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16・お守り



 エレオノーラ姫の誕生日会が終わって数日後。

 シエラは教皇と面会のため、大聖堂に赴いた。

 シエラがどこで過ごすのかは自由にして構わないが、聖女として知るべきことを学んで欲しいと。

 教皇の言葉は、シエラが予想していたものより優しく、筋が通ったものだったようで。

 彼女は今、週に一度は帝都の端にある大聖堂に顔を出して教会の教えを学び、時には聖職者と呼ばれる治癒の魔法を使える者たちには治せない邪気を患った人を、聖火で癒やしていた。

 カトレアは、護衛騎士ふたりと一緒に毎回それに同行して。着々と評判の上がって行く聖女シエラの姿を見守る日々が続いた。


「最近、あいつも忙しいみたいだね」

「ルシウス殿下が忙しい限りはな……」


 待機している間に親交が深まり、ヨハニスとヘイロンは最近カトレアのことをよく気に掛けてくれる。

 どうやらゼノイスと会えていないことで、破局を心配しているらしく。特に愛妻家のヨハニスが、この手の話題を振って来る。

 不安そうな目に見つめられ、カトレアは苦笑した。


「大丈夫ですよ。分かっていたことですから。無事でいてくだされば、それでいいんです」

「……そっか……」

「何かあれば言えよ」


 最近めっきり、ゼノイスと会える時間が減っていた。

 暖かくなるに連れて、活動を始めた魔物が暴れる季節になったからだ。

 寂しくないと言えば嘘になるが、悲しくはない。

 仕事優先のゼノイスが、自分のことを考えて余計な疲労を感じては困る。かと言って、自分が他の人に好意を持ったかもしれないという誤解をされるのも、それはそれで面倒なことだろう。

 ただ、まあ。結局のところ彼女ができるのは、彼の無事を祈ることくらいで。

 邪魔にならない程度に何かできることはあるものか、カトレアは悩んでいた。


「――ではその、ひとつ相談をしても?」

「うん! なんだい?」


 ゼノイスとのことについて助言を求めようとすると、ヨハニスが目を輝かせる。


「騎士様に贈って喜ばれるものというか、邪魔にならないものってなんでしょうか……」


 実は未だに婚約指輪のお返しがまだできていなかった。ゼノイスは気にしなくていいと言うが、そうも行かないだろう。指輪の価値が価値なので、慎重になっていた。

 リサにもこの事については相談して、彼女には時計が無難だと言わたが、ゼノイスはルシウスから下賜された懐中時計を愛用していることを知っている。できれば他のものがよかった。


「プレゼントか! そうだな……」

「あいつ、お前にもらったものなら何でも喜ぶだろ」


 ヨハニスは腕を組む。思考を巡らせて黙り込んだ彼とは反対に、ヘイロンは断言した。

 一体何を根拠にそんなことを言うのか、カトレアには分からない。きょとんとしていると、ヨハニスが「だから困ってるんだろう?」と突っ込みを入れる。


「騎士が貰って嬉しいのは、やっぱりお守りじゃないかな? 僕は嫁さんからもらったの、ずっと大事にしてる」


 ヨハニスはそう言うと、ポーチからアミュレットを出した。大きな宝石がメインの綺麗なお守りだ。


「……すごい素敵です! これなら、自分でも作れそう……」


 魅力的なプレゼントに、カトレアはじっと目を奪われた。


(トーマ卿の無事を祈るためで恋愛的な要素も多分薄いし、邪魔にならないかな?)


