―05― 昨日の子
朝の光が差し込む冒険者ギルドの受付カウンターで、受付嬢のセレナは昨日の少女とセツさんのことをどうしても考えてしまっていた。
とくに、あの気の強そうな少女の行方が気になる。お金がないと言っていたけれど、ちゃんとセツさんに追いつけたのだろうか……。
セレナは思わずため息をつきながら、ギルドの開店準備に取りかかる。この街では、日の出から少し経ったころにギルドが扉を開き、冒険者たちは一目散に依頼書をもぎ取っていく。
「さあ、今日も張り切って受付やりますか」
自分を奮い立たせるようにつぶやいて、カウンター前の書類をひと通り整える。魔物討伐、護衛、採集などなど、人気の依頼はすでにギルドの張り出し板に貼られていて、開店と同時に冒険者たちが奪い合うのが日常だ。
セレナはそれを横目で見守りつつ、追加の依頼書や書類の整理をする立場にある。
今日もいつも通り、がやがやと大勢の冒険者が詰めかける……はずだったのだが。
「ん……? なんか、いつもと雰囲気が違うような……」
扉が開くと同時に、ギルド内にいた常連の冒険者たちがざわめいて、一歩退くように散っていく光景が見えた。セレナがその先を目で追うと、扉の前には見覚えのある少女が立っている。
だが、昨日見たかわいらしい雰囲気はとうに失われていた。
髪はぼさぼさで、瞳の下にははっきりしたクマができ、肌はやや土気色にも見える。服も汚れていて、どことなく嫌な臭いすら漂ってくる。それでも、彼女の表情だけは鋭く怒りに満ちていた。
「……あ、あれ? 昨日の子……よね?」
セレナは目を丸くしながら彼女を認める。冒険者たちも、見慣れぬ異様な迫力に恐れを抱いたのか、皆、遠巻きに様子を見守っている。
少女は開店と同時にカウンターめがけて一直線に歩を進め、勢いよくセレナと向かい合う。
「あ、あの、おはようござ……」
挨拶を言い終わらぬうちに、少女は大声を張り上げた。
「騙したわねっ! あたしを……騙したでしょ!!」
ビクリと肩を震わせるセレナ。
ほんの昨日、ギルドにやってきた時とは比べものにならない形相だ。怒気がほとばしるその姿に、常連の冒険者たちは完全に腰が引けている。
「え、えっと、どういうことかしら……?」
慌てて聞き返すセレナだが、少女は怒りで耳も貸さない様子だ。
「おかしいのよ! 十数分前に出てったなんて絶対嘘! 全部終わってた! ドブさらいのスライム! ぜーんぶ! ……あんた、わたしに嘘の時間教えたんでしょ!? おかげで宿代だって手に入らないし、そのせいで野宿をするはめに……!!」
まくし立てる彼女の息は荒く、髪を乱しているのは野宿の影響か。セレナはその言葉を聞いて、急いで釈明を試みる。
「ま、待ってください! 嘘を教えたなんてことは絶対にありません。昨日、セツさんがギルドを出たのはほんとにそれくらいの時間で……!」
「うそっ!! そこら中回ったのに一回も会えなかったんだから、本当なわけないでしょ!!」
少女の怒号が響き渡り、ギルドホールは静まり返る。
なかには怯えた表情で、一歩後ずさる冒険者もいる。先輩の受付嬢ミレイが心配そうにセレナのほうを見ているが、セレナと同じく何がどうなっているのか把握できていないようだ。
「え、ええと……とにかく落ち着いて。もし何かの手違いでそうなったのなら、わたしもきちんと調べますから」
「落ち着けるわけないでしょうが!! ご飯だって食べられなかったし、まったく熟睡できなかったし、とにかくひどい目に遭ったんだから……っ!」
するとその瞬間、少女のお腹から盛大な音が響いた。
ぐぅううううううっ……という、空腹を限界まで訴えるかのような腹の虫の声。本人だけではなく、その場にいた全員が耳を疑うほど大きかった。
「……あ」
少女は一気に顔を赤らめるかと思いきや、今度は肩の力が抜けて膝から崩れ落ちる。まるで糸が切れた人形のようにフラリと倒れこんだ。
「危ないっ!」
セレナが慌ててカウンターから身を乗り出そうとしたが、少女の意識はもう半分飛んでいるらしい。その小さな声が漏れる。
「……おなか……すいた……」
どうやら彼女は空腹のあまり倒れてしまったようだった。
◆
ふわりと甘い香ばしさが鼻をくすぐり、わたしはゆっくりとまぶたを開いた。
まず目に入ったのは、こんがり焼けたパンのような何か……空腹の状態でこの匂いは破壊力がありすぎる。
頭の中は「食べたい!」という欲求で埋め尽くされて、周囲の状況を把握する余裕なんてなかった。
「……あ、あの、よかったら食べられますか?」
誰かがそう声をかけてきた瞬間、わたしの手は条件反射のように食べ物へ伸びていた。まるで奪い取るかのようにトレイを引き寄せ、がつがつと口に押し込む。
腹が満たされないと、思考することすらままならない。理性も品位も吹き飛ばして、わたしはひたすら貪り続けた。
「え、えっと……ほかの人の分もあったんだけど……」
ぼそりと誰かの小声が聞こえた気がする。
けれど、そんなの気にせずにわたしは手当たり次第に食べ物を口へ運び、ようやく腹の底から満足感が湧いてきたところで、ようやく落ち着いた。
「ぷはぁ……生き返る……」
あらためてあたりを見回すと、そこはどうやらギルドの奥まった部屋らしい。ベッドの上に寝かされていたようで、わたしは体を起こしながら口の端に垂れた油を慌てて拭った。
目の前には、昨日見た受付嬢の——確か名札にセレナという名前が書かれていたか——姿がある。優しげな微笑みを浮かべているけれど、その背後には先輩らしき女性が腕組みをして、呆れ半分の表情でこっちを見ていた。
「だ、大丈夫? お腹は満たせた?」
セレナが少し安心したような笑顔を向けてくる。わたしは何とも言えない気恥ずかしさを抱きつつ、身体をベッドから降ろした。
「えっと……助かったわ。ありがと……」
そう口にしながら、わたしは昨日の苛立ちを思い出してしまう。そうだ、この受付嬢に嘘を教えられたから、わたしは散々な目に遭ったのでは……?
