相原夫妻の朝――5
朝食を終え、食器を洗った玲那は、教科書やノートが入った紺色のバッグを手に、玄関へと向かった。
時刻はまだ七時前。登校するにはかなり早いが、玲那は大体この時間帯に家を出ている。
俺と玲那は学校ではなるべく関わらないようにしているために登校が別で、玲那は早めに、俺は二〇分ほどあとに家を出る。電車通学の俺たちにとっては、同じ電車に乗らないための対策にもなるし。
ちなみに、『学校ではなるべく関わらない』ルールを決めたのは玲那だ。
超絶ブラコンの玲那からの提案とは思えないが、おそらく、自分がブラコンだとバレないようにするためだろう。
俺も玲那を見送りに玄関にきている。
黒いパンプスを履き終え、玲那が立ち上がった。
「では、いってきます」
「忘れ物はないか?」
「忘れ物……そうですねぇ……」
玲那が視線を斜め上にやり、「うーん」と考え――頭の上に電球が浮かんだような顔をした。
そこはかとなく嫌な予感がする。
「ひとつありました、忘れ物」
「なんだ? とってこようか?」
「大丈夫です。いま受け取りますから」
「いま?」
玲那の言葉の意味がわからず、俺は眉根を寄せる。
そんな俺にズイッと顔を近づけ、玲那がまぶたを伏せた。
「な、なにしてるんだ、玲那? 忘れ物は?」
「新婚夫婦といえば決まってるじゃないですか」
戸惑う俺に、玲那が片目を開けてニヒッと笑う。
「いってらっしゃいのチューです!」
「却下!」
「ええーっ!」
俺が両腕でバッテンを作ると、玲那が頬をむっくりさせた。
嫌な予感は当たっていたらしい。
こいつ本当に、臆面もなく恥ずかしいことを口にするよな。ちょっと尊敬するわ。
「お兄ちゃんは嫌なんですか?」
「嫌ってわけじゃないけどさ……」
「ならいいじゃないですか、わたしたちは夫婦なんですし。海外では挨拶代わりにキスするんですよ? フランクに考えましょう」
「俺は知ってるぞ、玲那。海外の挨拶でするキスはチークキス。頬にするやつだ。唇にじゃない」
「そこは相原家アレンジで」
「さらっと嘘をついてさらっと流したな」
「とにかくキスしてください!」
「最後は直球かよ!」
玲那が改めて目を伏せ、「んー」とキス待ち顔になる。
リップでも塗っているのか唇はぷるぷるで、まつげは長く色っぽい。
否が応でも心臓が高鳴り、俺は顔を玲那に近づけていく。
キンモクセイに似た玲那の匂いを感じながら――俺は触れた。
ムニィ
「ふぇ?」
両手で、玲那のほっぺに。
「調子に乗りすぎだぞ、玲那」
「お、お兄ちゃん、そんなムニムニしないでください!」
「おおー、よく伸びるなー」
「ダメですってばー!」
玲那の頬を両手でつまみ、縦に横にムニンムニン伸ばし、お仕置きとして強制的に変顔をさせる。
玲那がペンギンみたいにパタパタと両腕を振り立てる。それでも目は嬉しそうに細められていた。
こいつ、スキンシップとして楽しんでるな? お仕置きにならないじゃないか。
むしろこっちが緊張するんだが? 超絶美人のほっぺに触れてるから当然だけど、ドキドキが止まらないんだが?
やはり玲那には勝てない。
俺は苦笑交じりの溜息をついて、玲那の頬から手を離した。ぷにぷにスベスベな手触りが名残惜しかったのは内緒だ。
「わがまま言ってないで早く行きなさい」
「むぅ……仕方ないですね。今日はほっぺたムニムニが気持ちよかったのでよしとしましょう」
やっぱり楽しんでたんじゃないか。てか、『今日は』ってことは明日もキスを迫られるってこと?
参ったなあ、と頭を掻いていると、玲那の顔つきが一変した。
先ほどまでの人懐っこい笑みが消え、代わりに浮かぶのは、穏やかで、神秘的で――どこか無機質な、アルカイックスマイル。
玲那は仮面を被ったんだ。『深窓の令嬢』の仮面を。
胸がモヤモヤした。玲那が仮面を被る理由を、俺は知っているから。
「それでは行って参ります、兄さん」
玲那が丁寧なお辞儀をして玄関を出ていく。
残された俺はもう一度溜息をついた。今度は苦笑交じりのものではなく、憂鬱だけが込められた溜息を。