 婚約指輪を貰いっぱなしで、何かちょうどいい物はないかと考えていたが、騎士に贈るのにぴったりだ。何故もっと早く気が付かなかったのだろう。


「ヨハニス卿、ありがとうございます。私もお守りを渡してみようかと思います」

「役に立ててよかったよ」


 ヨハニスは人懐っこい笑みを浮かべた。










「カトレア。すごい量の便箋ね……」

「あはは。久しぶりに手紙を送ったから、家族みんな張り切っちゃったみたいで」


 カトレアは膨らんだ封筒から便箋を取り出す。

 お守りを作ると決めてから、彼女は急いで実家に手紙を送り、そこで採れる石を取り寄せていた。

 滅多に手紙を出さないからか、石と一緒に届いた家族からの手紙はリサに驚かれるくらいには厚みがあって。

 後で何か帝都の土産でも一緒に返事を送らなければな、と思う。

 手紙と共に送られて来た包みを手に取り、カトレアはそれを開いた。


「うん、注文通り。流石ターエさん」


 そこには自分が想像した通りに削られた、深い青に金色の星が浮かぶ石が。

 あとは自分で買ってきた糸を組んでタッセルを付けようと思っていた。


「綺麗な石ね。初めて見たかも」

「ありがとう。実家の山でほんの少しだけ採れる石なんだ」

「……あなたの家、聞けば聞くほど何だか想像が付かなくなるわね……」

「リサには想像もつかない田舎であることは、間違いないよ」


 カトレアは笑って誤魔化す。

 物々交換が当たり前の辺境で狩りをして生活を送っていた事は、帝都に来てから誰にも言ったことがない。馬鹿にされるからだ。

 兎にも角にもリサに褒めてもらえれば十分な品になるだろう。彼女は一安心してお守り作りに励む。

 タッセルは少しアレンジして、家でよく作っていたものを編んだ。久しぶりに作るので最初は思い出すのに手間取ったが、一度分かるとすんなり作れた。

 そうして夜な夜な作業を進めたアミュレットは、三日後には完成して。


「なかなか上手くできたかも」


 出来栄えに満足したカトレアは、上機嫌でそれを袋に包んだ。あとは渡すだけである。


「いつ渡せるかな?」


 ゼノイスと話せるのは、彼が空いた時間にちょっと顔を出してくれるからで。そのタイミングにお守りを渡すには、どうやって持っていればいいかと考える。本当に制服にポケットがないのが面倒だ。


(……仕事が始まる前に会えたら、一番いいんだけど)


 こちらから会いに行ってもいいだろうか。

 少し考えみたが、この石は売ってもらっても彼の利益になるだろうし、ちゃんと渡しに行くべきだと思った。

 ここ数週間は忙しそうでルシウスが帰って来ても、彼がその隣にいる姿もあまり見ていない。

 会いたいなら会いに行くしかないだろう。

 ここは婚約者という役目に免じて大目に見てほしい……。

 カトレアは決心すると、ゼノイスの部屋を訪ねることにした。







 東の宮にあるゼノイスの部屋を通り過ぎることは何度もあったが、そこを目指すのは初めてで。

 カトレアは次の日の朝、他の同僚たちに生温かい目で見送られ、彼の部屋の扉の前に立っていた。


(ど、どうしよ……。やっぱりこんな時間から迷惑だよね)


 しかし廊下は静まり返り、ノックの音を出すことすら阻まれる。

 なんの連絡もなしにいきなり訪ねるのは間違いだったと。カトレアは扉の前で何もできずに項垂れた。昨日はお守りが出来上がり、早く渡したくなって浮き足立っていたのだ。冷静になると気まずい。

