涼太の今
事情を知っている翔はもちろんだが、事情を知らないチームメイトも俺を責めなかった。
俺がミスしたのは、決勝戦とスポーツ科の相手に対する緊張のせいだと捉えられたらしい。むしろ、それまでの試合での健闘を称えてくれた。
みんなの気遣いがありがたくあり、同時に、泣きたいくらい自分が憐れだった。
帰宅後。なにをやる気も起きず、俺は濡れ雑巾みたいにリビングのソファに寄りかかっていた。
あれから手の震えは収まっていない。一向に収まる気配がない。
震える手に目をやって、俺は自嘲をこぼす。
情けねえ……頼りになる夫になるって約束したのに。
なんだよ、この体たらくは。なにがトラウマを乗り越えるだ。無力すぎるだろ、俺。
天を仰ぎ、目元を覆う。そうしなければ、涙をこぼしてしまいそうだったから。
「いつになったら克服できるんだ……」
なんの足しにもならない弱音と溜息が、無意味にこぼれた。
自分に失望していると、誰かが隣に座る気配がした。見ると、そこにいたのは当然ながら玲那だった。夕飯の下ごしらえをしていたみたいだが、あらかた済んだらしい。
俺が口を開くより先に、玲那はニコッと笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん、耳かきしてあげます」
「…………は?」
出し抜けがすぎる。
まともな反応ができずにポカンとしていると、玲那が綿棒を取り出し、てちてちと自分の太ももを叩いた。
「どうぞ」
「……まさかとは思うけど、『膝枕してあげます』とか言わないよな?」
「膝枕してあげます」
「言いやがったよ、一言一句違わず!」
自分の顔が熱を帯びるのがわかった。
玲那が着ているルームウェアはラフなもので、ボトムスが大変短く、太ももの大部分が露わになっている。処女雪みたいに純白の肌や、カモシカのようにしなやかな脚線美が、大胆にさらされているんだ。
その状態で膝枕されたらどうなるか? 答えは、『裸の太ももに頭を乗せることになる』だ。
でででできるか! 服の上からでも恥ずかしいのに、直に乗せるなんて悶え死にしてしまうわ!
どうして耳かきを提案したのかはわからないが、なんとしても断らなくてはならない。現時点で理性が危ないのだから。
「え、遠慮しておく」
「わたしとお兄ちゃんのあいだに遠慮なんていりません」
「けどな? その……玲那は気にならないのか?」
「なにがですか?」
「いや……直に乗せちゃうのがさ」
「常日頃より初夜を望んでいるわたしが、この程度でためらうとでも?」
「説得力がスゴい!」
なおも玲那はニッコリ笑ったまま、てちてちと自分の太ももを示していた。
玲那は俺を想ってくれているし、尽くしてくれている。けど、少々頑固な部分もある。俺に甘えたがるときは、その頑固さが顕著だ。
どうやら今回も頑固を発揮させているらしい。そして、頑固モードになった玲那は説得できない。俺が玲那に甘いから。どうしても折れてしまうからだ。
今回も同じで、俺は根負けするしかなかった。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい♪」
渋々とした口調を装っているが、俺はほんのちょっと……いや、かなりワクワクしていた。許してくれ。俺も男なんだ。好きな女の子の膝枕に期待しないわけがないんだ。
「し、失礼します」
ドキドキしすぎて敬語になりながら、玲那の膝に頭を乗せる。
フニ
直後、左側頭部が幸せな感触に包まれた。
や、柔らかっ! 肉付きが悪いとか玲那は嘆いてたけど、全然そんなことない! それに温かいし、いい匂いするし……女の子ってスゲぇ!
感動していると、玲那が俺の頭にそっと手を添えた。
「では、はじめますよ。痛かったら教えてくださいね?」
耳のなかを覗きやすいようにするためか、俺の頭の位置を調整して、玲那が耳かきをはじめる。
綿棒が優しく耳のなかをこする。ちょっとこそばゆいが痛みはまったくなく、ただただ心地いい。
ああー……気持ちいいー……。
気づけばドキドキは収まっていた。いまはただ、身も心も安らぎに包まれている。愛情に溢れた耳かきと、温かくて柔らかい膝枕、キンモクセイみたいな玲那の匂いに癒やされて、眠気さえ生まれてきた。
女性の母性的な優しさや包容力に、赤ん坊のように甘えたい――そんな願望を表す『バブみ』という用語がある。
俺にはピンとこない概念だったが、いまならわかる。俺は玲那にとてつもない『バブみ』を感じている。ぶっちゃけオギャりたい。
耳かきが終わったのか、耳の穴から綿棒が抜かれた。
名残惜しさを感じていると、そっと俺の頭が撫でられる。
「大丈夫ですよ」
優しく優しく慈しむように、玲那が俺の頭を撫でる。
俺はハッとした。いつの間にか手の震えが止まっていたからだ。
どうやら玲那は、傷ついた俺の心を癒やすために、耳かきと膝枕をしてくれたらしい。
バスケのことに触れず、トラウマに触れず、ただ頭を撫でているだけなのは、俺に嫌な思いをさせないためだろう。
俺に詳しい話をさせたら、どうしてもそのときのことを思い出させてしまう。トラウマを乗り越えられなかった情けなさを、反芻させてしまう。そうさせないために、玲那はなににも言及することなく、俺の心を優しさで癒やそうとしてくれているんだ。
玲那の温もりに包まれ、俺の口から言葉がこぼれた。
「……ありがとな、玲那」
「いいえ?」
「あと、ゴメン。いつまでもトラウマを引きずっていて」
「トラウマができたとき、普通、人間は逃げます。怖いんですから当然です。二度と味わいたくないんですから当然です。でも、お兄ちゃんは立ち向かってるじゃないですか」
なおも優しく、玲那が俺の頭を撫でる。
「お兄ちゃんは引きずっていません。戦っているんです。とても勇気のいる選択です。簡単にできることではありません。何度も言いますが、お兄ちゃんは、お兄ちゃんが考えているよりもずっとスゴいひとなんですよ?」
ジン、と胸が温かくなり、視界が滲んだ。
「……妹を甘やかすのはお兄ちゃんの義務だったっけ?」
「はい。その通りです」
「悪いな。甘やかすどころか甘えてしまって」
「おや? お兄ちゃんは知らないんですか?」
玲那がクスクスと笑みを漏らす。
「お兄ちゃんを甘やかすのは妹の権利なんですよ?」
「俺が『義務』で玲那は『権利』か……妹ってのはズルいな」
「その通りです。妹はわがままなんです。大好きなひとと大好きなことをしたくて仕方がないんです」
ですから、お兄ちゃん?
「甘えたくなったらいつでも言ってくださいね? お兄ちゃんに甘えるのも、お兄ちゃんを甘やかすのも、わたしは大好きなんですから」
俺はなにも答えなかった。言葉にする必要がないと思ったからだ。
案の定、玲那は答えを求めなかった。俺の答えは、口にせずとも伝わったのだろう。
膝枕も耳かきも気恥ずかしいが、たまにはしてもらうのもいいかもしれない。