プロローグ
『二年次一学期首実力テスト 結果 一位 相原玲那:四九六点』
南陵高校の廊下にある掲示板に貼られた、実力テストの結果発表。上位一〇〇名の名前が挙げられた、張り紙の右端にはそう記されていた。
学期のはじめに行われる実力テストは、五教科五〇〇点満点。仮に一問の配点を二点~五点とすると、相原玲那は一問~二問しか間違わなかったことになる。驚異的な正答率だ。
ちなみに二位の生徒との点数差は二〇点以上。ぶっちぎりの一位。
それらを踏まえたうえで、俺の感想は――
「やっぱりな」
だった。
別段驚くことじゃない。玲那なら当たり前。一位をとったのは、『地球が太陽の周りを回っている』くらい自然なことだ。
むしろ一位じゃなかったほうが驚く。目玉が飛び出るくらい驚く。きっとそれは、天変地異の前触れだ。
掲示板の前には生徒たちが集まり、ある者はガッツポーズをとり、ある者は頭を抱え、ある者は隣の友人を称え、ある者はからかっている。
飛び交う言葉の数々。
そのなかでもっとも多いのは、玲那を賞賛するものだ。
「流石は相原さん! 今回も見事一位ですね!」
「もはや敗北感すら湧きません……次元が違いすぎる」
「ああ……お慕いしております、お姉さま! ハァハァ」
待て。最後おかしなやつがいなかったか?
俺が「うん?」と首を傾げていると、人だかりの中心にいる女子生徒が、周りの生徒たちに微笑んだ。
「ありがとうございます、みなさん。これからも精進いたします」
上腹部の前で手のひらを重ね、上品に三〇度くらいのお辞儀。
花咲く桜のような微笑みと、老舗旅館の女将も真っ青なお辞儀に、生徒たちが、ほぅ、と息をついて見とれる。
これ以上ないほど丁寧な対応をしたその女子生徒は、一〇〇人いたら一〇〇人が『美人』と口をそろえるほど美しかった。
高二女子の平均を上回る背丈。妖精を連想させるスレンダーな体付き。
黒いニーソックスに包まれた脚は長く、カモシカのようにしなやか。
腰まで届く黒髪は、星空を写したかの如く艶やかだ。
肌は純白で、さながら処女雪のよう。
二重まぶたの目は漆塗りみたいな黒色で、黄金比で仕立てたとしか思えない整った顔立ちをしている。
告白されたことは数知れず。同じ回数、丁重にお断りしているらしい。
紺色ブレザーと深緑のチェック柄スカートに青いネクタイ――南陵高校二年女子の制服を、ファッションモデルよりも上手に着こなす彼女こそが、相原玲那だ。
「相変わらず人気者だね、相原さんは」
アルカイックスマイルを浮かべる玲那を眺めていると、俺のクラスメイトにして友人でもある、熱海翔が話しかけてきた。
「頭脳明晰、品行方正、運動神経抜群、おまけに誰も敵わない美貌。まさに完璧超人だよね。天は二物を与えずっていうけど、神さまは二物どころか一〇個くらい相原さんに与えたんじゃないかな?」
「お前がそれを言うか? 翔だって相当なものだろ」
溜息をつきつつ俺は振り返る。
そこにいたのは、一八〇以上の長身を持つ、甘い顔立ちのイケメンだった。
「張り紙にはお前の名前も入ってるし、バスケ部ではエースを務めてる。文武両道ってやつだ。しかも顔がいい」
半眼になりながら、俺は翔の胸元に指を突きつける。
「気をつけろよ、翔。いまの発言、遠回しな自慢に捉えるやつもいるから」
「ありがとう、気をつけるよ」
翔は苦笑して肩をすくめた。その仕草すらカッコよく見えるのだから、こいつも『持てる者』なんだと痛感する。
「それにしても、涼太は鼻が高いんじゃないかい?」
一旦玲那へと視線を向け、改めて俺に戻し、翔がパチンとウインクをした。
「なにしろ涼太は、我が校が誇る『深窓の令嬢』のお兄さんなんだから」
『深窓の令嬢』とは、才色兼備な玲那の通り名だ。華族の末裔と言っても差し支えないくらい気品に満ちた玲那には、ピッタリの呼び名だろう。
そして翔の言うとおり、俺――相原涼太は玲那の兄だ。親の再婚で兄妹になったため、血は繋がっていないが。
ニコニコと人好きのする顔をしている翔に、俺は答える。
「別に鼻が高いなんてないぞ?」
「あれ? 意外にあっさりしてるね。自慢の妹さんだと思うけど」
「玲那以上に素晴らしいやつなんてこの世界にいない。わかりきったことなんだから、いまさら自慢するようなものじゃないだろ?」
「前言撤回。涼太って結構なシスコンなんだね」
翔が「あはは……」と乾いた笑いを漏らす。
シスコンか……たしかにシスコンなんだろうなあ、俺は。
翔の発言に苦笑交じりの溜息をついたとき、玲那がこちらを向いた。
俺と玲那の視線が交差する。
変わらないアルカイックスマイルでペコリと会釈する玲那に、俺は片手を挙げて答えた。
教室に戻るのか玲那が踵を返し、そのあとを取り巻きの生徒たちが追う。
玲那の背中を見送っていると、翔が何の気なしに言った。
「涼太と相原さんのやり取りって淡泊だよね。話してるところをほとんど見ないし、顔が合っても挨拶程度で済ませるし……家でもあんな感じなのかい?」
「いや、むしろ真逆――」
「真逆?」
翔が頭の上に『?』を浮かべ、俺はハッとする。
ヤバっ! 翔の尋ね方がさりげなすぎて、うっかり口を滑らせてしまった!