 ――出直そう。

 そう思って離れようとすると、同じフロアの奥からバタンッと扉が閉じる音がしてカトレアは肩を跳ねさせた。


「……!?」


 慌ててそちらを見れば、そこにいたのはルシウスで。

 黒い目線とぶつかって、カトレアの身体はピシリとそこで固まった。

 この時間から呼び鈴も鳴らさず外に出て、一体どうしたのか。

 彼はこちらに向かってスタスタ歩いてくるから、カトレアは全く身動きが取れない。

 今できる精いっぱい。お辞儀だけしてこの危機から逃れられないかと願ったが、ルシウスは足を止めて。

 カトレアが綺麗に包装したいかにも贈り物のようなものを持っているのを見て、彼は口を開く。


「こいつに用か」

「え、あ、いえ! その。もう戻り――」


 何でもないのだと目が回る気持ちで応えれば、ルシウスはしれっとそれを無視して扉に向き合い。


「ゼノイス、起きろ」


 ノックもなしにドアを開けると、寝台を仕切るカーテンを勢いよく引いた。

 カトレアは突然のことにギョッとする。声も出なかった。皇子のやることを止める訳にもいかないし、どうしていいのか分からない。

 ルシウスは開けた扉を背で押さえて、腕を組むとベッドに視線を落とす。


「――じけんですか」

「違う」

「…………」


 枕に沈んだ黒い髪がごそりと動き、くぐもった声が聞こえた。

 聞いたことのない声色に、カトレアは卒倒しそうになる。


「……でんか、オレ、かえってきたのいまさっき」


 ルシウスが起こしに来る時点で、彼に危険がないことが分かっているからなのか危機感はない。

 ゼノイスは寝ぼけた声で文句を言いながら、眠くて辛いのか額に腕を乗せた。


「貸しひとつな」

「……?」


 しかし、ルシウスはそれを全く気にすることなく、そう告げて。クイと視線をカトレアに寄越す。

 これ以上話すことはないと言わんばかりの様子で、そこを去って行った。

 開けっぱなしにされたドア。

 取り残されたカトレア。

 ここまでしてもらって、逃げる事もできず。


「起こしてしまって、すみません。トーマ卿……」


 覚悟を決めたカトレアは、そっとドアの間から顔を覗かせた。


「――……カトレア?」


 ゼノイスが名前を呼ぶ声と、毛布が擦れる音がして。


「渡したい物があって。棚の上に置かせてください。おやすみなさいませ」


 単的に言いたいことをまとめて、扉のすぐ隣に置いてあった棚に、腕を伸ばしてプレゼントを載せ。

 カトレアはドアノブ掴んで、いつものように音を立てないよう、ゆっくりそれを閉める。


「――ま、まって」


 しかし、それは途中までしか閉まらず。

 ベッドから起きて来たゼノイスに止められた。


「これは? どうしてここに? なんで殿下と? もう行くのか?」


 質問責めにされ、温かい手が行かないでくれとカトレアの手首を掴んだ。

 ゼノイスの部屋に行きたいから少し時間が欲しいと仲間に伝えると、ミレーユが朝の仕事は変わるから、今日は昼食の準備までゆっくりしてていいと言ってくれている。シエラの世話はカトレア、ミレーユ、キャシーで回すようになっていたので、それに問題はなかった。今回はミレーユの言葉に甘えて、ここまで来た訳だが……。


「婚約指輪のお返しです。何も言わずに来てごめんなさい。出直そうと思ったら、殿下とお会いして。その、もう戻りますね……」


 あまり眠れていないゼノイスを起こしてしまった罪悪感があった。

 何より――寝起きのゼノイスを直視できない。

 ちゃっかり見てしまった彼の姿は、いつもと違ってゆるっとしていて。髪も乱れ、何だかあどけない。

 カトレアはギャップに胸を刺されて、下を向いていた。これ以上、沼に落ちる要素を増やさないで欲しいものだ。


「…………」


 だから。カトレアはゼノイスがそんな自分を、じっと見つめていることは分からない。


「仕事?」

「いえ。ミレーユが代わってくれて」


 邪念を押さえつけて無かったことにすると、カトレアは首を横に振った。

 すると、ゼノイスは掴んだままだった腕を力強く引っ張って、彼女をすっと部屋の中に入れて。

 ぱたんと扉が閉まった音に、カトレアは「へ?」と声を上げる。

 ふたりだけで会うことは何度もあった。しかし、ここはゼノイスの完全なプライベートな空間だろう。こうもすんなりと自分を部屋に上げてしまっていいのか?

 カトレアは数人、ゼノイスの部屋に忍び込もうとして辞めさせられたメイドの話を知っていたので困惑する。

 目の前にいる寝起きの騎士を、カトレアは目を丸く見開き、不思議な顔で見上げた。


「会いに来てくれたのか?」

「はい」

「オレにこれを渡すために?」

「はい」

「仕事を代わってもらってまで?」

「すみません」

「怒ってない」


 朝の眩しい光が差し込む部屋の中、ゼノイスの質問に答えると。


 背中に腕が回されて。

 ――ぽす、と。

 彼の腕の中に収められていた。


 ゼノイスの肩にすっぽり埋まって。

 すぐ側に彼の体温と石鹸の柔らかい匂いがするから。

 カトレアは目を見開いたまま、キュッと口を結んだ。


(ああ、もう……。ほんと……)


 どうしようもなく、胸が、苦しかった。

 いや、それはまあ、曲がりなりにも婚約者として選んでもらえたのだから、このくらいのスキンシップはするかもしれないが――。

 タイミング的に挨拶のハグではないことは、分かる。そもそも彼が挨拶でハグをしているところは見たことがない。カトレアも実家の方では挨拶に抱きしめることくらいするので、ウブではないはずなのに、相手が相手なので心臓が暴れ回る。

 このまま身体を預けてしまいたいが、残された腕は空を切った。彼のためにも、すでに片足を沼に入れてしまった自分のためにも、理性が止めた。

 彼女の葛藤など知らず。手は背中に回したまま、ゼノイスはそっと身体を離してカトレアを見下ろす。


「――……その、ありがとう」

「まだ、中身は見てませんよね?」


 カトレアはやり切れない思いで苦笑した。

 どう考えても好きだからこのまま結婚してくれとは言えない。この関係が壊れて、もう二度と相手にしてもらえなくなることが怖いからだ。

 ただ、彼女。この婚約で、彼からしてくれる有難いことは甘んじて享受する所存ではいた。儚き夢の役得である。自分から離れるなんて勿体ないことはしない。


「開けていいか?」

「はい」


 カトレアは、こくりと頷いて照れ臭そうにはにかむ。

 ゼノイスの手はするりと離れていった。

 彼は片手に握っていた袋を見つめると、立ったままでは何だからと思ったのか、ちらりと後ろを振り返った。

 初めて入ったゼノイスの部屋は、思った以上に本が並んでいる。机の上には栞が挟んである本が見えて、彼女は意外だった。カトレアは彼が本を読んでいるところを、見たことがなかったからだ。

