝く。
「もちろんですとも! ぜひ旦那の腕前、拝見させてくだせぇ!」
◇
オレの質素な家のキッチンに、贅沢品を身に着けたバーラットがいる光景はなんともミスマッチだった。彼は目を皿のようにして、オレの手元を食い入るように見つめている。
まずは米だ。鍋に研いだ米と水を入れ、魔導コンロの火にかける。火加減を調整しながら、蓋の隙間から吹き出す蒸気の匂いを嗅ぐ……。ああ、この香りだ。懐かしい、炊き立てのご飯の匂い……。
ご飯が炊けるのを待つ間、オレは味噌汁の準備を始める。出汁に、あり合わせの野菜を入れ、火を止めてから味噌を溶き入れる。ふわりと立ち上る味噌の香りに、思わず目頭が熱くなりそうになるのを必死でこらえた。
そして、この瞬間のために密かに育てていた鶏から手に入れた、新鮮な卵……!
思えば、この日のために、オレはこれまで動いてきたのだ。
なぜ、オレがフィネアに自分の研究成果を渡し、『刻環の賢者』に仕立て上げたのか。
それは、彼女が世に広めた『刻環融合のアーティクル理論』が、魔導技術を飛躍的に発展させる起爆剤になることを知っていたからだ。
特に、大型の船に搭載される魔導エンジンの性能向上は目覚ましいものになるはずだった。魔力効率を極限まで高め、今までの船では考えられないほどの長距離航行を可能にする……。
より速く、より遠くへ――。
航海技術が発展すれば、新たな交易路が開拓される。それは、ラグバルトのような港町に、さらなる富と、そして未知の物資をもたらす。
計画の第一段階は、比較的近いオルトラ大陸からのコーヒー豆の安定供給。これは、新しい航路の安全性と採算性を確かめるための、いわば壮大な実験だった。
そして、その第一段階が成功裏に終わった今、ついに最終目標へと駒を進める時が来たのだ。
既知の航海図の、さらにその先。
嵐の海域と魔獣の巣窟を超えた、遥か東の果てにある未知の大陸……。
そこに、前世の日本に近い食文化を持つ国があるかもしれないという、万に一つの可能性に賭けた、オレの壮大な計画。
自分の平穏な生活を壊さず、誰にも本当の目的を知られることなく、遠回りも遠回り、壮大なスケールで進めてきた『最高の引きこもりスローライフ計画』。
その長年の計画が、今、ついに実を結んだのだ……!
炊き立ての湯気が立つ米を、オレは濡らした手で熱さに耐えながら握り、三角形に整えていく。
「旦那……そいつは……手で固めて……?」
「ああ。こうやってな」
魔導コンロの上に置いた鉄板に薄く油をひき、握ったばかりの米――おにぎりを並べていく。じゅう、と心地よい音がして、米の焼ける香ばしい匂いが立ち上り始めた。
表面に焼き色がついてきたところで、仕上げにあの黒い液体――醤油を刷毛でひと塗り。
ジュワアアアアッ!
醤油が熱された鉄板の上で焦げる、暴力的なまでの香りがキッチンを満たした。
「なっ……!? なんだこの、腹の底から揺さぶられるような匂いは……!?」
バーラットがたまらずといった様子で身を乗り出す。その顔は興奮と期待で真っ赤に染まっていた。
オレは焼きおにぎりと味噌汁を皿に乗せ、彼の前に差し出す。
「さあ、できたぞ。熱いうちに食ってみてくれ」
バーラットは、恐る恐る焼きおにぎりを手に取り、一口、がぶりと食らいついた。
瞬間、彼の動きが完全に止まり、次いでその目が見開かれる。
「こ、こいつは……!? 外側は香ばしく歯応えがあり、内は驚くほどふっくらと甘い……! そこにこのしょっぱい液体の深い味わいが染み込んで……う、うますぎる……!」
あとはもう、無言だった。
バーラットは一心不乱に、焼きおにぎりを食べている。時折、味噌汁をすすっては、「はぁ……」と魂の抜けたようなため息をついていた。
あっという間に皿を空にした彼は、恍惚とした表情で、オレを見つめた。
「旦那……! オレぁ、あんたに一生ついていきやす! この味を知っちまったからにゃあ、もう離れられねぇ!」
「大げさだな。ただの焼きおにぎりだ」
オレはそう言って笑いながら、自分の分の焼きおにぎりを手に取るのだった。




