相原夫妻の朝――1
心地よいまどろみのなかにいた。
靄に包まれたかのように不確かな意識。俺は頭の片隅で、自分は眠っているんだと察する。
いつもより意識が深い場所にある感じがする。おそらく、ここ五日ほど、父さんと母さんの引っ越しの手伝いや、実力テストに向けての勉強で慌ただしかったからだろう。疲れていたんだ。
その折、不意に、左隣に温もりを感じた。心の芯を揉みほぐすような、安らぎを覚える温もりだ。
続いて、キンモクセイみたいな甘い匂いが漂ってくる。よく嗅いでいるように思うのだが、どうしてだろうか?
まあ、考えるのは後回しでいいか。いまはこの優しい温もりと匂いをもっと感じたい。
まどろみに支配されている俺は一切の思考を放棄し、左隣の温もりに腕を伸ばして、抱え込んだ。
「ひゃぅっ!?」
可愛らしい声がした。耳を幸せにする声。俺の大好きな声。
左隣の温もりがより恋しくなり、俺はその温もりに頬をすり寄せる。
「せせせ積極的!! う、嬉しいですけど! 幸せの絶頂なんですけど! で、ですが、流石に恥ずかしいといいますか……いえ! これはむしろチャンスです! 上手くいけばこのまま最後まで……!!」
なぜだかわからないが、とんでもないことをしでかした気がする。
姦しい声と謎の焦りに引き寄せられるように意識が浮上していき、俺は重いまぶたを開けた。
至近距離に、真っ赤になった玲那の顔があった。
「…………ほへぇ?」
ただ呆然とする。ここのところ素っ頓狂な声を漏らしてばっかりだなあ、と、至極どうでもいい感想を得ながら。
予想だにしなかった事態にまばたきもできないでいると、パジャマ姿の玲那が瞳を潤ませて、そっとまぶたを伏せた。
わずかに顎が上げられて、なにかを求めるように唇が前に出される。
その表情の呼び名が、真っ白になった頭に浮かんだ。
『キス待ち顔』
血流が一気に加速。全身が熱を帯び、瞬時に意識が活性化。
「おわぁああああっ!?」
天敵に襲われたエビみたいな動きで、バッ! と玲那から離れる。
心臓が恐ろしいスピードで鳴っている。『一生のうちに心臓が鼓動する回数は決められている』という説があるが、だとしたら俺の寿命はガリガリ削られているだろう。
腕に残る温もり、いまだに漂ってくる甘い匂い、一瞬前まで感じていた柔らかさにクラクラしていると、玲那が目を開け、唇を尖らせた。
「酷いです、お兄ちゃん。どうして悲鳴を上げるんですか? わたしはオバケかなにかですか?」
「起床直後に女の子の顔が目の前にあるなんて衝撃的事態に遭遇したんだ! 悲鳴も上がるわ!!」
「言い訳は聞きたくありません、ギルティです。罰としてキスを要求します」
「理不尽!!」
朝っぱらからなんてアホらしい会話を繰り広げてるんだ俺たちは。夫婦漫才か。たしかに夫婦ではあるけれど。
「てか、なんでベッドに潜り込んでるんだよ、お前は!」
視界に映るのは、木製ラック、宿題用のノートが載ったデスク、白い壁紙――それらが、ここが俺の部屋だと示している。
つまり玲那は、俺が寝ているあいだに勝手に部屋に入り、ベッドに潜り込んだということだ。
なにが目的でこんなはた迷惑なことをしたんだ、こいつは。
慌てふためきながら尋ねると、玲那が頬を桜色にして、そっと視線を逸らした。
え? 待って? そのしおらしい反応、なに?
「忘れたんですか? 昨晩の出来事を」
「…………へ?」
「あんなに激しくわたしを求めてくれたのに」
雷に打たれたような衝撃。再び俺の頭が真っ白になった。
玲那が上目遣いで俺を見つめる。
恥ずかしそうな、しかし、どこか妖艶な表情。『女』を感じさせる表情。
「お兄ちゃん、とても逞しかったです。体の隅々まで愛してくれて……わたし、お兄ちゃんに教え込まれてしまいました」
俺の頬がひくつく。
は? な? え?
ま、ままま、まさか……俺、玲那と致しちゃった!?
たしかに、玲那とのふたり暮らしがはじまって密かにワクワクしてたけど、いきなり一線を越えるなんて……!!
お、俺はなんてことをしでかしちまったんだぁあああああああああああああああ!!
