―12― 魔術の一端
一日にどぶさらいの依頼を三十件。
それがどれだけ異常か、他の人たちにいくら訴えても伝わらないけれど、どう見たって、それがおかしいことをわたし――リリア=ヴェルトは確信していた。
というのも、わたしにはそう断言できるだけの根拠があった。
そう、あれはラグバルトに来る前のことだ。
◇
その町は、ラグバルトほど大きくはないけれど、そこそこの冒険者ギルドがあった。
わたしは旅の途中で立ち寄り、なぜかまた金欠になっていた。
わたしは金銭管理が死ぬほど苦手なのだ。いや、管理しようとしないというほうが正しいかもしれないけど……とにかく、宿代さえ危ういとなれば、冒険者ギルドで依頼を探すしかない。
「さて、今日こそいい加減にがっつり稼がないと」
意気込んで朝イチでギルドに行ったものの、すでに精鋭の冒険者たちがゴッソリ依頼を掻っ攫っていた。
わたしが到着する頃には、護衛や討伐系はもちろん、薬草採集なんて手軽なものまで残っていない。
「え、じゃあ……なにが残ってるの?」
不安に駆られつつ受付嬢さんに尋ねると、彼女は申し訳なさそうにどぶさらいの依頼書を差し出した。
「ほとんどが『排水溝のスライム除去』になります。ここにあるだけで何十件もあるんですが、どれも汚れ仕事だと思われているのか人気がなくて……」
わたしは最初、「なんだ、スライム退治なら楽勝じゃない。これなら一気に受けて、簡単に金を稼げるわね」と安易に考えた。
実力にはそこそこ自信もあるし、スライムなんて雑魚扱いされる魔物。そこまで手こずるはずがないと思ったのだ。
──ところが、その考えが甘かったと悟るのに、そう時間はかからなかった。
最初の一件。わたしは指定された家を訪ね、下水に詰まった泥とスライムを除去する作業に取りかかる。
「どれどれ、まずは泥をかき出して……」と始めた途端、鼻をつんざくような臭いが襲いかかった。下水と生活排水、それに腐った野菜くずまで混在していて、見るだけでげんなり。
それでも勇気を出してシャベルを握り、詰まりを除去しようとする。すると、ずぶり、と靴が泥に呑まれるように埋まってしまい、足元はぐちゃぐちゃの汚水……。
「ひぃぃっ……っ! なによこれ、思った以上に最悪なんだけどっ」
しかも、そのどこかしこにスライムがこびりついている。切り刻むだけなら楽勝と思いきや、逃げ足も速くヌルヌルと滑るため、トドメを刺すのに想像以上に手こずる。結局、武器や服まで臭い汁まみれになるハメになった。
「あーもう……この汚れ、絶対落ちにくいってやつよね……」
悪戦苦闘しながらようやく一件目が終わる頃には、軽く二時間は経過していた。そのうえ体力の消耗も激しい。
「これがあと九件……?」と思うと、頭がクラクラしてきたけれど、宿代を稼がねばならない。泣く泣く次の依頼先へ向かった。
二軒目では、最初の失敗を踏まえて少し手際よく泥をかき出せた。慣れは生まれるものの、疲労が溜まっていることを考えれば一時間はかかってしまうし、移動時間や下準備を含めれば一時間と30分は軽く飛ぶ。息をつく頃にはすでに夕刻が近づき始めていて、足腰はがくがくだ。
「こんな……地味で汚くて、やたら疲れる仕事だなんて……!」
わたしはこの時ようやく「どうしてどぶさらいの依頼がこんなに敬遠されるのか」を理解した。
三軒目に取りかかる頃には、太陽はほとんど沈みかけ、辺りが薄暗くなっている。スライムを切り刻んでいるうちに、結局まわりの住人から苦情を言われたりもして散々だ。
終わるころには夜も遅く、ギルドに戻ると受付嬢さんに謝罪しながら「すみません、残り七件は、今日だけでは無理でした……」と頭を下げる羽目になった。
「あんなに弱いと思っていたスライムも、あの汚水の中では厄介極まりないし、重い泥やゴミをどかす労力も馬鹿にならない。結局、わたし一人が一日で終わらせられたのは三件。それが現実……」
その経験があるからこそ、わたしは言いたい。
ドブさらいってのは決して楽な仕事じゃない。どれだけ慣れていても、一日に五件が上限よ。下手すりゃ三件でもキツいくらい。
なのに、セツは30件の仕事を移動を含めて、二時間もかかっていない。
だからこそ、わたしは確信していた。
セツはなんらかの高度な魔術を隠している。
◇
セツがいるはずのスイーツ店のトイレをおもいっきり開けた。
すると、視界が一気に反転した。
……というか、そこはトイレじゃなかった。
「…………え?」
あまりにも壮観な光景を前に、わたしは息を呑む。
トイレの狭いスペースはどこへやら、足元はガラスのように透き通った床が広がっている。
そのガラスの床の下には、はるか遠くに見覚えのある街──ラグバルトの街並みが見えていた。
「な、なに、ここ……?」
上空に浮かぶ不思議なステージ……?
