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相原夫妻の朝――4

 帰ってくる頃には六時になっていた。


 ランニングで()いた汗を、熱めのシャワーで流す。


 もちろん浴室にいるのは俺ひとりだ。玲那がなにかをねだるような顔をしてきたが、断固として断った。


「まったく……玲那には振り回されっぱなしだ」


 水道のレバーを(ひね)ってシャワーを止め、俺はぼやく。


 もうもうと湯気が立ちこめるなか、俺はシャンプーのボトルに手を伸ばし――止めた。かすかに、覚えのある匂いがしたからだ。


 甘く(かぐわ)しい匂い。キンモクセイに似た玲那の匂い。


「……ちょっと前まで、ここに玲那がいたんだよな」


 甘い残り香は、玲那がここにいた(あかし)だ。


 ここで玲那はシャワーを浴びていた。ジャージを脱ぎ、生まれたままの姿になって。


 玲那の裸体が脳裏に浮かぶ。


「イイイイカン! 想像するな俺!!」


 俺はブンブンと勢いよく頭を振った。


 湧き上がる邪念を払うため、水道の温度調整レバーを『冷』のほうに目一杯(めいっぱい)捻る。


心頭滅却(しんとうめっきゃく)! 煩悩退散(ぼんのうたいさん)!」


 気合を入れるために叫び、冷水のシャワーを頭から浴びた。


 四月初旬の早朝。水温はもちろん非常に低い。


(つめ)ってぇええええええええええええええええええええええええええええええ!!」


 必然、俺は悲鳴を上げることになった。


 (はた)から見たら、さぞや俺はおかしなやつに映ったことだろう。





 シャワーを終え、髪を乾かし、制服に着替えてダイニングに向かう。


 ダイニングのドアを開けると、すでにテーブルには朝食が並んでいた。ホコホコと湯気が立ち、美味しそうな匂いがここまで漂ってくる。反射的にヨダレが出た。


「お兄ちゃん、朝ご飯できてますよ」

「ありがとう。今日も美味そうだな」

「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいです」


 頬を緩める玲那は、制服のうえにエプロンをつけ、調理の邪魔にならないためにか、長い髪を髪留めでまとめている。


 その雰囲気がとても奥さんっぽくて、俺は玲那と結婚したんだと改めて実感した。ベッドに潜り込まれたときよりも、キスをせがまれたときよりも、いまのほうが(はる)かに夫婦感を覚えるのはおかしな話だ。


 なんていうか、気恥ずかしいな……。


 照れくささと喜ばしさが混ざったような高揚感(こうようかん)がむず(がゆ)くて、俺はポリポリと頬を掻いた。


「さあ、冷めないうちに食べましょう」

「お、おう」


 食後に洗い物をするためか、エプロンをつけたまま玲那が席につく。玲那が隣の席をポンポンと示したので、俺はそこに座った。


 父さんと母さんがいない食卓。家族がふたりも減ったのに、不思議と寂しさは感じない。認めるのは面映(おもは)ゆいが、それだけ、俺のなかで玲那の存在が大きいということだろう。


「いただきます」

「はい、()し上がれ」


 今日の朝食は、菜の花と油揚げの味噌汁(みそしる)、だし巻き風玉子焼き、キュウリの浅漬け、納豆(なっとう)だ。


 箸をとった俺は、まず味噌汁に手をつける。


 一口すすると、白味噌の優しい味わいと出汁(だし)のうま味が口いっぱいに広がり、芳醇(ほうじゅん)な香りが鼻から抜けていった。


 ほぅ、と息をつき、菜の花をパクリ。シャコシャコした小気味(こきみ)よい歯ごたえは、絶妙なゆで加減の、なせる技だろう。(ほの)かな苦みが春を感じさせた。


 続いては玉子焼き。箸で切った(そば)からじゅわりと出汁がしみ出し、食べなくても美味しいとわかる。


 口に運べば期待を裏切らない、いや、期待を超える美味さ。卵と出汁のうま味を、みりんの甘さがまとめていた。一噛みごとに口のなかが幸せになっていく。


 玉子焼きの味が残っているうちに白米をかき込めば、日本に生まれてよかったなあ、としみじみ感じさせられた。粒立(つぶだ)ちのよさは炊飯器の性能によるものだけじゃない。きっと、玲那が一手間(ひとてま)加えてくれているのだろう。


