新婚夫婦のお約束――1
ハプニングだらけの学校での時間を終え、俺は帰路についていた。『学校ではなるべく関わらない』ルールのため、行き同様、帰りも玲那とは別々だ。
電車を降り、自宅の最寄り駅の改札を抜ける頃には、俺はクタクタになっていた。肉体的疲労よりも精神的疲労の比率が大きい。
原因はもちろん、ハートマークが描かれた弁当と、図書室での玲那のスキンシップだ。あれには本当に参った。
玲那のイチャつきたい欲が増加しているから、これからも振り回される日々が続くだろう。心から勘弁してほしい。体がいくつあっても足りない。
塩漬けになった青菜みたいにぐったりとしながら住宅地を歩き、俺は自宅に帰ってきた。
「ただいまー」
「お帰りなさい、お兄ちゃん!」
玄関のドアを開けると、ご機嫌そうな声とともに俺の妹兼妻が出迎えてくれた。
裸エプロン姿で。
俺の全運動が静止する。
体も頭も完全に固まっていた。さながら俺だけ時間から取り残されたようだ。異能系バトルかよ。
ドアを開けた体勢のまま立ち尽くしていると、手に持つおたまをクルンクルン上機嫌に回しながら、玲那が場違いなほど明るい笑顔を浮かべる。
「ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも……わ・た・し?」
パチン、と玲那がウインク。
バタン、と俺はドアを閉めた。
ふぅー、と大きく息をつき、俺は目頭を揉む。
「疲れてるなあ、俺」
「酷いです、お兄ちゃん! いきなりドアを閉めるとは何事ですか! わたしの裸エプロンをちゃんと見てください!」
「もう少し現実逃避させてくれよ!」
ドアを開けた玲那が、ぷくぅ、と頬を膨らませた。やはり裸エプロン姿だ。疲れによる幻覚ではないらしい。
こんな場面をご近所さんに目撃されたらたまったものじゃない。変態シスコン兄貴のレッテルを貼られてしまう。
俺は急いで敷居をまたぎ、玄関のドアを閉める。
「で? お前はなにをやってるんだ?」
「お兄ちゃんを誘惑しています!」
「うん。玲那には常識と節制が必要だな」
グイグイくるにもほどがある。少しは慎みを持ってくれないだろうか? 心臓がいくつあっても足りん。
「まあ、半分冗談ですけど」
「冗談でもするな。てか、半分本気なのかよ」
「せっかく結婚したんですよ? やっぱり、新婚夫婦のお約束はやってみたいじゃないですか」
額を覆って溜息をつく俺に対し、玲那はルンルンと大変満足そうだった。
新婚夫婦のお約束――『裸エプロン』と、『ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも……わ・た・し?』ができて嬉しいらしい。
「とにかく服を着てくれ。まだ気温は低いんだ。こんなバカなことで風邪をひいたら目も当てられないぞ」
「わたしの裸エプロンはお気に召しませんか? 我ながら非常にいかがわしいと思うのですが」
「思ってるならするんじゃねぇよ!」
「とか言ってますけど、本当はドキドキしてるんじゃないですか? 心がぴょんぴょんしてるんじゃないですか? 大好きな女の子の裸エプロンですよ? 嬉しいとはちっとも感じていないんですか?」
「…………ノーコメントで」
「知ってますか、お兄ちゃん? 『ノーコメント』は『イエス』と同義なんですよ?」
至極楽しそうに玲那がニマニマと笑う。俺の内心なんて簡単に見透かしているようだ。俺の顔は真っ赤になっているだろうから、楽勝だとは思うけど。
しょうがないだろ、俺も男なんだからさぁ!! あの玲那の裸エプロンだぞ? 嬉しいに決まってるだろ! ガン見するのを堪えるのに必死だよ!!
敗北感に浸りながら、俺はガシガシと頭を掻きむしる。
「そうだ! そうだよ! そうですよ! 嬉しいって思っちゃってますよ!」
「開き直りましたね。そんなお兄ちゃんも可愛くてステキです♪」
「はいはい! ありがとうありがとう! 充分楽しんだだろ? おちょくれただろ? だからいい加減、着替えてくれ。お前も本当は恥ずかしいんじゃないか?」
「……お兄ちゃんなら構いませんよ?」
「は?」
思わぬ返答に俺はポカンとした。
唖然とする俺の前で、玲那がエプロンの裾をつまむ。
「見たくないですか? この下」
「へっ? ちょ……待……!」
ゆっくりとたくし上げられていくエプロンの裾。徐々に露わになっていく真っ白い太もも。
頬を赤らめ、瞳を潤ませ、熱い息を吐きながら、恥ずかしそうに、けれど妖しげに、玲那は俺を見つめていた。
心臓がバックンバックン大暴れしている。耳の真横に移動したと勘違いしそうなほどうるさい。
な、なにしてるんだよ、俺! 玲那を止めろ! 止めないといけないだろ!
