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3・距離感



 パチパチ、と。

 薪に火が燃え移って木の割れる小さな音が、静かな部屋で大きく聞こえる。

 主人が起きた時に部屋が暖まっているように、暖炉にちゃんと火が着いたことを確認して。カトレアはその場に膝をついたまま、呆然と赤い火のゆらめきを眺めた。


(……婚約? 私が、トーマ卿と……?)


 彼女はつい先ほどゼノイスに告げられた言葉が、未だ信じられずにいた。

 自分が婚約を受け入れたことは分かるが、なんと返事をしたのかすでに記憶が曖昧だ。

 暖炉の火を見ていると気持ちも落ち着いて、冷静さを取り戻して来るが、やっぱりどこか夢見心地で。

 扉の向こうで待機しているであろう、第二皇子の近衛騎士に思いを馳せる。


 カトレアより三つ年上のゼノイスは、今年で二十一歳。

 確かに婚約くらいしていても問題ない年齢だが、騎士としてはまだまだ若手。浮いた噂を聞いたことがない仕事一筋の彼がこんな形で婚姻を結ぼうとするなんて、らしくなかった。

 何か理由があって婚約者がほしいということは、カトレアに求婚してきた時点でお察しだ。

 ゼノイスがカトレアに恋愛感情を抱いていないことは、間違いない。それだけは分かっていた。

 彼の言葉は、残念ながら裏などないそのままの意味で、他に婚約破棄をしても問題がなさそうで頼みやすい女性の顔見知りがいなかったのだろう。


(……こんな大事なことを提案してくれるくらいには、私のこと、信頼してくれてたって思ってもいいのかな……?)


 言葉を交わした機会は決して多くないが、すれ違った回数はそれなりにある。

 長年この城のメイドとして真面目に働いていたことが、ゼノイスの条件を何かしら満たしてくれたとしか、選ばれた理由について考えられなかった。


(入ったばかりの時は、私も騎士団本部にいたことを、覚えていてくれたのかも……)


 カトレアがこの城で働き出したのは五年前。

 城に仕えて間もない頃は、王城の広大な敷地内にある騎士団本部の仕事が割り当てられていた。掃除をしたり、洗濯をしたり、厨房では食材の下準備や皿洗いをするのが主な仕事で。メイドというより雑用係。


(懐かしい。そういえばあの頃は、今よりもっと手荒れが酷かったわ)


 新人が水仕事に回されるのが暗黙の決まりで、冬場はなんだかんだで毎日手を真っ赤にしていた。

 城の厨房は料理人しか入れないのに、騎士団本部の厨房にはメイドや執事が回される。厨房以外の仕事内容も城と比べれば、量も質もあってかなり大変だ。身分が低い者が騎士団の世話を担当するという噂もあった。

 城のメイドとして登用されたと喜んでいたら、騎士団本部に配属されて仕事を辞める。なんていうのは、珍しくもない話で。

 そういう人たちは騎士団に支えるくらいなら、貴族の屋敷に就職したほうがいいという判断をする。

 結果的に騎士団で働くメイドは、平民の出で高給取りな騎士さまの玉の輿を狙っているような強かな先輩たちくらいになって。身分が低いメイドが云々という噂は、強ち間違いでもなかった。

 かくいうカトレアも、ド田舎育ちの平民で。

 平民は平民なりに、与えられた仕事を真面目にこなすのが一番の出世コースだった。


「……大きな手だったな……」


 カトレアは先ほどゼノイスに握られた自分の手を見つめる。

 当時、仕事の合間に時々、側から眺めるしかなかった騎士さまに、カイロを貸してもらえるようになるとは。想像もしなかっただろう。

 ――いや、それはまあ、婚約を申し込まれることの方が、仰天の出来事なのだが。それとこれとは、話のレベルが違いすぎて。

 兎にも角にも、憧れの人に認識されていたという事実だけで、カトレアにとっては最大の喜びだった。



「――ん。ふぁ……。カトレア?」


 背中に鈴の鳴るような綺麗な声が聞こえて、カトレアは我に返る。

 大きな音を立てないようにしていたのに、思ってたいたことが口から溢れていた。


「すみません! 起こしてしまいましたか」


 この城の部屋は、壁際の大きな窪みにベッドが置かれている。慌てて後ろを振り返れば、彼女は仕切りのカーテンからひょっこり、美しい金色の髪と晴れ渡る空の青をした瞳の主人が顔を覗かせていた。


