2・夢の始まり
始まりは半年前。
夜のうちに雪が降った、とても寒い日のことだった――。
「おはようございます。トーマ卿」
仕事が始まったばかりの早朝。
仕えるべき主人の眠る部屋の、少し前で。熱湯の入ったポットと、水差し、洗面器やコップとタオルを乗せたカートを壁際に止めて。
カトレアはすでに第二皇子の客人を護衛をしていたゼノイスに、朝の挨拶を告げた。
新しい主人の元に配属されたのは、つい一週間前のこと。同じ主人の護衛として任命された彼とは、ここ数日ほぼ毎日顔を合わせている。
いつもはカトレアが廊下に現れると一度視線をこちらに向けるのに、今日は何かを考え込んでいたのか、綺麗なアイスグレーの瞳がハッと彼女を探した。
「今朝は一段と冷えますね。もう手がかじかんでしまいました」
挨拶と笑顔はメイドの基本だ。内容のないちょっとした会話でも、必要最低限のコミュニケーションはマナー。返って来るのが簡素な応えだろうと、怠ったことはなかった。気まずくない程度に他愛もない話をして、彼女は微笑む。
(いつもは挨拶してくれるのに、珍しいな。悩み事かな……?)
ここは、古今東西の文化が入り混じるグランヴェルツ帝国の王城。東の宮。
帝都はリュカル大陸の西に位置しているが、西部だけではなく東の国の色がバランス良く、かつ実用的に混ざった文化が特徴的で。
騎士団の制服も、上衣が東、下衣は西のデザインが意識されており、帝国だけの新たな文化を開拓しているところに、こだわりの強さを感じる。
最先端の技術が集結するこの城で作られた制服を完璧に着こなしているゼノイスは、少しの間カトレアを見つめると、剣がぶら下がっている腰に巻かれた太いベルトに固定されたポーチを無言で開けた。
何をするのか観察していれば、黒い手袋をしている手で彼は何かを取り出すと、カトレアにそれを渡す。
「使うか?」
「……え? いいんですか?」
「オレは今、必要ないから」
「あ、ありがとうございます……!」
渡されたのは、強い摩擦で熱を発する砂が入った小さな布袋。カイロだった。
盗難防止や悪さを働かないようになのか、メイドの制服にはポケットが付いていないので、カトレアは私物を持ち歩けない。
親切にしてくれることに驚きつつも、ありがたくそれを借りると、早速中身が動かないように丸められた袋を開き、擦らせて冷えた手を温めた。
(……あったか〜!!)
これではマッチもろくに擦れないかと思っていたが、だんだんと熱が手に広がっていく。
しばらくゼノイスの隣で、カイロと戯れた。
数分するとカトレアはそれを返そうとゼノイスに差し出す。
「手が動くようになったので、もう大丈夫そうです。貸してくださり、ありがとうございました」
本当はまだ握っていたかったが、早く部屋に入って、暖炉に火を焚べなければならなかった。
ゼノイスはカトレアの両手の真ん中に乗せられたカイロを回収した。が、何故か、それとは反対の手で下ろそうとしていた彼女の左手を掴む。
「――!?」
あまりにも自然な流れだったが、予想外のことにカトレアはギョッとした。
驚いた反動で反射的に思わず手を引きそうになるが、ゼノイスの手はそれを逃さない。
「ト、トーマ卿?」
何事かと少し俯いた彼の顔を覗きみれば。
思い詰めた表情のゼノイスがいて。
「…………」
爪先まで毎日手入れを欠かさない令嬢とは違って、薄らマメもできている手を見つめた後、彼は告げた――。
「オレと婚約してくれないか」
カトレアは、ついに幻聴が聞こえるようになったのだと思った。
どうやら、まだ脳が目を覚ましていなかったらしい。耳がおかしな音を拾った。
「――――へ?」
だって、あり得ないだろう。
こんな平々凡々なメイドに、団長クラスの実力者で平民の出から四年前に十七という若さで爵位を授かり、見目も美しい騎士さまが婚約を申し込んでくるなんて。
そんな夢みたいな話が現実な訳がない。
きっと白昼夢でも見ているのだと、本気でそう思った。
――しかし、自分の左手には確かに握られている感覚があって。
黒い手袋をした大きな手に下から持ち上げられた自分の手を呆然と見て、それを握っている右手の主人へと視線を滑らせたら。じっとこちらの応えを待っている、ひとりの騎士とぶつかって。
見間違えるはずもない、カトレアがずっと前から憧れていた「影の騎士」ゼノイス・トーマの瞳に、自分の姿が映っていた。
そして、どうやら彼も自分の提案に困惑しているようで、握られていた手はそっと離れていく。
「……驚かせた、悪い。断ってくれて構わない。聞かなかったことにして――」
「い、いえ! 私なんかでよければ喜んで!?」
気がつけばまた彼女の口からは、全く動揺を隠せていない返事が飛び出ていた。
果たして、その反応は自分の顔が整っていると分かってやっているのだろうか?