 なんとなく、騎士だから部屋にも武器や装備がいっぱい置かれているのかと想像していた。


「読書家なんですね。知りませんでした」

「オレもずっと忙しい訳じゃないから。時間がある時は結構読む」


 ゼノイスはそう言って、中に入って行くとひとつしか置いていない椅子をすすめる。


「私からの贈り物ですし、トーマ卿が座ってください」

「いや、オレはこっちに座るから」


 ゼノイスはベッドに座り、その近くに持ってきた椅子にカトレアがちょこんと腰掛けた。

 彼がこちらを見上げるから、カトレアは「どうぞ」と告げる。

 リボンが解かれ、袋の口からスルッと。

 昨日作り上げたばかりのアミュレットが、ゼノイスの大きな手に滑り出た。


「これ……」

「お守りです。その石は持っていると幸運を呼び寄せると言われていて、飾りは魔除けや無事を祈って編んでみました」


 簡単に説明すると、ゼノイスは目を丸くして。


「作ったのか?」

「はい。あ、石は頼んだんですけどね」


 本当は自分で採りに行きたかったが、それだけで仕事を休めない。たとえ帰ったとしても、どうして必要なのか聞かれるのも困る。

 最終的に目利きの良い家族に選んでもらったが、ちゃんと自信を持って渡せるものになっている。

 カトレアは再びアミュレットに視線を落としたゼノイスの顔色を窺った。

 彼にとっては、ガラクタでしかなかっただろうか。


「実家の近くで採れる魔石で、ちゃんとそれなりの価値があると思います。私が知ってる中で一番、ゼノイスさんに贈りたいものを選んだのですが……」


 これは私的な贈りものだと意味を込めて、普段は控えている彼の名前を呼んだ。

 じっと手のひらに載ったそれを観察していたゼノイスは、ハッとカトレアを見て。


「ありがとう。大事にする。……まさか手作りだとは思わなかったから驚いてた」

「嫌でした?」


 初っ端のプレゼントが手作りはまずかったのかと、カトレアはさっと青ざめる。

 実家ではお守りや飾りなどは自分の手で作るのが当たり前だったのでそうしたが、重かったか。


「違う。オレのためにちゃんと用意してくれたのが分かったから……」


 しかし、ゼノイスはそれを否定する。


「持ち歩きたいけど、壊しそうで怖いな」


 嫌ではなかったようなので、カトレアはホッとした。


「大丈夫ですよ。もし汚れても、失くしても、壊れても、お守りはまた作ればいいんですから! きっと、そういう時はゼノイスさんに降りかかる厄をお守りが払ってくれてるんです。だから、もし壊れても気にしないでください」


 カトレアは何のてらいもなく、そう言った。

 別に汚してもいい。壊れてもいい。失くしてもいい。――売ってもいい。

 それでゼノイスの役に立つならば、彼女には十分だった。


「……分かった。ずっと持ってる」

「ありがとうございます」


 アミュレットを握り込んだ彼に、カトレアは照れながら頷く。

 自分が渡したものをずっと持ってくれるとは、婚約者万歳だ。心の中で紙吹雪を散らした。


「私も指輪、いただいた日からずっと持ってますよ」


 その喜びのまま、彼女は首元の金具をぷつりと外してネックレスを引っ張る。指輪が滑って取り出しにくいが、片手でそれを捕まえて。

 ちゃんと言われた通り持っているぞ、と。

 ゼノイスに笑って見せれば。


「――カトレア」


 彼は硬い声色でカトレアを呼んで。

 ころりと雰囲気が変わったゼノイスの目が、今まで自分に向けられたことがない鋭く尖ったもので固唾を飲む。



「それ、他の男の前でやるなよ。絶対にだ」



 念を押されるが、「それ」とは何だ?