「いえ。ちょうど今、目が覚めて」


 カーテンの間から見えた主人はもそもそとベッドの上で上体を起こし、掛け布団を引っ張っている。

 カトレアは暖炉の前から立ち上がると、彼女の隣へ。


「おはようございます。シエラ様。まだ火をつけたばかりなので、もう少しベッドでごゆっくりなさってくださいませ」

「おはようございます。カトレア。そうさせてもらうわ」


 寝起きだというのに、天使のような微笑みを見せる新しい主人にこくりと頷く。


 彼女の名前は、シエラ・フロンターレ。

 古くから皇帝に忠誠を誓う、フロンターレ伯爵家の令嬢だ。

 一週間前、唐突に冷徹だと有名な第二皇子のルシウスによって城に連れて来られた、悲劇の聖女と呼ばれている。


(まだ朝食まで一時間はあるんだけど……)


 起床時刻にしてはかなり早い。

 まだのんびり寝ていていいのに、シエラはいつも目を覚ますのが他の貴人たちと比べて早かった。

 そして彼女は、かなり体の線が細い。

 カトレアでも簡単に抱き上げることができそうな体型をしている。

 伯爵家は夫人を亡くして再婚したと聞いていたが、どうやらシエラにあまりよい生活をさせていなかったらしい。十七歳の花盛りだというのに、怯えた様子で当たり前のようにメイドに敬称まで使おうとしたのには、流石に驚いた。

 急遽持ち場を変更されたカトレアの新しく仕えるべき主人は、訳ありの伯爵令嬢だったのだ。


「上着を着てください。今日はかなり寒いですから」

「ありがとう……」


 年がひとつしか変わらないからか。

 はたまた、呪われた第二皇子の客人を相手するのが面倒で押し付けられたのか。

 真意は分からないが、カトレアはシエラの専属メイドになった。相手がどんな人であれ、この城のメイドとしてやるべき仕事はきちんとこなす。

 細い腕に上着の袖を通させると、少し早いがカーテンを開けて部屋に光を入れた。


「何だか外が明るいみたい?」

「昨晩雪が降ったので、反射しているのかと」


 疑問に応えると、シエラは「雪!?」と目を丸くする。


「たくさん積もったの? 今は降ってる?」

「もう止んでいますが、かなり積もっています」

「わあ! ほんとう!!」


 外の様子が気になったらしく、寒さも気にせず毛布から出てカトレアの横で窓の外を覗いた。


「一面、銀世界!」

「窓際は冷えます。お身体が冷えますから、あまり長くいては駄目ですよ」

「は、はい! ごめんなさい。はしゃいでしまって……。でも、今年は寒さの心配をしなくていいからか、雪が綺麗に見えて嬉しくて」


 無垢な青い瞳を輝かせて外の世界に夢中なシエラに、カトレアは何とも言えない。

 ひとつしか年が変わらない伯爵家の令嬢だというのに。かなり苦労をしていたみたいだ。


「あったかくすれば、好きなだけ眺めて構いませんよ。……顔を洗うお湯、ご準備いたしますね」

「あっ。ごめんなさい。こんな朝早くから……。自分でやるので」

「いえ。それが私の仕事ですから」


 カトレアは慌てるシエラにそう告げて、外に準備してあるものを取りに部屋を出た。

 外に出ると、音を立てないようにゆっくり扉を閉める。

 ドアノブから視線を上げると、ゼノイスと目があった。


「お目覚めみたいです。朝の準備をしてきます」

「今朝も早いな」

「はい。……ご実家では、ゆっくり眠れなかったみたいですね……」

「そうらしいな」


 シエラの起きる時間が早いのは、ここに来た時からの話。振る舞いを見れば、彼女がどんな人柄なのかはすぐに分かる。彼もカトレアがわざと起こしているなんてことは、疑っていなかった。


「……後で、ホットチョコレートでも淹れて来ようかな」


 カトレアは考えたことを小さく独り言つと、横に置いておいたカートの前に移動する。

 そして、下の段に載っている洗面器に手を伸ばして、ハッとした。

 ――いつも通りすぎて。

 部屋の中に入る前に、ゼノイスに婚約を申し込まれたことが飛んでいた。


(あれ? もしかして、本当に夢だった?)


 何だか、よく分からなくなってくる。

 本当に婚約する気なのか。彼に問い返したい気持ちもあるが、不本意なことについてこちらから触れる勇気はない。

 ゼノイスがいつも通りなのだから、自分もそのままでいるべきなのだろう。

 彼は婚約者がほしいとは言っていたが、恋人になってくれとは言わなかった。ほしいのは、婚約者がいるという事実だけなのだ。


「どうかしたか?」

「――いえ! 何でもありません」


 動きを止めたカトレアに声をかけたゼノイスに、彼女は首を横に振る。

 カトレアはこの時、別に婚約したからと言って、彼との距離がそう変わらないことを悟った。

 そもそも婚約なんて、身分の高い貴族同士でもない限り書面で契約することはまずない。

 ただの口約束だ。付き合ってもいないのに、そんなことを本気だと信じる方が、頭に花が咲いている。


(――なんだ。今まで通りでいいんだ……)


 彼女は切り替えた。

 少しだけ残念に思ってしまったことは、期待していたということで。自分だけの秘密だった。

 





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