8.頼りになる彼
楽しい昼食を終えた後、私たちはまた通りを歩いていた。食事をしていた間に人通りがずいぶんと減っていて、先ほどよりかなり歩きやすい。
「真昼は暑いから、みんな日陰で休んでいるんだよ。……ああ、君のことを考えると、私たちもどこかで休んだ方が良いかな」
「いえ、大丈夫です。せっかくなので、もっと街を見てみたいですし」
本当は少しばかり暑かったが、素知らぬ顔をして答える。不快感を隠して微笑むのは淑女のたしなみだ。それに、フィリベルト王子は私が疲れた様子を少しでも見せるとあからさまに不機嫌になっていたから、何事もない顔をするのがすっかりうまくなってしまっていた。
ユーグ様はそうか、とうなずいて私の顔を見る。けれどすぐに、少し待っていてくれ、とだけ言い残してこちらに背を向ける。そしてそのまま、あっという間に姿が見えなくなってしまった。どうしよう、と呆然としていると、すぐに彼は何かを手にして戻ってきた。
「待たせたね。良ければ、これをどうぞ。少しは違うと思うよ」
その言葉と同時に、頭にふわりと何かがかぶせられた。髪を覆い隠すように垂れ下がってきたそれは、淡い桃色の薄い布だった。花の模様が染め抜かれ、若草色の糸で縁取りがされている。
「これは……ショールですか?」
「ああ。ちょっとそこの店で買ってきたんだ。日よけにいいと思ってね」
この短時間で選んだにしては、そのショールはとても上品で趣味が良く、私の好みにも合っていた。それに、薄い布一枚だというのに思いのほか日差しを遮ってくれて、かなり涼しい。
「ありがとうございます。……何から何まで良くしてもらって、少し申し訳ないです」
「気にしなくていいよ。私が勝手にしたことだからね。気に入ってもらえるといいんだが」
「とても気に入りました。大切にします」
本当に、どうして彼はここまで良くしてくれるのだろうか。私は和平のための使者ということになっているけれど、それにしても厚遇が過ぎると思う。
腑に落ちないところはあったけれど、このささやかな贈り物はとても嬉しかったので、素直に笑って礼を言うことにした。ユーグ様が返してくれた満足そうな笑顔を見て、どうにか自分の思いが伝わったことに安堵する。
私たちは笑顔を見かわして、二人揃ってまた歩き出した。
そうしてふらふらと歩いている内に、私は少しばかり困った事態に直面していた。
もう人も少なくなった大通りを、二人でのんびりと話しながら歩く。私はいつもの癖で、ユーグ様の半歩後ろを歩いていた。デルトでは、女性は男性の後ろを歩くのが当然のことだからだ。
しかしユーグ様は速度を落とし、私の横に並んできた。何度私が下がっても、そのたびに彼は私の横に並ぶのだ。
「どうして後ろを歩くのかな? 話をしながら歩くには、隣にいた方がいいだろう」
「はい、それはそうなのですが……その、癖になっていまして」
「そうなのかい? 不思議な癖だね」
「デルトでは、これが普通でしたので」
「だったら、今は横に並んでもらえると嬉しい。ここはデルトではなく、リエルなのだからね」
結局私は根負けしてしまい、すぐ横で機嫌良く歩いているユーグ様の横顔を見上げる羽目になっていた。すっと通った鼻筋と、惚れ惚れするような青い目が、鮮やかな青空によく映えていた。
「あっ、アンリさん、ちょうどいいところに!」
人ごみの中から突然声をかけられて、ユーグ様がそちらを向く。そういえば、今のユーグ様は『貴族の三男坊アンリ』ということになっているのだった。いつの間にかユーグ様に見とれてしまっていたことをごまかすように、できるだけ平静を装って声の主を探す。
まるで全力で走っていたかのように肩で息をしながら、人懐っこそうな若い男性が勢い良く駆け寄ってきた。彼もまたリエルではおなじみの、しかしまだ私にとっては見慣れない鮮やかな色の衣をまとっていた。
「どうしたのかな、そんなにあわてて」
「いえ、それが……ちょっともめ事が起きてまして、どうしようかって困り果ててたんですよ」
そう言いながら、彼はその素朴な顔いっぱいに期待を浮かべてユーグ様をまっすぐに見つめている。明らかに、ユーグ様のことを信頼し切っている顔だった。
「もめ事を仲裁してくれそうな人を探し歩いてたら、ちょうどアンリさんの姿が見えたんで。お願いです、ちょっと助けてはもらえませんか」
「なるほど。そういうことなら、ぜひとも力になりたいところだけど……」