お初にお目にかかる美形の憂気な表情を間近に見せつけられて、カトレアの心臓はばっくんばっくんと、今まで聞いたことがない音を立てた。
一体どこに、好きな人から婚約を申し込まれて、それを断れる猛者がいるというのだろう。
目を白黒させながら、つい声を張り上げてしまった自分に後悔してゼノイスの様子を窺えば――彼は、目を見開いていて。
「――は? いいのか?」
信じられないものを見る目で、ゼノイスはそう言った。――が、まあ、今の状況が彼以上に全く信じられないのは、もちろんカトレアで。
「その、え? むしろ本当に私でいいんですか? 何かの間違いではなくて? トーマ卿に婚約を申し込まれるなんて、光栄すぎると言いますか……。提案する相手はメイドのカトレア・ランベルで、よろしいのでしょうか……?」
普段、何事も落ち着いて仕事をこなす彼女を困惑させるには、十分な出来事だった。
このプロポーズはあまりにも現実味がない。
カトレアは数年前からゼノイスのことが気になっていたが、今の今までふたりの間に恋愛関係なんて微塵もなかったはずなのだ。
ゼノイスは、その優秀な能力にも関わらず、滅多に女性の噂を聞かない鉄壁の騎士。
五年ほど同じ職場で働いているので、時には必要最低限の会話くらいはするが、踏み入った話はしたことがない。
すれ違えば挨拶は交わす。
それが、カトレアとゼノイスの距離感だった。
あえて言うなら、ここ最近はゼノイスは聖女の護衛を。そしてカトレアも同じく聖女の専属メイドとして働いていたが、口が裂けても仲が良いだなんて、そんな烏滸がましいことは言えない間柄だ。
「な、何か事情があるんですよね! 他にも素敵な方はこの城にはたくさんいらっしゃいますし、焦って私に決める必要はないかと……」
全く見合っていない婚約に、カトレアには不安しかない。
ゼノイスが口を開く前に、これが彼にとっては不本意な婚約であるということを分かっている、と。
これ以上出しゃばらないためにも、自分に言い聞かせるように、そう口にする。
こんな爵位も持っていないど田舎生まれの平民メイドと婚約を結ぶなんて、彼にはなんのメリットもない。何か事情があって婚約したいのなら、相応しい人は他にもいる。お金もない、美人でもない自分である必要はないのだ。
訂正するなら今の内に夢から叩き起こして欲しかった。
それなのに――。
「間違ってない」
そう言い切った、彼の青みがかったグレーの瞳は真剣そのもので。
「もしオレが誰かと結婚するなら、あんたみたいな人がいいと思った。ランベルしか思いつかなかった」
決して虚偽を告げてはならない仕事の報告をする時と同じように、淡々とゼノイスがそう言うから。
カトレアは一瞬、頭が真っ白になる。
――それじゃあまるで、本当に告白されてるみたいだ。
一応、弁えているつもりだったのに、この破壊力。
彼が決して自分のことが好きだとはひと言も言ってはいないと分かっているはずなのに、鼓動の高鳴りが治らない。
「……ランベル」
「は、はい!」
これほどまでに真摯に自分を呼んでくれたのは、きっとこれが初めてで。
青灰色の瞳に囚われた身体は、まるで自分のものではないみたいに硬直する。
「オレの婚約者になってほしい」
それが、カトレアにとって得しかない夢のような時間の始まりだった。