「……っていうか、あんたのせいでしょ。わたし、昨日一軒もドブさらいを取れなかったのよ。あれだけ走り回ったのに全部終わってたんだから……!」
強く詰め寄ると、セレナは慌てて首を振った。
「そ、そんな……嘘なんてついてないわよ。本当にセツさんが出てったのは、十分ぐらい前だったよ……」
セレナの先輩らしき女性——髪をきっちりまとめた落ち着いた雰囲気の人が口を挟む。
「セレナは嘘ついてないわよ。わたしも昨日、セツさんが出ていく時間を見ていたけど、確かに、あなたが来る前の十分ほど前だったわ。単にあなたが追いつけなかっただけじゃない?」
「わたしが追いつけない? そんなのあり得ないわよ!」
思わず語気を強めるわたしを見て、その先輩は「やれやれ」という顔をしていた。セレナも首をかしげている。どうやら二人とも、この事態がどれだけおかしいことか気がついていないようだ。
「……やっぱり、あなた、どこかで見たことある気がするのよねえ」
先輩らしき女性がわたしの顔を見ながらなにかを口にしていたけど、そんなことはどうでもいい。
セレナの「困ったわねえ」という表情で微笑むのを見ていると、騙そうとしているようには確かに見えない。だけど、わたしの納得はまだ得られていない。
「……だったら、そのセツって人に会わせてよ。直接問いただしてやるの。何かズルしてるに違いないんだから!」
強い口調で要求すると、セレナと先輩は顔を見合わせ、少し考え込んだ。やがて、セレナが口を開く。
「えっと、セツさんがギルドに来るのは三日に一度くらいかしら。あんまり毎日来るわけじゃないし、来る時間も昼過ぎぐらいかなあ……」
「三日に一度? 今日は来ないの?」
わたしは思わず声を荒らげる。先輩も肩をすくめながら、「あの人、いつもドブさらいを大量に受けて、そのまま数日は姿を見せないのよね」と付け加えた。
「ならば、どこに行けばセツって人に会えるか教えなさいよ!」
そう主張するも、セレナは「そんなこと言われてもねぇ」と眉をハの字に曲げていた。先輩も相変わらず呆れた表情をしている。確かに、ただの受付嬢が冒険者の行先を詳細に把握しているわけないか。
「わかったわ。じゃあ、ここで待つ! セツが来るまでギルドにずっと居座ってやる!」
宣言すると、セレナは困ったように眉を下げる。
「ギルドにいるのは別にいいんだけど、……お金は大丈夫なの? ただ待ってるだけじゃ宿代も稼げないし、生活していけないんじゃ……」
「……あ」
考えてみれば、金欠になって宿代を捻出できず、昨日は野宿したんだった。三日も待っていたら、破産どころか体力的にもきつい。一瞬どうしようか悩んでいると、視界の先で、朝イチの依頼書を取り合っている冒険者たちが目に入った。
そうよ……あそこで依頼を取ればお金は稼げる。それで三日間食いつなげば、セツって人に会うのは可能!
わたしはすぐに動いた。
カウンターを飛び出して、冒険者たちが争奪戦を繰り広げる一角へと突進する。目についた依頼書をさっと横取りし、手に握る。
「お、おい、それは俺が狙ってた……!」
「おい、返せっ!」
悲痛な声が飛び交うけれど、わたしの胸中はすでに決まっていた。奪い取った依頼書をバッと開き、一瞥してからセレナのほうに振り返る。
「もしセツが来たら教えなさいよ! 絶対だからね!」
怒号めいた問いかけに、セレナはちょっと戸惑いながらも「う、うん!」と頷いている。
わたしはギルドの扉を勢いよく開け放ち、一気に外へ飛び出した。
セツ……絶対に正体を暴いてやるんだから!
自分の思考を確かめるように胸中で叫ぶ。背後でセレナや冒険者たちが何か言っていたような気もするが、今は耳を貸している場合じゃない。まずはこの依頼書でお金を稼ぎ、ちゃんと宿を取る。そこからが本当の勝負だ。
「わたしのスピードに勝てるなんてありえないんだから……何がどうなってるのか、きっと暴いてやるんだからね!」
拳を固め、わたしはその足でギルド前の大通りを駆け抜ける。胸の内に燃えあがるのは、セツとの決着に対する熱い想いだった。