男性と話しこんでいたユーグ様が、ちらりとこちらを見る。頭の後ろで結い上げられた彼の黒髪が、馬のしっぽのようにしなやかに揺れた。
「あれっ、アンリさんのお連れですか? うわあ、可愛らしいお嬢さんですね。どこの方ですか?」
先ほどまでユーグ様を見つめていたのと同じきらきらした瞳で、今度は私を見つめる男性。その飾り気のない誉め言葉に、私はどうしていいか分からずただ立ち尽くしていた。それに、ここで自分の身分を明かすのはどう考えてもまずい気がする。
「ああ、彼女はロザリー。知り合いの娘さんなんだ。今日は彼女に街を案内していたところでね」
「ということは、彼女も貴族の……」
「そういうこと。だから、彼女の身分についてはあまり詮索しないでもらえると助かるよ」
口ごもる私の目の前で、ユーグ様はあっという間に話をまとめてしまう。きっと彼は何か助け舟を出してくれるだろうなとは思っていたけれど、自分だけ何もしなかったような気がして少しばかり後ろめたい。
「分かりました。でもそういうことなら、アンリさんにもめ事の仲裁を頼むのも申し訳ないですね」
男性が可哀そうになるくらいはっきりとしょげた顔になる。王宮の案内をしてくれたあの若者といい目の前の男性といい、どうもここリエルの民は我がデルトの民よりも表情が豊かな気がする。彼らの開けっぴろげな態度にはつい戸惑ってしまうが、それは決して不快なものではなかった。
「あの、どうか私のことは気にしないでください。……アンリ様、彼の困り事に手を貸してあげてくれませんか。私からも、お願いします」
ユーグ様の偽名を呼ぶ時にちょっとだけためらってしまったが、幸い男性はそれには気づかなかったらしく、またぱっと顔を輝かせた。ユーグ様が私に向かって小さく頭を下げて、それから男性に向き直った。
「……分かったよ。済まないね、ロザリー。それで、その揉め事はどこで起こっているのかな」
「ありがとうございます! こっちです、案内しますね!」
言うが早いか跳ねるように人ごみの中をすり抜けていく彼を、ユーグ様と二人で追いかける。隣のユーグ様の目には、苦笑だけではない何か優しい色が浮かんでいるように見えた。
「あの、私は偽名を名乗らなくてよかったのでしょうか」
前を行く男性の背中を追いながら、小声でユーグ様に尋ねてみる。
「デルト王国の使者の詳細については、一般には公開していないんだ。だから君の名前も、民には知られていないよ」
同じく小声で返すユーグ様の顔が、わずかに曇った。
「我がリエルとデルトとは一応戦争をしている間柄だし、使者の身に何かあったら大変だから、伏せておくことにしたんだよ」
ユーグ様の指摘に、ようやく私は自分が敵国にいることを思い出した。リエルではどこにも黒い影は見えないし、王宮も城下町も興味深いものばかりで、みな親切だ。そんなこともあって、私は自分が置かれた立場を半ば忘れかけていたのだ。まだここにきて一日しか経っていないというのに。
「それに、君はあまり隠し事が得意なようには思えないからね。さっきも、私の名前を呼ぶ時にためらっていたし」
下がり気味の目尻をさらに下げながら、ユーグ様がこちらを見る。その目をまっすぐに見返そうとしたが、できなかった。
今の私は、とびきり大きな隠し事を抱えている。けれどまだ何も行動に移してはいないし、いくらなんでもばれるには早すぎる。そう自分に言い聞かせたが、どうにも動悸が治まらなかった。
そんな筈はないと分かっていても、ユーグ様の青い瞳を見ていると、全てを見透かされているような錯覚を感じずにはいられなかったのだ。
何か言わなくては、本当に怪しまれてしまうかもしれない。けれどその焦りのせいで、余計に舌がうまく動かなくなってしまっている。きっと不自然な沈黙だったろうに、ユーグ様はそれ以上追及することはなかった。相変わらず優しい目で、こちらを静かに見ている。
そんな沈黙を破ってくれたのは、先ほどの男性が上げた大きな声だった。
「アンリさん、ロザリーさん、こっちです!」
「どうやら、目的地に着いたみたいだね」
ユーグ様が指し示す先には、大きく手を振りながら私たちを呼んでいるさっきの男性と、その後ろでにらみあっている二人の男性、そして彼らを取り巻く人垣が見えていた。
彼らがユーグ様に気づいた時、一様にほっとした顔をしたのがとても印象深かった。