しかも、まわりを見渡すと、空の上に、まるで巨大なモニュメントがそびえ立っていた。
大きいなんてものじゃない。
「空全体がそのモニュメントでできているのか?」と思うほど圧倒的なスケールで、複雑に組み合わさった金属や水晶のような部品が常に動いているのがわかる。
ガシャン、ギュイーン……と小さな音を立てて、目に見えない魔力を循環させているようにも感じられた。
あんな代物、もし地上から見えたなら大騒ぎになるはずなのに、今まで誰からも話を聞いたことがない。
「どうして……。あんなに目立つものが、いままでまったく目撃されてないってこと……?」
足元のガラス越しに見下ろすと、はるか下には人々が行き交うラグバルトの町。
でも彼らは上空を気にする気配すらない。まるでこの場所が完全に隠されているかのようだ。
混乱したまま、がくがく震える足をどうにか踏み出してみると、少し離れたところにセツが立っていた。
彼はまるで何も特別じゃないというように、気だるそうな顔でこちらを見ている。
「……君みたいなしつこい奴は初めてだな」
「し、しつこいって……! あんなの見せられて黙っていられるわけないでしょう! トイレのドア開けたらいきなり空の上なんて、どういうことよ!? ここは、何……!?」
必死で問い詰めるわたしに、セツはため息まじりで肩をすくめる。
「どういうことて言われてもな……。これは、オレの『どぶさらいのために開発した魔術』の一端だ。町からは認識阻害で見えないようにしてはある」
「どぶさらいの……ため……?」
あんな巨大構造物、どう考えても王宮や軍隊が総力を上げても作れなさそうなモノなのに、それがただの『スライム退治』に使われる魔術の一部?
正直、冗談にもほどがある。でも、セツの口ぶりはどうやら本気としか思えない。
「……名前は『白夜のレヴァリエ』。ようするに、これはオレが独自に作った、巨大な刻印だ。これが届く範囲なら、俺の魔術が効率的に発動できる仕組みになってる」
刻印……魔術師なら誰もが知っている。
わたしも宝石ネックレス型の『刻印』を持っているけれど、それは術式を構築する時間を大幅に短縮する優れモノ。
でもそれはせいぜい手の平に収まるサイズだ。
ここにあるのは、空を支配するほど巨大な仕掛け……。
わたしのネックレスとは比べ物にならない。というか、次元がまるで違う。
「……こ、この……《白夜のレヴァリエ》……どうやって、こんなバカでかいの……」
言いかけたところで、何かが上空から急降下してきた。
ドゴォォォン!と空気を引き裂くような音。
わたしは慌てて頭上を仰ぐ。すると……そこにいたのは、人間ほどの大きさ……いや、それよりちょっと大きいくらいの漆黒のドラゴンのような生物。
でも顔はドラゴンというより鬼のような凶悪さが前面にあり、ガラスの床に爪を立てた瞬間、ギィッと不気味な摩擦音が響く。
「フハハハハッ! なんだこの空に浮かぶ妙な城塞は。まさか、この至高の存在たるオレに隠れていたとはな! さあ、下等な虫ケラどもよ、今すぐオレの前にひれ伏せ!」
濁った金色の瞳がこちらを睨みつけている。どうやら知性もあり、口を利けるほどの高位モンスター……いや、それ以上の存在かもしれない。
わたしは背筋に冷たい汗を覚えた。
……なんでこんなのがこんなにあっさり出てくるのよ!
よく見ると、そいつの背中には無数の棘が生え、そこから漏れるように黒い瘴気が漂っている。あれは相当強力な呪いか毒の類じゃないか?
