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7.異国の城下町

「あの、どうして城下町の外に出るんですか?」


 城下町の外の草原を慣れた足取りで歩くユーグ様に、ついそんな質問を投げかけてしまった。さっきから質問ばかりでうっとうしがられないかと思ったけれど、ユーグ様は嫌な顔一つせずに答えてくれた。


「城下町に行く時は毎回経路を変えて、身元がばれないように気をつけているんだよ。大丈夫、すぐ隣の門からまた街に入るから」


 そうはいっても、やはり落ち着かない。敵国の街の外を、敵国の王子と二人きりで歩いている。そんな状況で緊張せずにいられる人間がいたら、ぜひともお目にかかりたいところだ。


 もっとも、最初に会った時からずっと、彼の周りには黒い影はこれっぽっちも見えていない。どうしてだか分からないけれど、彼は私にとって悪いものではないらしい。けれどもその事実は私を安心させるものではなく、むしろ余計に戸惑わせるものだった。


 少しでも緊張を紛らわせようと、気楽な足取りで前を歩くユーグ様からそっと視線を外す。そのまま辺りを見渡していると、街の近くに生えている風変わりな植物が目についた。


 驚くほど大きな葉を束ねたような木だとか、奇妙な形の果実をたわわに実らせた木だとか、私の手のひらよりも大きな鮮やかな花を咲かせている木とか、どれもこれも知らないものばかりだ。


 それらに気を取られて歩みがゆっくりになっていたらしく、ユーグ様が振り向いて、楽しそうに笑った。その笑顔は、周囲の珍しい植物よりもいっそう私の目を引きつけるものだった。


「はは、君はここも気になっているみたいだね。また今度、周囲の植物についても説明してあげようか。でも今日はそろそろ、城下町の方に向かおう。もう昼も近いからね」


 貴族の屋敷を見ながら話し込んでしまったせいで、結構時間を食ってしまっていた。それを自覚していた私は、大きくうなずいた。






 生まれて初めて見たリエル王国の街並みは、やはり驚くほど色鮮やかで、そして暑苦しいほどの活気に満ちていた。道いっぱいにたくさんの人があふれ、大声で話しながらのんびりと歩き回っている。人々の熱気と何かの香料の匂いが押し寄せてきて、ただ立っているだけで圧倒されそうだ。


「あっ、ごめんなさい」


 これで今日何度目になるのか、私はまたしても周囲の風景に見とれてしまっていた。人ごみの中で不用意に立ち止まったせいで、うっかり通行人にぶつかってしまう。


 思わずデルト流の大仰なお辞儀をしようとして、あわてて思いとどまった。そんなことをしたら、とんでもなく目立ってしまうに違いない。


 小さく頭を下げながら短く謝罪の言葉を述べると、私とぶつかった通行人は人懐っこい笑みを浮かべて手をひらひらと振り、そのまま立ち去っていった。


 そんなやり取りを近くで見ていたユーグ様が、心配そうに声をかけてくる。


「大丈夫かい? ぼんやりしているとあっという間に流されてしまうよ。ここは川みたいなものだから」


「流されるんですか?」


 言ったそばから、またたくさんの人が押し寄せてきた。あわてて避けた拍子につんのめり、前に二、三歩踏み出す。その先でまた人にぶつかりかけて、今度は横に動いてかわす。


 そんなことを繰り返している間に、気がつけばすっかりあらぬ方に流されてしまっていた。必死で人をかわし続けながらなすすべもなくうろたえている私に、ユーグ様が人込みを縫うようにして近づいてきた。彼は私の手を取ると、そのまま道の脇の方に引っ張っていく。


 手頃な建物の壁際までたどり着いた時には、すっかり息が上がってしまっていた。胸に手を当てて、呼吸を整える。傍にはユーグ様が立ち、私を人込みからかばってくれていた。


 顔のすぐ近くにある彼の胸元から、周囲に漂うものとは違う涼やかな香りがかすかに立ち上ってくる。マルセル様の部屋に置かれていた香木のものとも、ジネットがまとっていた香りとも違うその優しい匂いに、鼓動が一つ大きく跳ねた。


 あわてて目線をそらし、ユーグ様の体越しに周囲の様子をうかがう。私たちがそうしている間も、相変わらずたくさんの人たちが右へ左へと歩き続けていた。その様は、確かに川の流れを思わせるものだった。


「……理解できました。本当に川ですね」


「これでも王都だからね。デルトの王都も、同じように栄えているんだろう?」


 その言葉に、ほんの一瞬だけためらった。ユーグ様は最初からずっと親切にしてくれているが、彼は敵国リエルの王子なのだ。そんな相手に、こちらの情報を渡してしまっていいのだろうか、と。


 しかしそんな考えは、すぐに私の頭から消え去っていた。ユーグ様は私にリエル王国のことを色々と教えてくれている。だったら少しくらい、お返ししたい。それに、どうせ私はデルト王国の内情について詳しくはない。隠しておくべき機密など、ほとんど知らないに等しいのだ。


 たった一つ、私が暗殺の密命を帯びていること以外は。


「デルトの王都も人が多いですが、ここまで集まっているのは見たことがありません。街はもっと静かで、落ち着いた感じです」


 そう言った時、自分が知っているのはデルトの王都でもほんの一部、貴族たちが暮らす区画だけだということに気がついた。もしかしたらデルトの王都でも、平民たちが集まる区画はこんな風ににぎわっていたのかもしれない。私が知らないだけで。


