―21― ひゃん
あたし――リリア=ヴェルトは今、鼻血をすすりながら必死に立ち上がっている。
息が荒い。視界がチカチカする。痛みでズキズキ脈打つ頭がガンガン鳴っている。だけど、不思議と気分は高揚していた。
「……こんなところで終われるわけがない……!」
あたしは唇をぐっと噛む。鼻血が唇の端を伝って苦い味がしたけど、どうでもいい。心臓がドクドクとうるさい。大きく息を吸い込むと、肺の奥に熱い魔力がぐるぐると巡っていくのがわかる。
今なら、いける。なぜか確信めいた感覚があたしの中に沸き上がっている。身体はぼろぼろで、骨が悲鳴をあげてる。でも、それでもまだ――
「……今なら限界を、超えられる……!」
シーナ――絶界の魔女。
あたしは血走った目で彼女を睨む。先ほどまでの余裕たっぷりな笑顔が、わたしの渾身の怒気に少しだけ満足げに歪んでいるように見える。
「やっぱ、そうこなくっちゃ」
シーナは愉快そうに言い放つ。まるで獲物が最後の足掻きをしてくれるほうが嬉しいとでも言わんばかりだ。
不愉快。だって、あたしは貴族の出だ。それに、かつて騎襲闘技でMVPを獲った誇りだってある。負けっぱなしで、みっともなくへたばるなんて絶対に嫌だ!
「……じゃあ、思いっきりぶつかってやる!」
鼻血をぬぐいもせずに、あたしは身構える。
足の裏に魔力を注ぎ込むと、じりじりと石畳がきしむ。限界を超えた魔力放出。自分でもこんなに溢れる魔力は初めてだ。呼吸を合わせ、いっきに脚へ――
「疾風――ッ!」
あたしは弾丸のようにスタートを切る。
真正面から突っ込むフリをし、瞬時にステップを踏んで横へ回り込む。シーナの視線がわずかにずれた、その一瞬を狙い、縦横無尽に動きまわる。
視界が流れ、地面が遠ざかるほどの速度。息がつまるような加速感がたまらない。右へ、左へ、上へ――最大限の変則的ステップでシーナの反応を狂わせる。
そして、とっておきの一撃を叩きこむには一瞬のスキで十分。
――今だ!!
あたしはシーナの背後に回り込むように跳躍すると、全魔力をこめた拳を振りかぶった。
彼女のいまの視線は正面……こっちを捉えてないはず。ここでやるしかない!
「食らええええぇぇッッ!!」
その瞬間、シーナの首がぐるり、とまるでヘビみたいにありえない角度で回転した。
え……背後にいるあたしを振り返るなんて、首は180度なんてもんじゃないわよ! 信じられない光景に、あたしは息が止まりそうになる。
「ふふ……もしかして、わたしに勝てるかもって思っちゃった?」
嘘でしょ、なにこれ……!? 目が合った瞬間、シーナは恍惚に近い笑みを浮かべた。
「わたしね、あなたみたいに強気な子が、恐怖で悲鳴を上げてトラウマ抱えるくらいボッコボコにするの、大好きなのよね。もう想像するだけでゾクゾクしちゃう」
「な、なに言って……?」
あたしの全身から血の気が引いていく。
何か言い返したくても、声が出ない。シーナの瞳に宿ったサディスティックな輝きが、ひたすらに冷たくあたしを射抜く。
「ひゃん!」
――次の瞬間、景色がぐらりと歪んだ。何が起こったのか理解できない。
ゴォッ! という衝撃音とともに、あたしの身体はもはや空中を吹き飛んでいた。
「あ、あがぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
自分でも悲鳴をあげたのがわかる。身体が勝手に回転して、意識がブレる。目の前の景色がめちゃくちゃになる。
気づけば、ズシャァッ!! と何かを突き破った衝撃が走り、そのまま壁へめり込む形で止まった。そばにあった倉庫か住宅か……とにかく分厚い壁をガツンと貫いたようだ。