頭がそう指示しているのに、体が、口が、動いてくれない。
頭と体と心がバラバラになってしまったかのように、俺はただ、エプロンがたくし上げられていくのを眺めていた。
エプロンは、もはや太ももの付け根までたくし上げられている。気づかないまま、俺はグビリと生唾をのんでいた。
玲那の唇が弧を描き、エプロンがめくられ――
「残念! 水着を着てました!」
「弄ばれた俺の純情!!」
現れたのはパステルピンクのビキニ。
俺は崩れ落ち、両手で地面を思いっきり叩いた。
いくらなんでもやり過ぎだろ! イタズラにしてはたちが悪すぎるって!
俺の胸で、残念なようで、ホッとしたようで、もったいないようで、とにかく悔しい、言いようのない奇妙な感情が渦巻いていた。
羞恥がスゴすぎる。誰かいますぐ俺を殺してくれ。
「お兄ちゃんの目、ギラついてましたね」
「やめろぉ……言うなぁ……!」
「口では拒んでますけど、本心ではわたしを求めてくれてるんですね。安心しました♪」
「安心するなよぉ……危機感持ってくれよぉ……!」
玲那が自分の体を抱いて、「えへへへへー♪」と嬉しそうにくねらせている。よく見たら頬を赤らめていて可愛いと、こんなときにまで思ってしまった。
「さて。満足したところでお夕飯の支度に戻りましょう」
「ちょっと待て」
ふんふんふーん♪ と鼻歌を奏でながらキッチンに向かおうとした玲那を、気合でショックから立ち直った俺は制止する。
振り返ってコテンと首を傾げる玲那の目を、俺は真っ直ぐ見つめた。
「なんですか?」
「料理の前に着替えろ、絶対にだ。そんなふうに素肌をむき出しにしてたら危ないだろ。玲那のキレイな肌に傷がついたらたまったものじゃない」
「……ふぇ?」
この上なく真剣に伝えると、玲那の口から可愛らしい声が漏れた。
玲那の肌が色づいてく。エプロンと水着だけなので、白から赤へのグラデーションがよくわかった。
「どうした、玲那? 真っ赤だぞ?」
「そそそそんなことないですよ!?」
「まさか風邪か!?」
俺は慌てて玲那を引き寄せ、額と額をくっつける。
玲那は目を皿のようにして、口をパクパク開け閉めしていた。
「かなり熱いな……そんな格好するからだ、バカ」
「は? な? にゃ?」
玲那と視線を合わせながら叱る。
玲那の目がグルグルと渦を巻いた。
「お、おい、また熱くなってないか!?」
「ち、違……近……近……!」
「いますぐ薬を買いに……いや、救急車か!?」
「ちっ、違うんです!! 近いんです!!」
「は? なにが?」
「風邪じゃないし薬もいりませんし救急車も呼ばなくていいんです! とにかく離れてください!!」
わめくように訴えてきた玲那に戸惑いつつも、俺はくっつけていた額を離す。なぜかわからないが、玲那は恨みがましそうにこちらを睨んでいた。
「も、もーっ! 不意打ちなんてズルいです!」
「なんのことだ?」
「わからなくて結構です! あと、いまみたいの、絶対にほかの女の子にやっちゃダメですからね!」
「ああ。そもそも玲那にしかやろうと思わないし」
玲那が唇をムニャムニャ波打たせて、「ううぅぅぅぅ~~~~……っ」と地団駄を踏んでいる。気のせいか、玲那の頬はピクピク痙攣していた。まるで、ニヤけそうになるのを我慢しているかのように。
「わ、わたしは着替えてきます! うがいと手洗いを忘れずにしてくださいね!」
玲那がエプロンを翻し、足早に去っていく。
トントントン、と階段を上る足音が遠ざかっていくなか、俺は首を捻った。
「……変なやつだなあ」
余談ではあるが、今日の夕飯はいつもの倍以上、豪勢だった。