「――そんな妄想をよくします」
「妄想かよ!! 紛らわしいわぁあああああああああああああああああああ!!」
ニッコリ笑った玲那の告白に、俺は叫ぶようにツッコんだ。
『激しく求めてくれた』云々は、玲那の作り話だったらしい。つまり、俺と玲那は事に及んでいない。まだふたりとも清い体ということだ。
笑えない冗談はやめてくれませんかねぇ!? マジで心臓止まるかと思ったぞ!?
というか、そういう妄想、よくしてるのか!? とんでもないカミングアウトだな! ドキドキするんですけど!?
「ま、まあ、なにもしてないならよかった……頼むからもうやめてくれよ? こういうイタズラ」
「……そこでホッとするのは失礼だと思います」
心の底から安堵していると、玲那がぷくぅ、と頬を膨らませた。
「わたしたちは夫婦ですよね? 相思相愛ですよね? 『そういうこと』をしてもおかしくないんですよ? むしろ、するほうが自然じゃないですか?」
「けど、心の準備がさ……」
「心の準備なら、わたしはとっくにできてるのに……お兄ちゃんはキスさえしてくれませんよね?」
「わ、悪い……」
ばつの悪さに俺は頬を掻く。
ジト目の玲那が、はぁ、と溜息をついた。
「まったくもう! わたし、いろいろ勉強したんですよ?」
「なんちゅう勉強しとんねん!!」
再びとんでもないカミングアウトをされて、俺の口からにわか関西弁が飛び出す。
「そういう勉強はダメだと思うぞ! お兄ちゃん、玲那をそんな子に育てた覚えはありません!」
このままでは妹がイケナイ子になってしまう。ばつの悪さなんて感じてるヒマはない。兄として注意しなければ。
眉をつり上げると、玲那がシュンとうつむいた。
「……わたしではダメですか?」
「は?」
「わたしの体では、魅力を感じてもらえないのでしょうか?」
雨雲がかかったようなドンヨリした表情で、玲那が自分の胸に両手を当てる。
「そうですよね。おっぱいちっちゃいですし、肉付きも悪いですし、背だけは無駄に高いですし……こんな女に魅力なんてありませんよね?」
「い、いや、そんなことは……」
「ごめんなさい、お兄ちゃん……夫を満足させられない残念な妻で」
「待て待て待て! そんなことないんだって!」
自分を卑下しはじめた玲那を、俺は慌ててフォローする。
「魅力的に決まってるだろ! 鏡見てみろ! 玲那ほどキレイな女の子、世界中探しても見つからないぞ!」
「けど、おっぱいちっちゃいですし……」
「気にするなって! むしろそれがいいんだって! 小ぶりなのが愛らしいんだよ!」
「……本当ですか?」
「もちろんだよ! スレンダーなのも背が高いのも俺は大好きだ! なにしろ惚れた女だから!」
ちなみに、ちっぱいが好きになったのも、細身で高身長がストライクゾーンになったのも、玲那の影響だ。我ながら単純だと思う。
「だから自信持て! 玲那は充分以上に魅力的なんだよ!」
俺が本音とタイプと性癖をぶっちゃけると――
「……ふーん、そうなんですね♪」
落ち込んでいるはずの玲那がニンマリ笑った。
あれ? 思ってた反応と違う。
「なるほどなるほど。お兄ちゃんはちゃんとわたしに魅力を感じているんですね?」
「いや、あの……玲那さん?」
「ストライクゾーンど真ん中なんですね?」
「そ、それは……その、そうなんですけど」
「わたしのことが大好きなんですね♪」
「チクショウ! ハメやがったな、玲那!!」
イタズラが成功した悪ガキみたいなニヤニヤ笑いを、玲那が浮かべた。
落ち込んでいたのは演技だったらしい。俺の本音を引き出すための作戦だったらしい。
「お、お前ぇ……なんてことしやがるんだ……!」
「お兄ちゃんはちっぱいが大好き♪」
「やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
隠していた性癖を暴き出され、俺は頭を抱えた。
精神的に大ダメージ。こんなの拷問以外のなにものでもない。
「くっ! 殺せ!」
「いやに決まってます。結婚したばかりなのに未亡人にするつもりですか?」
「辱めた張本人のくせに!」
恨みがましい目で睨むと、玲那はクスクスと笑みをこぼし、俺に耳打ちした。
「知らないんですか? 男の子だけじゃなくて女の子も、好きなひとにイジワルしたくなるんですよ?」
「~~~~~~~~っ!!」
破壊力抜群の囁きに声にならない叫びを上げ、俺は両手で顔を覆う。きっと真っ赤になっているだろうから。
「これからもイジワルしちゃうと思いますけど、許してくださいね?」
「……勘弁してくれ」
絶対必ず一〇〇パーセント、俺は玲那のイジワルを許してしまうだろう。惚れた弱みというやつだ。
どうやっても玲那には敵わないと痛感した一時だった。