「い、いったぁ……ぐはっ……」
呼吸ができない。胸の奥が焼けるように痛い。
これ、やばい……骨、何本か折れた。頭が割れるように痛むし、鼻血も止まらない。まるで身体の中の骨格が崩壊しそうな感覚だ。
「ふふーん」
鼻にかかった甘い声が、すぐ頭上から聞こえた。あたしは必死に首を動かして、視界をそちらに向ける。立っているのは、もちろんシーナだ。薄っすら見えるあたしの顔を見下ろしながら、まるで小動物でも弄ぶかのように笑っている。
「あはぁ、壁まで突き破るなんて、ちょっとやりすぎたかしら?」
シーナはあたしの顔の真横まで足を近づけると、そのまま容赦なく頭をぐりぐりと蹴りつけてきた。
「いひゃっ……う、ぐあぁ……!」
頭蓋の芯まで揺さぶられて、立て続けに痛みが爆発する。目に涙が滲んで、ついには膀胱まで緩んじゃいそうでぞっとする。
だけど、シーナはそんなあたしの苦痛を楽しんでるみたいで、からからと高い声を立てて笑う。
「きゃはッ! ……ねえーねえー、もっと抵抗してくれないとつまんないよぉ。ほら、まだ戦えるでしょ? こんなとこで終わっちゃ退屈なんだけどー」
「う……あ……」
言葉が出ない。呻き声しか漏れない。身体がガタガタ震えてるのが自分でわかる。
シーナはあたしの額を軽く踏みつける形でぐりぐりしながら、なおも楽しげに言葉を続ける。
「あなたって結構プライド高そうだし? 強気な女の子の悲鳴って最高にそそるのよね。骨がミシミシいう音も大好物。もっともっといじめたいなー……たとえば骨を一本ずつ、じっくりへし折ってみるとか?」
ゾワリ……。
背筋が完全に粟立つ。あたしはそこまで想像してしまった。一本ずつ骨を折られて、悲鳴をあげる自分の姿を。
じっとりと汗が滲み、涙がぼろぼろと溢れて、歯の根が合わないほど震える。
「さ、どうする? まだ動けるのかな、それとももう壊れちゃったのかな? ……まぁ壊れちゃったら、それはそれで面白いけどね」
あたしは無理やり唇をかみ締める。さっきまでの一泡吹かせたいとかいう感情なんて、今はもう微塵もなかった。
こわい……。
シーナが一歩引いて、そのまままた足を振り上げる。次は頭部を蹴り飛ばす気だろうか。この衝撃に耐えられる自信なんて微塵もない。
「うぅぅぅぅぅー。もう、いやぁ……」
必死に絞り出した声はあまりにも情けなかった。あたしは絶え間なく涙を流しながら、ただ縮こまるしかない。
「えー、もう泣いちゃうのー。まだなんにもしてないのにー。ほらほら、泣いたってダメだよ。あはっ、面白い顔してるねー。……あはっ、ねぇ泣きっ面もっと見せてよー」
嘲笑するシーナの足音が、あたしのすぐそばで止まる。ゴクリと生唾を飲み込む。
――怖すぎて、もう呼吸がうまくできない。
頭がぼんやりして、今にも気絶しそうだ。けど、もしここで気を失ったら、骨をへし折られてもわからないままになっちゃうんじゃないか……なんて、逆に妙な意識が冴えてしまう。
視界の端には、ガルドやユージン、フローラ、レオンたちの姿が転がっているけど、誰も起き上がる気配がない。完全に戦闘不能。助けが期待できるわけもない。
膝を抱えて涙を落とすあたしに、シーナがうずうずするように近づいてくる。
「ほら、まだピンピンしてるじゃない。これから何回でも楽しめるね……? ――ふふっ、どうしてそんなに恐そうな顔してるの?」
「……ひゃ……や、やだ……」
あたしは奥歯ががちがち鳴るのを止められない。おしっこだって、今にも漏れて――いや、ちょっとでたかも。
だ、誰か、助けて……。
と、遠くのほうにぼんやりと見える男がいる。
そっぽを向いたまま、まるでこの地獄絵図を他人事みたいに感じている男――そう、セツがいた。