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排水溝につまったスライムを日々かたづけるだけの底辺職、なぜか実力者たちの熱い視線を集めてしまう  作者: 北川ニキタ


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―51― 人の姿をしているだけの化物

「はぁ……はぁ……っ、セ、セツさんっ……! 助けて……!」


 胸が苦しくなるほど全力で走ってきたわたしは、セツさんの家のドアを勢いよく開け放った。普段ならこんなに乱暴なことはしない。

 けれど、今はそんな遠慮をしている余裕なんてまったくなかった。だって、あの絶界の魔女シーナが――背後から全力で追いかけてきてるから!!

 家の中に入ったはいいけれど、そこにいるのは……。


「あれ? セツさんがいない?」


 部屋の奥でキッチンのような場所から、わたしに視線を向けて困惑している女性が一人。前髪がさらりとした茶髪で、年は少し年上かなって感じだけど、見覚えは……ない、はず。


「え? だ、誰ですか……?」


 可愛らしい声の女性は困惑した様子でそう告げる。

 キッチンには、チーズのとろけるおいしそうな香りが漂っていて、なんだかピザでも焼いていたようだ。でも、いまそんな呑気なことを気にしている場合じゃない!

 や、やばい。セツさんがいないなんて……!

 わたしは肩で息をしながら、一瞬だけ引き返そうか迷った。でも、もう玄関から外へ出るには遅すぎる。嫌な足音が、すぐそこまで迫っている気がする。

 ここでなんとかしないと――。


 そんなことを考えながら、頭の中で女性に対し「どこかで見たような……?」という考えがぐるぐるしていた。

 これは知り合いに対するというより、有名人とかに会ったときの感覚に近いような……。

 女性の姿をもう一度、じっくり見つめる。シンプルなローブに、肩には粉のようなものがついている。キッチンで料理をしていたらしいけれど……どうしてこんなところで?

 ま、まさかっ……!


 脳裏にある名前が浮かんだ。

 最近、あちこちで『刻印の賢者』と騒がれている人物――『フィネア=エルストラ』という、とんでもなく偉い研究者の顔写真。

 魔術学術誌なんかだけじゃなくてゴシップ系の雑誌にまで載っていた、あの華奢な女性の面影に、そっくり……というか、まるで同じ!


「う、嘘……あなた、刻印の賢者フィネア様……ですか……!?」


 思わず呆然と声が漏れる。

 だってあの賢者フィネアといえば、いま世界中の魔術関連雑誌がこぞって特集を組むほどのビッグネーム!

 新理論の発表やら寄付やら、どれをとっても超人的な偉業ばかりで、街でもその話題が絶えない――そんな時の人が、どうしてセツさんの家にいるの!?

 信じられない! でも、セツさんなら何となく、そういう大物と知り合っていても不思議じゃない気もする……。


「え、ええと……えっと……! い、いまはそれどころじゃ、ないんです!」


 賢者フィネア様だとわかって動揺が走るけれど、すぐにわたしは現実に引き戻される。扉の向こうから、ビリビリと嫌な殺気が満ちている。例えるなら、猛獣がカタカタ歯を鳴らしてこちらを狙っているような、そんな圧力だ。

 ――そう、絶界の魔女シーナ!


「リリアちゃぁん……どこに隠れたのぉ……?」


 低く、舌なめずりするような声。玄関を挟んで、家の中をゆっくりうかがう足音が聞こえる。胸がドキドキして、冷や汗が一気に吹き出す。

 近い、近すぎる……!


「け、賢者さま! お願いします、助けてくださいっ……! 魔女が、悪い魔女が来るんです……っ!」


 わたしはとっさにフィネア様の背中に身を隠すように抱きついた。

 だって、セツさんがいない今、頼れる人は目の前の刻印の賢者様くらいしかいないんだもの……!

 賢者様なら、きっと何かすごい魔術で助けてくれるかも――って、すごく身勝手だけど、もはや藁にもすがる思い。


「え、ええっ!? ま、魔女……? ちょっと待って、わたしそんな戦闘とか……」


 フィネア様は困惑して右往左往。

 でも、ほかに頼れそうな人がいないんだ……!

 ガタリ、と玄関のドアが開く音。それどころか重い足音が二、三歩、床を鳴らして、こちらへ近づいてきた。


「あはは、見ーつけた……リリアちゃぁん。なんでわたしから逃げるのかなー?」


 その声を聞いただけで吐きそうになる。思わず賢者フィネア様の背中を、ぎゅっと握りしめていた。

 振り返るまでもなく、シーナさんの血走った瞳を想像できる。彼女が満面の笑みを浮かべながら、わたしにとどめを刺そうと手ぐらいはかざしているのだろう……。


「ど、どうしよう、どうしよう……!」


 叫ぶしかできないわたしに、フィネア様は「え、えっと……」とパニック気味。わたしたちに向けられるシーナさんの凶暴なオーラが、室内をギシギシと軋ませるような錯覚を覚える。

 同じ人間だなんて、信じられない。まるで人の姿をしているだけの化物……!

 そんな相手が今まさに、目の前に侵入してきた。絶界の魔女シーナは一歩、また一歩と傍まで迫ってくる。


 も、もうダメ……!

 セツさん、早く戻ってきて……!

 心の底で祈った瞬間、パンッと乾いた弾けるような音が部屋中に鳴り響いた。続けて「ぎゃんっ!?」という甲高い悲鳴が、わたしの耳を突き抜ける。


「な、なに……今の声……?」


 思わずフィネア様の背中から顔を出す。

 今の『ぎゃんっ』ってシーナさんの声……だよね?