ふつうの冒険者なら一撃でもくらえばアウト、いやそもそも近寄ることすら許されないだろう。
きっと王国が誇る精鋭軍を派遣しなきゃ倒せないようなクラスの化け物に見える。
「オレの名は〈虚神バルーグ・ガルゼル〉! 天より生まれし最強の種族にして、この空のすべてを支配する者! ……フン、誰が作ったか知らんが、この輝かしい空の要塞を破壊してやるわ!」
うわ、なんて勝手な理由だ。あまりにも理不尽だと思うけど、そんなのおかまいなしとばかりに、黒いモンスターは口からドロドロと瘴気を噴き出し、攻撃態勢に入る。
ヤバい! このままじゃ巻き込まれ──
とっさに武器を構えようと腰の短剣に手を伸ばすが、正直、こんなのに刃が通じるとも思えない。
「な、なんとかしないと……! セツ、逃げ──」
だけど、セツは動じる気配もなく、「はあ……」と心底だるそうに息をついた。
「面倒だな。なんで、こんなやつに目をつけられなきゃいけないんだ」
モンスターが憎々しげに叫ぶ。
「おい虫ケラども、オレを無視する気か? よかろう。ならば、せめてオレの力を少しばかり見せてやろうかァッ!」
「そうか。うん、そっちは大変だな」
あまりにも素っ気ない返事をして、セツが指先を軽く持ち上げた、その瞬間。
ガコンッ……と耳をつんざくような音が空気を震わせる。
「えっ……」
目の前のモンスターが、次の瞬間、粉々に砕け散っていた。
まるで、一瞬にして圧縮されたみたいにバラバラに砕けて、黒い瘴気も何もかも霧散する。
ズシン……と重苦しい余韻だけを残して、そいつは跡形もなく消え失せた。
一瞬にして。わたしの短剣が動く前に。セツは本当に指先をちょっと動かしただけで。
「う……ぇ……」
あまりにも呆気ない光景に、わたしは吐き気がこみ上げるのを止められなくなった。
恐怖と驚きで、胃がぎゅうっと締め付けられるようで、足は震え、膝から崩れる。
「お、おぇっ……まって……キモチわる……」
喉の奥がヒリついて、視界がぐるぐるしてくる。気づけば意識が遠のいて……
いつの間にか、わたしはガラスの床に倒れていたらしい。
頭をガンガンさせながら目を開けると、セツが面倒そうな顔で立っているのが見えた。
「大丈夫か。濃度の濃い魔力に当てられて体調を崩したみたいだな。オレが原因だ。悪かったな」
「……はぁ……?」
わたしは呆然とする。
濃い魔力に当てられて体調を崩すなんて聞いたことがない。どれだけの濃い魔力だったんだろ。
「あと、ほかの人に言うなよ。これ、秘密だから。オレの生活に支障が出るのは困るんだ」
「ひ、秘密って……こんなの隠しきれるわけ……」
そう言いかけて、あのモンスターが木っ端微塵になったシーンが脳裏にフラッシュバックする。
「言いふらしたら、あたしも……同じように粉々に……?」
そんな恐怖と矛盾した思いが、いっぺんに押し寄せてきて、わたしはガタガタ震えるばかりだった。
「……な、なんで、こんな力を隠すのよ。あんたが騎襲闘技の試合に出れば、余裕で優勝できるじゃない! 間違いなくヒーローよ? ひ孫の代まで困らないほどの金や国王だって無視できない名誉、美人だって山ほど寄ってくるわ!」
思わず声を荒げながら、わたしは叫んだ。
騎襲闘技のトッププレイヤーなんて、一国の英雄になるほど注目を浴びるし、王族からの称賛も受ける。
それこそ人生勝ち組の代名詞だってのに……。
でも、セツはあくびでもするような口調で言うのだ。
「別に今の生活で十分だしな。コーヒー飲んで、適当にドブさらいして、甘いもの食って眠る。それだけでオレは幸せなんだよね。これ以上、望む理由がわからん」
「……そんな……ありえないわよ……!」
だってわたしは、いつか己の力を高め、騎襲闘技のプロになり、すごい地位を掴んで……って夢見て、旅を続けている。
なのに、この人はすでに神をも凌駕するような魔術を手にしていながら、こんな地味な暮らしで満足だなんて。
そんなのおかしい……けど、セツの表情には嘘偽りがなかった。
「そろそろ戻そうか。あんまりここに長居されても面倒だし」
セツがそう呟いた瞬間、再び視界がぐにゃりと歪む。
足下のガラスの床が溶けるみたいに揺れて、バランスを崩したと思ったら、
「……はっ……!」
気がつくと、わたしはあのスイーツ店のトイレの前で倒れていた。
扉も開いたままだけど、中はただの普通のトイレ。さっきまでの上空の光景も、巨大モニュメントも、まるで幻だったかのように消えている。
「……なに、今の……? 幻? それとも夢……?」
どちらにしても、あまりにもリアリティがありすぎる。目を閉じれば、木っ端微塵になったモンスターの姿が嫌でも蘇る。
「え、あたし、いったい……どうすれば……」
気付けば手足が震え、心臓がバクバクとうるさいくらいに鳴っている。
あの圧倒的な力を持ちながら、それを隠してひっそり生きてるセツ……。
一体何者なの?
こわい。
結局、わたしはしばらくその場で立ち尽くすことしかできなかった。
……こんな馬鹿な。ドブさらいって、いったい何……?
頭の中で警鐘が鳴りやまない。
わたしがただ「強くなりたい」「活躍したい」と夢中になって走ってきた姿が、ものすごくちっぽけで、浅はかで……切なくなる。
もはや、セツに詰め寄る気力なんて、かけらも残っていなかった。
「……どぶさらい……ため……?」
かすれる声で呟きながら、わたしはそのまま店を出る。
身体は震えっぱなし。足元もおぼつかない。
追いつめられたような、わけのわからない怖さに支配されていた。
もう、追いかけるなんて考えすら浮かばない。
圧倒的すぎる現実を見せつけられて、心がぐしゃぐしゃで──ただ、震える唇を噛みしめるだけだった。
──ああ、わたしは、いったい何を相手取ろうとしていたんだろう?
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