「……?」


 困惑したまま、自分が何を言われているのか理解しようとして、カトレアは自分の首元に視線を落とす。

 指輪を取ろうとして、首の詰まった服の留め具は外されたまま。


「ッ!?」


 そこまで露出している訳ではなかったが、それをゼノイスから指摘されたことにカトレアは混乱した。

 パッと首元の服を押さえて、目の前にいるゼノイスの顔を窺えば、青灰色の瞳は気まずそうに横へ逃げる。


「へ!? え! す、すみっ、ません。品がなかった、でしたっ」


 顔が熱い。

 今すぐこの場から逃げ出したい。

 本当に恥ずかしかった。こんなことをゼノイスに言われるなんて。

 この場に流れる雰囲気をどうしていいのか、分からない。

 ちゃんと女として気を遣われたのが、ダイレクトに伝わって来て。まさか自分にそんなことを、この男が思っているとは思わず、カトレアは真っ赤に茹で上がっていた。

 恥ずかしさと居た堪れなさと、気まずさで、どうにかなりそうだ。

 こんな消えてしまいたくなる感情を抱いたのは、いつぶりだろう。

 早く指輪をしまって留め具を閉めなければ。

 彼女は慌てて指輪を服の中に入れ、ホックを留めようとする。


(……あ、あれっ? なんでっ)


 しかし、焦れば焦るほど自分では見えないところが留められなくて。

 こんなこと、いつもは鏡を見なくてもできるはずなのに。相当混乱していた。

 カトレアは最早、涙目である。

 ちらりとゼノイスに目線を戻せば、ばっちり目があってしまって。


 ――もうとりあえず、ここから逃げよう。


 考えてみれば、ここはゼノイスの部屋で。

 それも彼はベッドの上だし。

 まさかビジネスパートナーのような自分に、そんなことを指摘するとは、幻滅されたかもしれない。

 今まで全く気にしていなかった自分が悪いが、憧れの人から言われてしまったことに、女としての何かがえぐられていた。

 カトレアは椅子から勢いよく立ち上がって、ホックを掛け違えたままこの部屋からの脱出を試みる。


「お目汚しを、すみませんでしたっ!!!」

「おい。まさかそのまま行く気か!?」


 ゼノイスの言葉は聞こえていない。

 彼女はただ、出口目指して一直線。

 しかし、動転したカトレアより先に、脚の長いゼノイスが前へ回った。


「落ち着けって。絶対何か勘違いしてる」


 彼はここから出さないと言わんばかりに、扉の前に立ちはだかる。


「どうしてカトレアがオレに謝る必要がある?」

「それは、不快な思いにさせてしまって!」

「何でそうなるんだよ……」


 カトレアの応えを聞いたゼノイスは、額に手を乗せた。

 ますます状況が分からなくなったカトレアは、思考を放棄した。

 ただ、申し訳なさそうにゼノイスを見つめる。


「そうじゃなくて。さっきのは、あんたが危ないから言ったんだ」

「私が?」


 ――何故?

 きょとんと、カトレアは小首を傾げた。


「……他のやつに勘違いされて、危ない目に遭うかもしれないだろ」

「ゼノイスさん以外に、こんなことしませんよ!?」


 カトレアは即答する。

 これでも一応、ゼノイス以外の男性の前では気も服も全く緩めたことがなかった。そんな軽いやつに見えたのだろうか。心外である。


「わ、私は! トーマ卿にこんなことを言わせてしまって、自分が恥ずかしいんです!! 頭を冷やして来たいので、そこを退いてもらってもいいですかっ」

「…………」


 再び自分の失態が思い出されて、カトレアは小さく叫ぶ。とても冷静ではなかった。頼むからそこを退いてくれと、頭はそれでいっぱいだ。

 横にずれてドアに近付こうとすれば、ゼノイスも一歩横にずれて。そこを譲る気配はなく、彼は押し黙る。


「……そのまま出られると、何を言われるか分からないけど」

「うっ」

「触れていいか……?」

「…………すみません」


 スッと首元に手が伸びてきたので、シュンとしたまま、ゼノイスが掛け違えたホックを外すのを受け入れる。

 服も着られないなんて子どもみたいだと、自分が情けなくなっていると。

 するりと首筋を撫でられる。


「わっ!?」


 驚いて、カトレアは肩をすくめた。

 目を白黒させてゼノイスを見つめると、彼は言う。


「オレも男だってこと、忘れるなよ。婚約者殿」

「……!?!?!」


 カトレアはゼノイスの視線に囚われて、ついに何も言えなかった。







 首だけ振って返事をし、彼女が部屋を出た後。


「……はぁー……」


 ゼノイスがずるずるとその場に座り込み、ため息を吐いていたことなど、カトレアが知る訳もない。





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