 恐る恐る見ると、そこには――。

 なんと、シーナさんが天井へひっくり返るように貼りついていた。両足が天井にくっついて、まるで逆さまのコウモリみたいに――というか、粘液の網のようなものがぐるぐると彼女の身体を固定していて、まるで得体の知れないスライムで捕まったかのように見える。


「だ、ダーリンのトラップが、こんなときに発動するなんてっ……!」


 天井にへばりついたシーナさんが、悔しそうに顔を歪めながらうめく。

 いかにも奇妙な光景なのに、当の本人はまだ諦めていないようで、ギラつく瞳をこっちに向けてくるから余計に怖い。


「ト、トラップ……? どうしてこんなのがセツさん家に……?」


 震える声で独り言を言ってしまう。

 とはいえ、セツさんならどんな変わったことをしていても不思議ではないような。

 ふと、「う、うわぁ……」と呆気にとられた声がする。フィネア様もまじまじとシーナさんを見上げ、どうしたらいいのかわからず固まっているようだ。

 わたしだって何が起こったのか把握しきれないけれど、とにかくシーナさんの動きが止まったのは事実。いまなら逃げるチャンスかも……!


「どこ行くつもりよ、リリア……」


 びくっ、と身体が強張る。

 シーナさんは逆さまの状態でも、まるでわたしの心の声を読んだかのように声をかけてきた。その瞳は未だギラギラして、まるでこのままじゃ終わらないとでも言いたげだ。


「い、いや、あの、その、わたしは……!」


 口をついて出るのは情けない声ばかり。助けを求めたいけれど、セツさんがいない以上、誰があの魔女を抑えられるというの……?

 ちらりとフィネア様を見ると、彼女は唖然と口を開け、横にあるオーブンを指さしたまま固まっている。どうやらピザの焼き加減と、目の前の異常事態との間で思考停止状態らしい。


 これは、もう自分で何とかするしかない……のか?

 いやいや、わたしが立ち向かっても、シーナさんを止められるはずがない。そもそも彼女が本気で動けたら、あっという間にトラップを破ってしまうかもしれない。


「ふ、ふふっ……ダーリンが帰るまでの暇つぶしにはちょうどいいわ。どれだけ粘着されても、わたしが本気になればこんなトラップなんか……あぐっ!」


 シーナさんが腕を引き抜こうと力を込めた瞬間、粘液の糸がビクンッと揺れて余計にきつく締まったようだ。

 結局、うまく動けないらしく、再び「くそ……!」と毒づいている。


「や、やばい……。フィネア様、とりあえず部屋の隅に下がりましょう!」


 わたしが小声で呼びかけると、フィネア様はハッとしたように顔を上げた。

 しかし、そのとき彼女の視線はオーブンのほうへ再び向けられる。フタの奥から、芳ばしい匂いが濃くなって――少し焦げたような匂いまで混ざり始めているじゃないか。


「う、うそっ! ピザが焦げる! ど、どうしよう……火力を弱めないと!」


 ちょっと待って、そんな余裕あるの……?

 確かに焦げるのはもったいないかもしれないけど、今は魔女が天井に逆さ吊りになって睨みを利かせている非常事態ですよ……!


「君は下がっていて! ちょっとだけ火力を調整して、ピザを取り出してから……そ、それから逃げよう!」


 フィネア様が無謀な宣言をする。

 慌ててコンロのダイヤルをいじる彼女の手元を見ながら、わたしは半泣きで「は、早くやってください!」としか言えなかった。


「…………くっふふ……。あんたたち、ホントにのんきね……」


 天井からシーナさんの冷たい声が落ちてくる。一見、完全にトラップにかかったとはいえ、まだ余裕を感じさせる口調だ。


「ダーリンの仕掛け、なかなか笑わせてくれるじゃない。けどこんなの、時間の問題よ……あはっ、楽しみだわ。あたしが抜け出したら、真っ先にそのピザを踏み潰してやる……!」


 怖い。ピザだけの問題じゃない。あれは絶対、わたしたちにも容赦なく牙をむいてくる。

 フィネア様はどうやら火力を下げ終えたらしく、ぱかっとオーブンの扉を開き、焦げかけのピザを取り出して「っつあちちちっ」と小さく悲鳴をあげながらまな板に移す。


「よ、よし、なんとか間に合った……。あとは食べるだけ……いや、違う違う、そんな場合じゃ……!」


 すっかり料理モードになりかけていたフィネア様が、ようやく自分の状況を再認識して顔を青ざめる。

 そうだよ、食べてる暇なんてないですよ! このままじゃシーナさんがトラップを破った瞬間、わたしたちは……。


 と、そんなタイミングで玄関の外から扉の開く音が聞こえた。シーナさんも、わたしたちも、一瞬「えっ?」と固まる。


「フィネア、ピザの調子はどうだ? ……ん? 他にも誰かいるのか……?」


 しれっと扉を開けて現れたのは、探し求めていた――そう、セツさんだった。紙袋に小さな瓶をいくつか入れて、首をかしげながら室内を見回す。


「え……な、なんでシーナが天井に張りついてんだ……?」


 ドン引きした顔で口を開くセツさんと、天井の粘液トラップで逆さ吊り状態のシーナさん。これってかなりシュールな絵面では……。

 でもわたしはもう、その姿を見ただけで心の底から安心してしまった。思わずわたしは走り寄り、腕をぎゅっと掴む。


「セ、セツさんっ! よかった……! シーナさんがまた暴れてて、大変なんです! このトラップ、ホントに助かりました!」


 セツさんはわたしの言葉を聞いて、手短に「そうか……いや、意味がわからん」と嘆くと、頭を抱え始めた。

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