序・婚約破棄
好み暴走見切り列車が通ります。
「カトレア。……婚約を、なかったことにさせてほしい」
小さく揺れた青灰色の瞳が、ひとりの娘に注がれる。
そこは、全く人の気配が感じられない王城の広い廊下。静まり返った空間に、男の声がよく響く。
それは間違いなく、ふたりの関係を終わらせようという宣言に他ならなかった。
闇に溶ける真っ黒な髪に、端正な顔立ち。鍛え上げられた肉体には、洗練された騎士団の制服がぴったりで、誰もが一度はその姿を目に焼き付ける美丈夫。
それがカトレア・ランベルの婚約者であり、グランヴェルツ帝国騎士団に所属する第二皇子近衛騎士のゼノイス・トーマという男だった。
(意外と遅かった、のかな……?)
カトレアは自分とは全く釣り合っていない眉目秀麗で実力も十二分な騎士を目の前に、そう思う。
彼の瞳に映る自分は、お仕着せを着ていつも同じ髪型とメイクで固めた、華やかさに欠けるメイド。
美人だったら、ただのお仕着せでもその容姿は際立つのだろうが、カトレアは性格が大人しいからなのか、存在もあまり目立たないタイプだ。
メイドとしては評価されるが、それが男前の騎士さまの隣に立つ人物としては、正直劣る。
むしろ、この婚約がよく半年ももってくれたものだと、喜びさえ感じていた。
だから、彼女は美形の婚約者殿に、理由も聞かずにただ優しく微笑む。
「――はい。わかりました!」
カトレアは分かっていた。
いつかこんな日が来るだろうと。
約半年前、婚約を決めて彼からもらった指輪。
仕事中には邪魔になってしまうから、チェーンに通してネックレスとして身につけていたそれを、彼女は躊躇なく首から外す。
「これはお返しいたしますね」
もらった中で一番値段が高いだろう魔石があしらわれた婚約指輪は、ゼノイスとカトレアを繋ぎ止めていた唯一の証明。
これを返せば、もうゼノイスに何の理由もなく話しかけることは、難しくなるだろう。
少し寂しいが、そろそろ夢から醒めなければならない時間らしい。
カトレアは差し出した指輪を無言で見つめるゼノイスの、剣だこだらけの硬い手を取って、それを載せる。
彼が初めて自分のために贈ってくれたプレゼントだった。
未練がましく保管することはできるが、売ったり捨てたりして自分から手放すことは絶対にできないから。カトレアはゼノイスに任せることにする。
「何の取り柄もない私とお付き合いくださり、本当にありがとうございました! これからはまたよき仕事仲間として、どうぞよろしくお願いいたします」
メイドらしく、最後は深々と頭を下げて。
カトレアは五年前ほどから敬愛していた騎士に、最大の敬意を込めて別れを告げた。
自分がその場を去った後、ゼノイスが主人を失った婚約指輪を力強く握りしめていたことなど、知る由もなく――。
「確固たる決意を持って、幸せにしたいカプが爆誕した件。〜私が絶対幸せにするからな〜」でお送りします。by作者