6・即席の婚約者
「お前はずっとここにいればいい。余計なことはするな。守れなくなる」
予想の範囲内だが、まさか本当に来るとは。
カトレアはそれまでシエラの向かい側に座っていたソファから距離を取り、部屋の中に入ってきたルシウスにこうべを垂れる。
「第二皇子殿下に挨拶申し上げます」
すでに部屋の空気はルシウスとシエラのもの。彼女の挨拶は雑音と化した。
しかし、無視されると分かっていても挨拶は必須だ。一言だけ機械的に声を発して、カトレアはその場からフェードアウトしていく。
(こんなに近くで第二皇子を見るのは、意外と初めてかも……)
彼はまだ成人したばかりの十九歳だが、まとう気品はビンテージ。本当に見た目からでは歳が分からない。美形が放つ圧は、これまたすごかった。
ゼノイスが男前なら、ルシウスは耽美というべきか。
氷のように冷たい印象を抱かせる彼は、美しいという言葉がお似合いだ。穢れを知らない綺麗な容姿からは、とても戦場で魔物を屠る姿を想像できない。――が、間違いなくルシウスは魔物を殺してきた帰りだった。服に魔物の青い血が飛んでいる。
シエラが萎縮して身体を縮こまらせたのが分かった。
「で、でも……。わたし……」
ルシウスがどさりとソファに座るので、カトレアは自分が使っていたカップを早急に片付けて、新しいものを用意する。
シエラは非常に戸惑った様子で、彼を見上げた。
「何のためにここに来たか、忘れたのか? 仕事はあるだろ」
「――!」
彼女は何かに気がついたようで、一瞬の内に顔色を変える。
「ルシウス様、【冷障】が!」
シエラは慌ててルシウスの前に膝を突き、信じられないものを見る目で彼の姿を凝視した。
それはルシウスを見ているはずなのに、まるで彼の本質を形として捉えているかのような視線で。
「なぜ、こんなに酷くなるまで……」
悲痛な眼でそう呟き、彼女はルシウスの手を握る。
すると、ぱああっと淡い黄金の炎がルシウスの身体を包んだ。
(――すごい……。こんな魔法を使える人が、この世には存在したんだ……)
生まれて初めて目にした、神々しい魔法にカトレアは固唾を飲む。間違いなくそれは邪を焼き祓う、聖火だった。
これが、聖火の魔女。
聖女と呼ばれるに相応しい、神秘の力である。
おとぎ話だと思っていたが、本当にこんな魔法を使える魔法使いが存在していたことに、胸が高鳴った。こんな光景を間近に目にすることができるなんて、城で働いていた甲斐があったものだ。
「……流石、聖女と呼ばれるだけはある力だ。冷障どころか疲労も消えた」
黄金の炎が燃え尽きると、ルシウスは自分の手を握ったり開いたりして、そう言った。
好奇心を滲ませた、明るい口調だ。
「討伐のせいですぐにここを発ったが、元気にしていたみたいだな。顔色がよくなった」
彼は魔法で回復した自分の身体から、次はそれを発動した聖女へと興味を移す。
「は、はい! 毎日美味しい料理に、たくさん服と宝石まで用意していただきました……。ありがとうございます」
ルシウスは「座れ」と、自分の隣を手で叩いた。
シエラは畏まったまま、ちょこんと隣に座る。
「何も不便はなかったか」
「はい。カトレアがとても気を遣ってくれて、何不自由なく!」
「カトレア? ……ああ、メイドか」
彼女はこくこくと首を縦に振ったが、自分の名がルシウスの口から聞こえてカトレアは気が気でない。黒い瞳が待機している自分に刺さって痛かった。
「シエラ様の専属メイドに任命されました。カトレア・ランベルと申します」
カトレアはポーカーフェイスを貫いて、名を告げる。彼に敵と見做されようものなら、平穏な生活におさらばだ。
(真面目だけが取り柄の、ただのメイドですッ!)
