4・哀れな主人
カトレアは必要なものを持って部屋と廊下を往復した。
用意しておいた熱湯と水で洗面器を満たし、ぬるま湯を作る。その側にタオルを置いて、準備は終わり。
「どうぞお使いくださいませ」
「ありがとう、カトレア」
たったそれだけのことでも、シエラはいつも礼の言葉を欠かさない。
あまりにも急に彼女の専属メイドになったので、一体どんなお嬢さまの相手をしなければいけないのかと身構えたが、彼女は優しすぎる人だった。
ここの生活について全く文句を言わないし、自分から何かを欲しがることも少ない。我慢強いのは良いことだが、無理をされては困ってしまうので気が抜けない。
(今のところ体調に問題はなさそうかな)
何せ、シエラはあの第二皇子の客人だ。
第二皇子ルシウスの二つ名は「氷血の死神」
かつて小さな国だったグランヴェルツを帝国にまで導いた、全てを凍らせる魔法の力を受け継いだ王子である。
そして、敗戦国の姫君との間に生まれたルシウスの立場は、かなり複雑だった。
争いごとや魔物たちの暴走が起こると皇帝にすぐ戦地に送られて育った彼は、自分の敵だと見做したものに容赦がないことで知られている。
幼少から命を狙われるのが当たり前だったのに加え、氷の魔法は酷使すると己の肉体も凍らせてしまうという厄介な代償を背負っていて。
このままでは、帝国の兵器として消耗されて死ぬ未来はほぼ確実。それが名誉なことだと大人は言うが、守りたいものなんてほぼないだろう国のために半強制で死ぬことのどこが誉れなのかは、まあ、理解したくはない。
そんな彼の身体を治せる唯一の存在が、破壊と再生を司る聖火の力を持つ魔女。――つまりは、聖女で。
シエラ・フロンターレこそ、ルシウスが探し続けたその人だった。
彼女のことをルシウスは公には語ってはいないが、誰もが突然やってきたシエラが何者であるかをすぐに理解した。彼の側近である近衛騎士が護衛に着いたことで、シエラがルシウスにとって特別な人だということは証明されている。
――呪われた氷の死神に捕まった、哀れな聖女。
それがシエラについての、この城での評価だった。
「……まだ朝食まで時間があるので、ホットチョコレートを淹れようかと思っていたのですが、飲まれますか?」
「の、飲みたいわ!」
顔を洗い終わったシエラに尋ねれば、彼女は目を見開いてこくこく首肯する。小動物みたいで可愛らしい。
慣れない環境だろうに、少しは心を開いてもらえているようで、ひとまずは安心だが……。
もしシエラの機嫌を損ねたり、彼女を失うようなことがあれば、どうなるか分かったものではない。
一体誰が、何十人といるメイドの中で自分を選んだのか。カトレアにその事実を知る機会はきっとないだろう。全くもって胃が痛い話だ。専属メイドになると給料が上がるのと、特別手当がたくさん出ることを期待したい。
(まあ、でも。そのおかげでトーマ卿と一緒に仕事が出来てるから。悪くないのかな)
不幸中の幸いか、主人もいい人だし、何よりゼノイスがいる。外野はきな臭い動きをしているが、憧れの人と一緒にいられるのは純粋に嬉しかった。
失望されるようなことがないように、いつも通りメイドとしてやるべきことをこなすに限る。
十三歳の下っ端から、五年間この城で揉まれたカトレアは案外心が強かった。
◆
「トーマ卿。シエラさまのお支度が整いましたので、どうぞ中へ」
カトレアは飲み物を用意して、暖まった部屋で着替えを手伝ってシエラの身支度を整えると、外で待機しているゼノイスを呼んだ。
決してシエラを急かさないようにはしたが、今日はなるべく早く彼が中に入れるように少し意識していた。
たとえ魔法使いの血が目覚めていて、普通の人間より身体能力が優れていようとも、何もせずに冷えた廊下で立っていれば寒い。凍えて動きが鈍っては笑えないので、冬場の護衛は中に入るのが普通だ。
「おはようございます。フロンターレ嬢」
「お、おはようございます。ゼノイスさん」
彼は一礼すると、無言で定位置である部屋の扉の横に立った。
騎士団に所属している大半が、薄れに薄まった魔法使いの血が覚醒した能力者だ。
自覚がないだけで、普通の人間にはあり得ない膂力や再生能力を持っている人が、この世には結構たくさんいる。
その中でも力を強く引き出せる者が実力者として名を馳せる訳だが、ゼノイスは別格で。
氷血の死神なんて異名を持つルシウスは魔法を使って剣を振るうと相手を凍らせてしまうので、返り血を浴びることがあまりない。
だから、戦場で一番血を浴びているのは、第二皇子の影の騎士であるという話は有名だった。
「……あの、よかったら暖炉の近くに」
「いえ。こちらで構いません」
「そ、そうですか……」
彼について知っているからか、男性との関わりがあまりなかったからなのか。
シエラは彼との距離を取りあぐねているみたいだ。護衛中はあまり口を開かないこともあって、黙っている美形に近寄り難い気持ちは分かる。
カトレアはそんなふたりの様子を見守った。
「そろそろ朝食の準備が整っていると思いますので、一度退出しますね」
チクタクと振り子を揺らす部屋に置かれた時計を見て、彼女は朝食の準備に移る。
