―75― 不思議と晴れやかな思い
ふらふらと、覚束ない足取りでわたしは森を抜けた。
全身が鉛のように重い。魔力も体力も、もうほとんど残っていない。コーダとの戦いで、文字通りすべてを出し尽くしてしまったからだ。
だけど、不思議と心は晴れやかだった。
「……引退、か」
ぽつりと、自分の口からこぼれた言葉を反芻する。
ほんの少し前まで、プロの世界に戻ることだけを考えていた。挫折したまま終わるなんて、わたしのプライドが許さなかったから。
でも、コーダに「引退する」と告げたとき、そこに後悔なんてひとかけらもなかった。むしろ、ずっと肩にのしかかっていた重い荷物を、ようやく下ろせたような……そんな清々しさがあった。
それにしても、コーダのあの反応は……。
まさか、あんな子供みたいに泣きじゃくるなんて、想像もしていなかったな。いつも自信満々で、わたしを見下していた彼女が……。
なんだか拍子抜けだ。
地面にごろごろ転がって、手足をばたつかせて……。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、わんわんと泣き叫ぶ姿。
他人から聞かされていたら、絶対に信じなかった。
騎襲闘技の世界ランキング3位で、いつもわたしを「落ちこぼれの元・首席さん」なんて呼んで、余裕綽々に笑っていたあの女と、どうしても結びつかない。
「あんたが引退したら、あたしは誰をライバルにすればいいのよぉ……!」
コーダの言葉を思い出す。
わたしはずっと、彼女がわたしを妬んで、見下しているんだと思っていた。でも、それだけじゃなかったんだ。
わたしが学術院の首席で、彼女が次席。わたしが学生リーグのMVPを取って、彼女が取れなかった。
コーダにとって、わたしは超えるべき壁で……彼女の世界の中心にいる、絶対的なライバルだったんだ。
だから、あれだけわたしに絡んできたんだ。わたしを挑発し続けたのは、わたしに負けてほしくなかったから……?
もしくは、わたしという目標が、色褪せてほしくなかったとか?
「……まあ、いいか」
わたしは小さく笑みをこぼした。
引退すると決めた今、コーダのことで悩むのもなんだか馬鹿らしいし。
わたしの新しい切り札だった『二段加速』。
あれは確かに、コーダの意表を突くことができた。でも、あんなは初見殺し、プロの世界で何度も通用するはずがない。
プロの世界は、常に研究と対策が繰り返される戦場だ。学生リーグみたいに、個人のポテンシャルだけで勝ち続けられるほど甘くはなかった。
わたしは、スピードに頼りすぎていた。攻撃のパターンが少なくて、動きが読まれやすかった。それを克服しようと手数を増やそうとすれば、自慢のスピードが鈍ってしまう……。そのジレンマに、ずっと苦しんでいた。
セツさんたちと出会うまでは、その焦りばかりが心を支配していたっけ……。
でも、今はもう違う。
わたしには、大切なものができた。
わたしは顔を上げ、ある場所へと足を向けた。もう、迷いはない。
◆
こんこん、と控えめにドアをノックする。
すぐに、中から「はーい」というのんびりした声がして、扉が開かれた。
「ん? なんだリリアか。どうしたんだ、そんなボロボロで」
セツさんが、呆れたような、でもどこか心配そうな顔でわたしを見ていた。
その向こう、部屋の中からは甘くて香ばしい匂いが漂ってくる。
「あ、あの……ちょっと、トレーニングを……」
言い訳のようにそう言うと、セツさんは「ふーん」とだけ返事して、わたしを中に招き入れてくれた。
リビングのテーブルでは、フィネアちゃんとシーナさんが、できたてらしきチョコマフィンを頬張っているところだった。
「あ、リリアちゃん! ちょうどよかった、今マフィンが焼けたところだよ!」
「また、新しいのが……。せっかくダーリンと二人きりでイチャイチャする予定だったのに」
フィネアちゃんはにこやかに、シーナさんは相変わらずツンとした態度でわたしを迎えてくれる。
セツさんが淹れてくれた温かいハーブティーをカップに注がれ、わたしも椅子に腰を下ろした。
「……いただきます」
マフィンを一口かじる。外はさっくり、中はふわふわで、濃厚なチョコレートの甘さが口いっぱいに広がった。美味しい……。戦いで疲れた身体に、その甘さがじんわりと染み渡っていく。
「それで、リリア。何か用事があったんじゃないのか?」
セツさんが、わたしの顔を覗き込むようにして尋ねてきた。
わたしはマフィンをゆっくりと飲み込むと、カップを置き、まっすぐに三人の顔を見つめた。
「あの、わたし……騎襲闘技の選手、引退することに決めました」
しん……と、一瞬だけリビングが静まり返る。
フィネアちゃんが「えっ……」と驚いたように目を丸くし、シーナさんは意外にも、何も言わずにじっとわたしのことを見ていた。
「そっか」
最初に口を開いたのは、セツさんだった。
その声は、驚くほど穏やかだった。
「お前が決めたことなら、それが一番いいんだろ。お疲れ様」
その、あまりにも優しい言葉に、わたしの目頭がじわりと熱くなる。
そうだ……わたしは、この言葉が欲しかったのかもしれない。誰かに、ただ、そう言ってほしかっただけなのかもしれない。
「うん……もう、迷いはないんです。わたし、この町が好きだから。ここで、みんなと一緒にいるのが……一番楽しいから」
涙がこぼれないように、ぐっと上を向く。
フィネアちゃんが、そっとわたしの手を握ってくれた。
「そっか……。リリアちゃんが決めたことなら、わたし、応援するよ」
「……ふん、わたしにとってはどうでもいいんだけど」
シーナさんはそっぽを向きながらそう言ったけど、その声にはいつものような刺々しさはなかった。
わたしは、込み上げてくるものをこらえきれずに、俯いた。ぽたり、とテーブルに涙が一粒落ちる。
「……みんな、ありがとう」
わたしは、新しい居場所を見つけたんだ。
もう、一人じゃない。
セツさんが差し出してくれたマフィンをもう一口。さっきよりも、ずっとずっと、甘くて温かい味がした。