 最後にキュウリの浅漬けで締める。刻み昆布(こんぶ)をアクセントにした玲那のお手製だ。当然、文句なしに美味い。


 ほっこり気分で納豆の器を手にすると、なにも言わずとも差し出される出汁醤油(だしじょうゆ)(びん)。玲那の妻力(つまりょく)の高さには頭が下がる。


「相変わらず玲那の料理は最高だなあ」

「隠し味は愛情です!」

「いや、別に聞いてないけど」


 俺の妻の愛情アピールがスゴい。


 苦笑すると、玲那がふわりと(いつく)しみに溢れた微笑みを浮かべた。


「これからも毎日作ってあげますから、ずっと一緒に食べましょうね?」

「あ、ああ、頼む」


 思わずドキッとした。ストレートな好意が照れくさい。


 よく平然としてられるな、玲那。言われた俺のほうが恥ずかしいぞ。きっと俺の顔、真っ赤になってるだろうなあ。


 照れくささを誤魔化すためにガシュガシュと納豆をかき混ぜ、出汁醤油を垂らしてズゾゾゾゾ、とすすった。


 納豆の器を一旦(いったん)置き、再び玉子焼きを口にする。うん、何度食べても美味い。


「それにしても、玲那の玉子焼きは別格だよな。前は母さんの玉子焼きが好きだったけど、いまでは玲那のが一番だ」


 俺は昔から玉子焼きが好きだ。母さんがよく作ってくれて、俺も喜んで食べていた。俺にとっての『玉子焼き』は『母さんの玉子焼き』だった。


 が、父さんと母さんが再婚し、玲那が家事を手伝うようになってから、いつの間にか俺にとっての『玉子焼き』は『玲那の玉子焼き』になっていた。


 それくらい玲那の玉子焼きは、俺の好みのど真ん中なんだ。


 幸せとともに玉子焼きを味わっていると、自分の玉子焼きに箸を伸ばしながら、玲那が打ち明ける。


「お母さんからレシピを教わったんです。お兄ちゃんの好物だと聞いたので」

「そうだったのか。でも、母さんには悪いけど玲那のほうが美味いぞ?」


 同じレシピなのに、なぜ玲那のほうが美味いんだ? もしかして、本当に愛情が味をよくしているのか?


 首を(ひね)っていると、玲那が笑みをこぼした。


「実は同じレシピじゃないんです。いっぱい試行錯誤したんですよ」


「試行錯誤?」とオウム返しすると、玲那が「はい」と頷く。


「お兄ちゃんの反応を参考に、材料の分量とか、火加減とか、焼き時間とかを、微妙に調整してきたんです」

「そんな手の込んだことを……大変じゃなかったか?」

「いいえ?」


 花咲くように、玲那が満面の笑みを浮かべる。


「試せば試すほどお兄ちゃんが美味しそうに食べてくれるんですよ? 幸せしかなかったです」


 キューッと胸が(うず)いた。


 一気に熱くなる体。マンガなら、俺の頭から湯気が上っていたことだろう。


 ふと、母さんの言葉を思い出した。




 ――いい? 玲那ちゃんほどあんたを想ってくれてる子はいないの。(のが)したら絶対後悔するわよ?




 まったくもってその通りだ。玲那はずっと、俺を想いながら料理してくれていた。俺にはもったいないくらいできた妻だよ。


「玲那にはドキドキされっぱなしだな」

「わたしも四六時中(しろくじちゅう)ドキドキしてますから、おあいこですね」

「そ、そういうとこだぞ! もっとドキドキしちまうだろ!」


 玲那にはやられっぱなしだ。こいつに好きになられた時点で、こいつを好きになった時点で、俺が振り回されることは決まっていたんだろう。


「……ありがとな、頑張ってくれて。美味しいよ」

「ふふっ、ありがとうございます」


 男をつかむなら胃袋をつかめとよく聞くが、俺は心まで、ガッツリつかまれてしまっているらしい。

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