視線を泳がせながら、俺は必死に言葉を探す。
しどろもどろになりながらも、俺は話を取り繕った。
「い、いや、その……アレだ! 俺と玲那は義兄妹だし、親しくしてたら変な噂が立つかもしれないだろ?」
「たしかに、もともと他人なわけだしね。仲良くしてたら、兄妹以上の関係なんじゃないかって勘ぐるひとが出てくるかもしれない」
「だろ? だから、学校ではあまり関わらないようにしてるんだ! 家では普通に仲いいよ。真逆ってのはそんな意味だ!」
「ああ、なるほど!」
翔がポンッと手を打って納得する。
危ない危ない。なんとか誤魔化せたみたいだな。
俺が、ふぅ、と安堵していると、翔が頬をポリポリ掻きながら、あっけらかんとした口調で続ける。
「真逆って聞いて、つい、家ではベタベタしてるのかなって勘違いしちゃったよ」
口から心臓が飛び出るかと思った。
幸い翔は、俺の肩が跳ねたことに気づかなかったらしい。
「流石にそんなことないよね。マンガやラノベじゃあるまいし」
「あっはっはっ」と朗らかに笑う翔に、俺は口元をひくつかせながら返す。
「も、もちろんだろ? マンガやラノベじゃあるまいし」
完全に上擦った声だった。
× × ×
夕方。電車に乗って三駅移動し、郊外の住宅地にある一軒家に帰ってきた俺は、リビングのソファに座りながら、膝に寝転がる生き物を愛でていた。
ツヤツヤした黒い毛はシルクのように滑らかで、いかに丁寧に手入れしたかがうかがえる。撫でているこちらが幸せになりそうな手触りだ。
「ふにゅぅ~」
優しく頭を撫でていると、甘えるような鳴き声がした。
俺の手のひらに頭が擦りつけられる。「もっと撫でて」との意思表示だろう。
「はいはい」と苦笑して頭をポンポンすると、黒い瞳が心地よさそうに細められた。
「えへへへへー♪ やっぱりお兄ちゃんの膝枕は至福ですね!」
膝の上の生き物が、温めたバターみたいに蕩けた声で喜ぶ。
そう。俺が撫でている生き物は、ネコでもイヌでもウサギでもない。小動物の類いではまったくない。
半日前にたくさんの生徒から賞賛され、淑やかな所作に憧憬の眼差しが注がれていた『深窓の令嬢』――相原玲那だ。
ぬるま湯に浸しすぎたライスペーパーみたいにフニャフニャと頬を緩めている玲那に、『深窓の令嬢』の面影はどこにもない。まあ俺としては、こっちの玲那のほうが見慣れているのだが。
「お兄ちゃんお兄ちゃん。プリンが食べたいです。あーんしてください」
「行儀が悪いぞ、玲那」
玲那がひな鳥のように「あーん」と口を開けて、俺が手にしているプリンをねだってくる。
無防備にさらされたピンク色の口内粘膜にドキリとさせられながらも、平静を装って俺は注意した。
ご機嫌だった玲那が、「むぅ」と唇を尖らせる。
「わたし、テストで一位をとったんですよ? 頑張ったんですよ? ご褒美をもらってもいいじゃないですか」
「プリンが欲しいならやるけど、寝っ転がりながら食べるのは感心しない。起きて自分で食べなさい」
「お兄ちゃんのイジワル! お兄ちゃんの膝枕でお兄ちゃんにあーんしてもらうことに意味があるんです! それに、妹を甘やかすのはお兄ちゃんの義務なんですよ?」
玲那がぷくぅ、とフグみたいに頬を膨らませた。「わたしは不機嫌です!」と訴えているつもりだろうが、ただただ可愛い。
無言で首を横に振ると、玲那の目にジワッと涙が滲んだ。
俺は「ぐ……っ」と怯み、はあ……と深く溜息をつく。
「今度からちゃんとするように」
「わーい♪ お兄ちゃん、大好きです!」
根負けした俺がプリンを口に運んでやると、玲那はパクッとスプーンをくわえ、「んーっ♪」と幸せそうに裸の脚をパタパタさせた。
さっきまで拗ねてたのに満面の笑みじゃないか、現金なやつめ。
まあ、そんなところも愛らしいんだがな? プリンも玲那に食べさせるために持ってきたんだけどな?
