相原夫妻の朝――2
一騒動あったのち、俺と玲那は一階の洗面所に移動し、並んで歯を磨いていた。
歯磨き粉のミントの香りが目を覚ます。さっきのわちゃわちゃで、目なんかとっくに覚め切っているわけだが。
一本一本丁寧にシャコシャコ歯を磨いていると、隣にいる玲那と肩が触れあった。
ドキッとして、パッと離れる。
いやいや、こんなのいつものことだろ。玲那とは毎日一緒に歯磨きしてたし、肩だってしょっちゅう当たってたし。
心のなかで言い聞かせても、ドキドキは止まらない。
夫婦になるとはこういうことなのだろうか? 『いつも通り』にときめいてしまうことなのだろうか?
「えいっ」
「ちょっ!?」
などと考えていると、玲那がピトッと肩をくっつけてきた。動揺により体がビクッと跳ねてしまう。
「や、やめろ、玲那! 恥ずかしいだろ!」
「いいじゃないですか。新婚っぽいことがしたいんですよ」
上目遣いで放たれたセリフがいじらしすぎて、俺は言葉に詰まった。
視線を泳がせたのち、なんとか一言絞り出す。
「……くっつくだけだからな」
「やっぱりお兄ちゃんは優しいです♪」
何度も何度も直そうと思ってきたけど、どうしても無理だ。つい、俺は玲那を甘やかしてしまう。
その理由はわかっているが、決して教えられない。
『俺も玲那とイチャつきたいから』なんて打ち明けたら、とんでもなく激しいスキンシップが待ってることだろうしな。
赤面する俺を鏡越しに眺め、玲那が満足そうに目を細める。
せめてもの反撃に半眼で睨むが、玲那はまったく意に介さない様子だった。
玲那がコップを手にとり、クチュクチュと口をゆすぐ。
「では、わたしは着替えてきますね」
歯磨きを終えた玲那はタオルで口元を拭き、洗面所をあとにした。おそらく、俺のある習慣に付き合う準備をしてくるのだろう。
「今日もついてくるのか?」
尋ねると、玲那が足を止め、ニッコリ笑顔で振り返った。
「もちろんです。お兄ちゃんにとってだけでなく、わたしにとってもルーティンワークになってますから」
シューズに足を入れ、靴紐をしっかりと結ぶ。
つま先で地面をトントンと鳴らし、シューズの具合を確認。「よし」と頷き、俺は玄関を出る。
鍵をかけて振り返ると、俺と同じくジャージに着替えた玲那が待っていた。
「行きましょうか、お兄ちゃん」
「待て待て、ストレッチがまだだろ? 体をほぐさないとケガするぞ」
「そうでした。油断は禁物ですね」
玲那が素直にストレッチをはじめる。俺もまた、屈伸をはじめた。
俺と玲那の習慣。それは早朝のランニングだ。
時刻は五時を回ったばかりで、外はまだ薄暗い。四月初旬の朝の空気は冷たく、張り詰め、まるで冬に戻ってしまったかのようだ。
冷たい空気が肌を刺すなか、筋肉をほぐしながら体を温める。
運動前のストレッチは大切だ。特に起床直後は全身が固くなっているため、入念にほぐさないとケガのもとになる。準備を怠ると、運動は逆効果になってしまうんだ。
俺がアキレス腱を伸ばすなか、玲那もちゃんと肩のストレッチをしていた。
運動しやすいよう、玲那は長い髪を束ね、ポニーテールにしている。ジャージの襟からはうなじが覗いていた。
白く透き通ったうなじに、思わずドキッとしてしまう。
なんでだろうな? ただの髪の生え際なのに、女性のうなじに魅力を感じてしまうのは。
「どうしたんですか、お兄ちゃん?」
「へぅっ!?」
うなじに見とれていると、不意に玲那が振り返る。ノゾキをしていたような罪悪感から、俺の肩がビクッと跳ねた。
「肩になにかついていますか? 視線を感じたのですが」
「い、いや、なにもついてないぞ!? その……ちゃんとストレッチをやってるかと思ってな!」
そっぽを向きながら、「なんでもないなんでもない」と、俺はパタパタ手を振る。
「そうですか。てっきり、うなじを見ていたのかと」
「ひょっ!? そそそそんなことしてないぞ、決して!!」
「ふーん……では、そういうことにしておきますね?」
玲那がニパッと笑い、「もー、しょうがないですねー、お兄ちゃんは♪」とご満悦そうにストレッチを再開した。
どうやらバレバレだったらしい。
わかってるなら訊くなよぉ! 誤魔化した俺がバカみたいじゃないか! たしかに俺の自爆なんだけどさぁ!!
ストレッチとは別の要因で体が熱くなる。穴があったら入りたい。
玲那がルンルンと鼻歌を奏でる傍ら、これ以上恥をさらしたくない俺は無言でストレッチを進める。
「か、体はほぐれたか?」
「はい! 準備万端です!」
「よし、じゃあ行くぞ」
しっかり体をほぐしたあと、俺と玲那は走り出した。