新婚旅行――6
「こちらがお二方のお部屋になります」
女将が俺たちを案内したのは、一階にある『花の間』だった。
一〇畳の和室である『花の間』には藺草の香りが漂い、窓からは木々の揺らめきが見える。床の間には掛け軸がかけられており、窓際にある棚の上には、オシャレな柄の団扇が飾られていた。
「こちらの『花の間』は当旅館の庭園の隣に設けられていまして、心和む景色をお楽しみいただけるかと思います。備品やアメニティはご自由にお使いください」
「ありがとうございます。ステキな新婚旅行になりそうです」
部屋の説明をしてくれた女将に、玲那が楚々とした微笑みを浮かべながら頭を下げる。
「いえいえ」と謙遜してから、女将がニッコリ笑って付け加えた。
「総桧の内風呂もございますので、ご夫婦の仲もますます深まるかと」
「素晴らしいですね。夫と楽しみたいと思います」
「深い意味はないんだよな? 桧風呂を楽しむって意味なんだよな? 断じて変な意味はないんだよな?」
「あら? 変な意味とはなんでしょう?」
玲那にカウンターを決められて俺は言葉に詰まった。
いいい言えるわけないだろ! 『風呂でそういうことを致すつもりじゃないんだよな?』なんてさぁああああああああああ!!
日頃から玲那はグイグイ来るため、また過激なスキンシップを狙っているのかと勘ぐって牽制したのだが、薮蛇だったらしい。
たまらず視線を泳がせながら、俺はガリガリと後頭部を掻く。体が熱を帯びている。顔も赤くなっていることだろう。
狼狽える俺を、玲那はニコニコしながら眺めていた。見るからに面白がっている表情だ。
こいつ、わざとだな!? 俺が照れるってわかってて、わざと意味深な発言をしたな!? 過激なイチャつきを臭わせたな!?
流石は学年トップの才媛。頭の回転が尋常じゃない。
ただ、なぜその明晰な頭脳をこんなくだらない策謀に用いるんだ? 残念でならないんだが?
ブスッとした顔で睨んでみるも、玲那は相変わらず涼しい笑みを浮かべている。
犬も食わないやり取りをしていると、微笑ましいものを見たように頬を緩め、「それではごゆっくり」と女将が退室していった。
女将の足音と気配が遠ざかっていくのを確認しながら、俺は溜息をつく。
「あんまりからかうなよ、玲那」
「それは無理な相談です。『好きな子にはイタズラしたくなる』って言うじゃないですか。わたしの本能が『お兄ちゃんをからかいなさい』って訴えてくるんです。お兄ちゃんはわたしにからかわれ続ける運命なんです」
「理不尽」
『深層の令嬢』の仮面を脱ぎ捨て、玲那がいたずらっ子みたいに口端を上げる。玲那のいけしゃあしゃあとした発言に、俺は肩を落とした。
疲れたような言動をしているが、実は俺はそこまで落ち込んでいない。これはただの照れ隠しだ。
正直、玲那にからかわれても悪い気はしない。むしろ喜ばしいと感じる自分がいる。
念のため言っておくが俺はMじゃない。『玲那が俺をからかうのは、俺のことが好きだから』と知っているから嬉しいんだ。
きっと俺は一生玲那に振り回されるんだろう。惚れた弱みってやつだ。
そんな本心がバレないように赤くなった顔を隠しつつ、俺は部屋の隅までキャリーケースを運ぶ。
同じく玲那も邪魔にならない場所まで荷物を運び、備品を確かめるためか押し入れを開けた。
「浴衣がありますね。着替えましょう」
「そうだな。旅館に来たんだし、雰囲気も出るからな」
押し入れから浴衣を取り出し、玲那が俺に手渡してくる。たてかん柄の白紺。『温泉地の浴衣と言えばこれ!』というようなデザインだ。
受け取った浴衣をまじまじと観察していると、不意に玲那がカーディガンを脱ぎはじめた。
突然のことに、俺は「ぶっ!?」と噴き出す。
「ななななにしてんだ、玲那!?」
「着替えですよ?」
「そんなもん見ればわかる! 俺がここにいるのになんで着替えてるのかって訊いてるんだよ!」
「夫婦なんですから構わないじゃないですか」
「『夫婦』って言葉を持ち出せばなんでも解決すると思ってない!?」
ツッコミを入れるが、玲那はまったく応えていない。カーディガンを脱ぎ捨て、ワンピースのジッパーに手をかける。
玲那のやつ、本気だ! 本気で俺の前で着替えようとしてやがる!
好きな女の子の生着替えを見て、平然としていられるほど俺の理性は強くない。下手すれば押し倒してしまうまである。
慌てて俺は障子戸を開け、廊下へと避難した。
バクバクと暴れる心臓を深呼吸することで落ち着かせ、俺は室内の玲那に文句をつける。
「お前には恥じらいってもんがないのか!」
「失敬な。ひとを痴女みたいに言わないでください」
「いままでの玲那の言動を振り返ったら痴女としか言えないんだが!?」
「お兄ちゃん。過去は振り返るものではありません。乗り越えていくものです」
「名言っぽく言ってるけど、開き直ってるだけだよな、それ!」
玲那が室内でドヤ顔を浮かべている様子が容易に想像できて、俺は頬をピクピクと痙攣させた。
くはぁー、と深々と嘆息しながら、俺はこれまでの玲那の言動を思い出す。
俺が寝てるあいだに布団に潜り込んできて、起きがけにキスを迫ってきた。
洗濯担当の立場を利用して、俺の服や下着をクンカクンカしていた。
ことあるごとに俺を誘惑し、初夜を求めてきた。
一部を羅列しただけで、こちらが赤面してしまいそうなほどの痴女っぷりだ。
いや、もしかしたら本当に痴女なんじゃないだろうか? だとしたら、お兄ちゃん、ちょっと立ち直れないんだけど。
「安心してください。わたしは痴女なんかじゃありません」
「テレパシー能力でもあるのか、お前には!?」
「知らないんですか、お兄ちゃん? 妹には、お兄ちゃんの思考を感知する器官があるんですよ」
「あってたまるか! 玲那が考えてる『妹』は異能力者過ぎるんだよ!」
ツッコんではみたが、玲那になら本当にそういう器官がありそうで怖い。思わず身震いするなか、玲那が続ける。
「わたしにだって恥じらいはありますよ」
「だったら、なんで俺の目の前で着替えようとしたんだよ」
「決まってるじゃないですか」
玲那が即答する。
「お兄ちゃんの気を引くためです」
予想外の答えに、俺の鼓動が跳ねた。
「へ? 俺の気を……?」
「ええ、そうです。好きなひとに好きになってもらいたいと思うのは、自然な気持ちではありませんか?」
「す、す、好……っ」
「そのためなら、わたしはどんなに恥ずかしいことだって我慢できます」
「ま、待て、玲那! オーバーキルだから! 俺、もう、ライフ0だから! ときめきすぎて死んじゃいそうだから!」
「おやおや? 恥ずかしさを我慢した甲斐があったようですね」
玲那がクスクスと笑みを漏らす。
俺は地面を転げ回りたい気分だった。
俺の妻が健気すぎて辛い。