……つくづく、俺は玲那に甘いよなあ。
諦めが混じった苦笑を漏らし、俺は玲那の頭をポンポンする。にへらー、と玲那がしまりのない表情をした。俺に心を許しきった笑顔だ。
そんな玲那の格好は、パステルカラーのルームウェアだった。
トップスはパーカー状になっており、フードには猫耳を模した飾りがついている。
ボトムスは腿の大部分をさらすほど短いパンツタイプ。しなやかだけどほどよく肉がついた、絶妙なバランスの脚線美が眩しい。
上下ともに、小動物の毛並みみたいにもこもこでもふもふだ。あざとさすら感じられる。
学校のやつらは、家でも落ち着いた格好で、礼儀正しく過ごしてると思ってるんだろうなあ。玲那の素を知ったら、驚きのあまり腰を抜かすんじゃないか?
まさか予想もできないだろう。『深窓の令嬢』こと相原玲那の素顔が、ブラコン全開の超絶お兄ちゃんっ子だとは。
まあ、玲那の素を明かすわけにはいかないんだけどな。そこから、俺と玲那の関係に勘づかれるかもしれないし。それだけは避けないといけないんだし。
「さて。たっぷりお兄ちゃんに甘えたことですし、夕飯の支度をしましょう」
などと考えていると、名残惜しそうに俺の腿に頬ずりしてから玲那が起き上がり、ルームウェアに合わせたもこもこのスリッパを履いた。
ダイニングテーブルにかけてある薄桃色のエプロンを手にとり、羽織りながら、オープンキッチンへ向かう。
「今日の献立は麻婆豆腐ですよ、お兄ちゃん」
「おっ! それは楽しみだ!」
「お兄ちゃん、麻婆豆腐が好きですもんね」
「最近は玲那の手作りじゃないと満足できないけどな」
「ふふっ、これ以上ない褒め言葉です」
俺の言葉がよほど嬉しいのだろう。材料を冷蔵庫から取り出す玲那は、ご機嫌な様子で鼻歌を奏でている。
俺も鼻歌を奏でたい気分だった。玲那の麻婆豆腐は頬が落ちるほどの絶品だからな。
ルームウェアの袖をまくり、「よしっ」と玲那が両手をグーにした。
「今日も腕によりをかけて作ります!」
「おう、頼むぞ!」
「ご飯のあとは一緒にお風呂に入りましょうね!」
「はあっ!? い、いや、それは――」
「今日こそは初夜にしましょうね!」
「待て待て待て!」
話の雲行きが怪しくなってきて、俺は堪らず制止する。
「そういうのはまだ早いって言ってるだろ!?」
「むぅ……さらっと行けば言質を取れると思ったのですが……」
「発想が怖いな!」
言質ってなんだよ、言質って。
きまりの悪さに頭をガシガシ掻いて、俺は訊いた。
「と、というか、お前は恥ずかしくないのかよ? 一緒にお風呂とか、しょ、しょ、しょ……初夜、とか」
「……恥ずかしいに決まってます」
それまで堂々としていた玲那が、頬を赤らめて視線を逸らす。
「けど……大好きなひとと結ばれるために頑張っているんですよ」
「そ、そうか……」
俺もまた視線を逸らした。
急にしおらしくなった玲那が可愛すぎて、全身がかっかしている。きっと俺は、玲那に負けず劣らず真っ赤な顔をしているだろう。
――もし、俺と玲那のやり取りを誰かが見ていたら、「こいつらなに言ってんだ、夫婦じゃあるまいし」と眉をひそめることだろう。
まったくもってその通り。
だが、そうなんだ。俺と玲那はそうなんだ。
「こほん」と気恥ずかしさを紛らわすように、玲那が咳払いする。
「今日のところは諦めます。急いては事をし損じるといいますし、時間もまだまだあることですしね」
なにしろ――
「わたしとお兄ちゃんは夫婦なんですから」
相原涼太と相原玲那は、義兄妹であり夫婦なんだ。さながら、マンガやラノベの設定のように。
ようするに、俺は翔が言ったとおり、結構なシスコンだって話。