少し距離がある本館の厨房に顔を出して。
用意してもらった料理をトレイに載せてもらうと冷めないようにカバーをして、カトレアは部屋に戻る。部屋に男女でふたりきりになることを避けてなのか、ゼノイスが扉の横で待っていた。
帝国騎士団本部所属の優秀な騎士さまたちは、壁一枚越しであれば中の異常くらいすぐに分かるらしい。
彼は長方形の大きなトレイで両手が塞がっているカトレアを見て、いつもドアを開けてくれる。
手が塞がってしまう状況のために、カートをわざと置きっぱなしにしているのだが、メイド相手にも真摯な対応である。
「いつもありがとうございます」
カトレアは礼を言って、ゼノイスより一歩先にシエラが待つ暖かい部屋に入った。
中まで進むと冷めない内にと、手際よくテーブルに皿を並べた。
「いただきます!」
柔らかいパンと野菜がたっぷり入ったスープに分厚いハム、デザートにはリンゴのコンポートが今朝の献立。
城の食事は割とシンプルで、皇帝が長寿のために雇った栄養士が管轄している。夕食は豪華になることも多いが、どんな時でもさまざまな野菜を使った彩り豊かなメニューが並ぶ。城の食事は、使用人や騎士たちにも評判だった。皆、よい食事をしているからか、好き嫌いをしない限り健康体である。
「今日もすごく美味しい……」
シエラは暖炉の前に置かれたテーブルで、料理を頬張った。
彼女は客人だが、今のところ招いた本人と食事を摂ったことがない。
いつも用意されたこの広い部屋で、籠の中の小鳥のように一日を過ごしている。
「お城の料理は味の濃いものを想像していたけれど、どれも優しい味付けなんですね……?」
「そうですね。毎日重い料理だと、胃がもたれて無駄な脂肪がついてしまいますから。色んなメニューが並ぶように、料理長と栄養士が毎日のように会議をされています」
「そ、そうなの……」
皇帝はその合理的な考え方を人々から支持されていた。
国のため、家のため、ひいては自分のため。
彼はよいと思ったことはたとえ平民の営みだろうと、すぐに導入する建設的な人柄で。国民たちからの評価も悪くない。
まあ、だからといって、その選択に人情というものがあるのかは、全く別の話だが。
城にいると感じるが、味方を増やすより敵を作らないことの大切さを彼は理解している。人を見る目があるし、欲しいと思ったものは外堀から埋めて懐柔するのがお得意だ。
シエラをここに招いたルシウスも、とっくの昔から彼の手のひらの上なのだろう。
「――ごちそうさまでした」
ゆっくりだが食事を平らげて、満足気な表情で手を合わせてこちらに微笑むシエラに、カトレアも目元を緩ませる。
(よかった。飲み物でお腹がいっぱいだと言われかねないと思ってたけど、ちゃんと食べられたみたい)
彼女が初日、食事を残してしまったことを気にしていたことを分かっていた。様子を見ながら、量を減らして用意してもらっているのだが、ちょうどよかったみたいだ。
少食な彼女が無理していないかを観察していたカトレアは、食後のお茶を淹れる。
「あ、あの……」
すると、じっとこちらを見ていたシエラが遠慮がちに口を開いた。
「はい。いかがなさいましたか?」
淹れ終わったティーポットをおいて、カトレアはできるだけ優しく問い返す。
「……今日で一週間になりますが、カトレアのお休みは……? ゼノイスさんも……」
気まずそうにしていて何を聞かれるのかと思ったが、シエラから言われたのはそんなことで。
カトレアは思わず瞬きを繰り返す。
「私はまとめて長期の休暇をもらったばかりなので、週休制ではなくて……」
「――同じく」
「あ、そ、そうなのね! その、すごく良くしてくれるから、いなくなっちゃうのかもしれないと思ったら寂しくて」
シエラはあくまで客人としてここにいる。
それこそルシウスの婚約者だということにでもしておけば、もっとたくさんメイドを付けて対応することができるはずだが、彼はそうはしなかった。
扱い的には、雇われた学者に近い。
彼女に関する世話はほぼ全てカトレアがひとりでやっていたので、いきなり違う人が来るのではないかと不安に思ったらしい。
「シエラ様の専属メイドとして任命されたので、上からの指示がない限りは、私が担当を続けると思います。変更になったとしても引き継ぎの挨拶はあるかと」
「わかりました。……色々と事情をはあるかと思うけれど、わたしの担当がカトレアでよかったです……!」
へへへ、と笑うシエラに。
それは他のメイドと比べなければ分からないのでは。という言葉は飲み込んで。
伯爵令嬢を相手に、口に出しては言えないが、優しくされた人には誰にでもくっついて行きそうな危うさを感じる。
ここは東の宮と呼ばれているが、本館と繋がっている棟だ。部屋を出れば色んな野望を持った者たちが目を光らせている。ゼノイスが護衛についているのは、彼女に近づこうとしている者への牽制だろう。
カトレアは曖昧に微笑んで、その場をやり過ごした。
「空いたお皿を片付けて来ますね」
「はい。お願いします」
朝食の片付けをして、カトレアは部屋の外に出る。
廊下に出た瞬間、冷気が頬を撫でて。彼女はぶるりと身体を震わせた。