ルシウスはカトレアを見定めるような目付きだったが、すぐに視線を切った。
皇族に探られるほど、恐ろしいこともないだろう。カトレアは精神的にどっと疲れる。
「ゼノ」
「はい」
彼は次に、扉前にいたゼノイスを呼んだ。
ゼノイスは待機していたカトレアのすぐ側まで歩いて来た。
愛称で呼ぶあたり、ゼノイスがルシウスにとって心を許せる側近であるということは明瞭。
ゼノイスがルシウスの近衛騎士になったのは、爵位を授かった直後。褒美として第二皇子の剣になりたいと皇帝に告げた時は、それはもう大騒ぎだった。
ルシウスの隣にいられるのは、彼くらいの実力者でないと無理だろう。という皇帝のひと言でその望みは受理されたが、しばらくの間、ゼノイスはルシウスに戦場で呪われた血を好む戦闘狂いだという噂が流れた。
当時、カトレアがそんなゼノイスに対して思ったのは、遠くの人になってしまったなという寂しさだけだった。
今、こんなに近くにいるのは、奇跡みたいなものである。
「俺がいない間、大事な客人に手出しして来たやつは?」
「第一皇子派と、教会関係者が接触を図りに来ましたね」
そんな話を今ここでするのかと思うが、カトレアは無言でその場に留まる。
他の奴らについたら、どうなるか分かっているよな。という、自分への牽制も含まれているかもしれなかった。
「教会は面倒だな。聖女を囲って金を巻き上げるつもりだろ。となると、シエラが俺についてるっていう証明が欲しくなるな……」
ルシウスはちらりとシエラを見てから、腕を組む。
「わ、わたしはルシウス様に見つけていただいて、あの家から助けてもらったんです。他の人にはついては行きません」
シエラは膝の上で拳を作って、絞り出すように言葉を紡ぐ。
実家が彼女にとって酷い場所だということは、ちゃんと自覚しているみたいだ。
「……それとこれとは話が違う。シエラにその気はなくても、権力で有無を言わさず取り込もうとしてくるやつらは大勢いる。俺みたいにな」
「ルシウス様は違います! 本当にわたしの力が必要だから、探してくださったんでしょう?」
ルシウスの自嘲気味な応えをシエラは否定したが、彼はぶれない。
「そうだ。だから、勘違いするな。俺はお前の力が必要なだけだ」
氷血の死神という二つ名に相応しい、冷たい返答だった。
思いっきり突き放されて、シエラが口をつぐむ。
沈黙が、その場の空気を呑んだ。
それから少しすると彼は何か思い出したようで、顔を上げた。
「――とりあえず、ゼノ。やっぱりお前、シエラと婚約しろよ。形だけでいい。シエラが俺の傘下であることを知らしめる。それが一番手っ取り早い」
「へ!?」
唐突に放たれた尖った提案に、シエラが心底驚いた声を上げた。
気配を殺して控えていたカトレアも、これには思わず表情を崩す。
咄嗟にゼノイスへと視線を向ければ――。
「申し訳ありませんが、オレには婚約者がいるのでムリです」
彼は、その案をバッサリ断って。
「――は?」
ルシウスが黒い目を見開いた。
顔から表情がすっかり抜け落ちている。
「……嘘だろ? そんな話は一度もお前から聞いたことがない」
「今、言いました」
「なら、今作った冗談だろ」
ルシウスは側近の唐突な告白に、本当に驚いたようだ。そんな訳があるかと、顔に書いてある。
「冗談じゃないですよ」
ゼノイスは心外だと言わんばかりの溜息混じりに肩を落とすが、ルシウスも引かない。
「下心丸出しの腹黒令嬢たちに付き纏われるのが嫌だったら婚約しろと言っても、俺が集めさせた候補者資料を全く読まずに捨てたのにか? そもそも、婚約者がいるなら主人の俺に何かひと言あってもいいだろ」
「それはスミマセン。答えをもらったのがつい最近なので」
ゼノイスはあっけらかんとしていて。
(……嘘でしょ。どうして、こんなことに……)
隣で冷や汗をかいているカトレアは、早くこの話題が終わって欲しかった。
ゼノイスが何か事情があって婚約したいなら、その理由は女避けくらいだろうと思っていた。それなのに、欺く相手が第二皇子なんて、そんなことがあるか。
絶対に、嘘だとバレる。
ゼノイスだって、美人で聖女なシエラと婚約したほうがいいだろう。
シエラを守るためにも、ゼノイスの名誉のためにも。ここは自分が引き下がって、婚約をなかったことにするべきではないのか。
しかし、それをどう伝えればいい?
カトレアは一介のメイドが、許しもなく口を出していいのか悩んだ。
だが、ここで言わずにいつ言う?
曲がりなりにもゼノイスの婚約者(仮)で、当事者なら黙っているほうが後々気まずい。
「――あ、あの。私は別に……」
カトレアは勇気を振り絞り、ゼノイスの服を摘んだ。
黒い髪が揺れて、アイスグレーの瞳が弱気なカトレアを捉える。
すると何を思ったのか、ゼノイスは彼女の腰に手を回して。
「――っ!?」
声も出せずに悲鳴を上げれば。
――カトレアはされるがまま、ゼノイスの腕の中にいた。
「殿下。オレはカトレアと結婚の約束をしています」
真横から、ゼノイスの声が聞こえる。
背中に彼の体温を感じる。
腹には、彼の剣を振るう男らしくて逞しい腕が回されている。
「それでも、真面目に仕えてきた側近の婚約をなくす気ですか?」
グッとその腕に力が込められて、自分の髪が彼の顔にあたるのが分かった。
そう自覚して、顔に熱が一気に集まる。
カトレアは、ちゃんと自分が立てているのかすら分からなかった。
好きな人に初めて名前を呼ばれ、抱きしめられているなんて。
そんなの、動揺しないほうが無理だ。
「――え! え? ええぇ!!」
シエラの叫び声が、部屋に響き渡る。
叫びたいのは、カトレアも同じだった。