 私は公爵家の令嬢として様々な教養を身に着けてきた。フィリベルト王子の婚約者となってからは、政治や経済についても学び始めていた。


 けれど、平民がどのように暮らしているのかは、全く知らなかった。知りたいと思ったことすらなかったのだ。


「そうなのか。もし和平についての話し合いがうまくいけば、私もそちらの王都を見ることができるかもしれないね」


 和平。偽りでしかないその言葉に、私はつい顔を曇らせてしまったのだろう。こちらを見つめるユーグ様の澄んだ青い目に、どこか心配そうな色が浮かんだ。


「……ああ、堅苦しい話になってしまったね。ひとまずそれは忘れて、お昼にしよう。いい店を知っているんだ」


 はぐれないようにと私に手を差し出してきたユーグ様の目は、もう元通りに穏やかに凪いでいた。つとめて平静を装いながら、右手を伸ばして彼の手を取る。黒い影をまとった左手首の腕輪が、目に入らないように。






 私がユーグ様に連れられて一軒の店に入ると、そこは既に満席に近かった。


「……もしかして、私がもたもたしていたせいでしょうか」


「そう気に病むことはないよ。ここは人気の店でね、昼時はたいがいこんな感じだから」


 入り口でたたずむ私たちに笑顔の給仕が近寄ってきて、二人分なら席を用意できると告げてくる。そのまま私たちは店の奥まった一角に案内された。ひらひらとした服を引っかけないように気をつけながら、質素な木の椅子に腰を下ろす。


「君の口に合うといいのだけれどね。慣れない人には香辛料がきつく感じられるかもしれない」


 少し心配そうな目で、ユーグ様が店内を見渡す。つられて目線をそちらに向けると、様々な色の衣をまとった他の客たちが目についた。


 彼らはみな笑顔で、何かのスープを口にしている。見た目はごくありふれたもののように見えるそれからは、離れていても分かるほどはっきりと、強烈な香辛料の匂いが漂っていた。


「たぶん、大丈夫だと思います。昨日いただいた食事も、初めて口にするものでしたがとても美味でしたから」


 そう答えながら、これまでのことを思い出す。デルト王国との国境を越えてから、幾度か馬車の中で食事をとった。あの時は、従者の男性ができるだけ刺激と匂いの弱いものを選んでくれていたようだった。


 だから昨日、初めてリエルの王宮で出された食事を見て大いに驚くことになった。それらには、どれもこれもたっぷりと香辛料や香草が使われていたのだ。その強烈な香りに、うっかり最初の一口でせき込んでしまったが、気をつけながら食べてみるとこれが意外に美味しかったのだ。


 故郷デルトの料理は比較的味付けが単純で、どちらかというと素材の味をそのまま生かすものが多い。対してリエル王国では、想像もつかないくらい色々なものを使って味つけをしているようだった。


「そうか、口に合ったなら良かった。……ああ、ちょうど料理が来たね」


 ユーグ様が顔をほころばせる。私たちの目の前には、他の客のものと同じスープが置かれていた。


 大きなさじを取り上げて、少しずつ口に運ぶ。酸っぱさと辛さが舌を刺激すると同時に、涼やかな匂いが鼻に抜けていった。いったい何の調味料が使われているのか、見当もつかないくらい複雑な味だ。具材はごろごろとした何かの野菜と、たぶん鶏肉だろう。


 他の客の動きをよく見て、上品になりすぎないよう気をつけながら野菜を口に運ぶ。何の野菜なのかはやっぱり分からないが、強いて言うなら瓜に一番近いような気もする。しゃきしゃきした歯触りが心地よい。鶏肉は食べ慣れたものより少々固いが、このスープには良く合っていると思えた。


 朝から驚きっぱなしで余計にお腹が空いていたこともあって、私は夢中でスープを食べ続けていた。ふと視線を感じて顔を上げると、ユーグ様がやけに優しい笑みを浮かべてこちらを眺めていた。まるで子供を見守っているようなその視線にいたたまれなくなって、手を止める。


「……あの、どうされましたか」


「気持ちのいい食べっぷりだな、と思っただけだよ。この料理を気に入ってもらえて、私も嬉しい」


 ざっくばらんに、とか気さくに、とか言われ続けていたせいで気が緩んでいた。連れの人間をほったらかしにして料理に夢中になってしまうなんて、淑女にあるまじき行為だ。恥ずかしさに顔が熱くなる。


「あ、はい、その……とても美味しかったので、ついはしたない真似をしてしまいました」


 小さく頭を下げて謝る私に、ユーグ様は予想通りの言葉をかけてくれた。


「いや、はしたなくなどなかったよ。あれくらい気を抜いてもらった方が、こちらとしても気が楽だからね。また、ああいった気取らない姿を見せてもらえると嬉しい」


 そう言って笑いかけてくるユーグ様の青い瞳を見ていると、胸がじんわりと温かくなっていくような気がする。今度は謝罪ではなく、感謝の気持ちを伝えるためにもう一度頭を下げた。


「ユーグ様がそうおっしゃられるのであれば、もっと努力してみます。ここに連れてきてくださって、ありがとうございます」


「どういたしまして。君さえよければ、また一緒に来てくれないか。そうすればきっと、君の違う顔が見られる気がするから」


「はい、喜んで!」


 思わず勢いよく返事をしてしまって、ユーグ様が目を丸くする。珍しいその表情に、私はあわてて手で口元を押さえる。それがおかしかったのか、今度はユーグ様が明るく声を上げて笑う。


 そうして私たちは香り高いスープの皿を囲んだまま、くすくすと笑いあっていた。店中にあふれるにぎやかな話し声や笑い声の中に、私たちの声も溶け合って混ざり合っていった。

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