6.とんでもないお誘い
リエルに着いた次の日の朝、私はサンダル履きのまま王宮内のあちこちを歩き回っていた。特に隠すものなんてないから、王宮内は好きに歩き回ってくれていいよ、というマルセル様のとんでもない言葉に甘えることにしたのだ。
王族の暮らす最上階から、文官たちが仕事をしている中ほどの階。それに兵士たちが鍛錬をしている広間まで、誰にもとがめられることなく見て回ることができてしまった。私は一応停戦の使者ということになっているけれど、それでもここまで無防備でいいのだろうか。
軽やかに歩きながら、自分の足元に目線を落とす。何本もの細い革紐を編み込んだ、繊細なサンダルが目に入る。こんなに軽くてすかすかの靴を履くことになるなんて、デルトにいた頃は思いもしなかった。
なんでも年がら年中暑いリエルでは、正式な社交の場所だろうが何だろうが、全てサンダルで出席できるのだそうだ。だからここでは、よそ者以外は大体みんなサンダル履きだ。
そしてリエルの女性たちの間では、足の爪に色をつけるのが流行っているらしい。いまサンダルからのぞいている私の足先も、可愛らしい桃色に染め上げられていた。ジネットがはしゃぎながら、この色を選んでくれたのだ。色白のロザリー様には、きっとこの色が似合うわ、と言って。
私がここに滞在している間、私の世話はジネットが担当してくれることになった。彼女は使用人というよりも友人のような気安さで、あれこれと世話を焼いてくれている。その率直さにはあっけに取られることも多かったが、どことなく好感の持てるものでもあった。
リエル風の新しい服は着心地がよく、とても涼しかった。その鮮やかな色は、とても心を浮き立たせてくれる。
髪型だけはデルト王国にいた頃とほとんど同じだ。きつく結い上げるのに抵抗があるとジネットに言ったところ、彼女はすぐに私の髪を整えてくれた。
長い髪のほとんどはそのまま下ろし、一部のみをすくい上げて緩くまとめる。そこに朝摘みの花を飾れば、そこそこリエル風の髪型の完成だ。
左手首の魔法の腕輪と、首元の毒を仕込んだペンダントさえなければ、もっとずっと良い気分だっただろうに。腕輪とペンダントにからみつく黒い影は、嫌でも私に密命のことを思い起こさせていた。
そういえば、今のところこの王宮のどこにも黒い影は見当たらない。不思議なこともあるものだと思いながら足を止めた瞬間、穏やかな優しい声にいきなり呼び止められた。
「やあ、散歩かな?」
振り返った先には、ユーグ様が昨日と同じおっとりとした笑みを浮かべて立っていた。けれど彼の服は、昨日のものよりかなり地味だ。
「はい、マルセル様のお許しをいただきましたので、あちこちを見て回っていました」
そう答えながら会釈すると、彼の笑みが苦笑に変わる。何かそそうをしてしまったのかと焦っていると、彼は首を横に振った。
「ああ、別にとがめようという訳ではないんだよ。ただ、父さんの言葉に驚いたんじゃないかって、そう思っただけなんだ」
「それは……はい、驚きました。どこでも好きに見て回るといい、などと言われるとは思わなかったので」
「そうだろうね。もし父さんのせいで困るようなことがあったら、いつでも私に言ってくれ」
これは素直に礼を言ってしまっていいのだろうか。ユーグ様の口ぶりでは、どうやら私はこれからもマルセル様に振り回される可能性が高いようだった。
密命を果たすためにはマルセル様に近づかなくてはならないが、あの人の自由奔放な振る舞いは色々と予測不可能で、正直かなり戸惑っている。とにかく、何もかもが一筋縄ではいかないのだ。
「……うん、さっそく父さんに悩まされているみたいだね。代わりに謝らせてくれ」
王子の御前であることを忘れてうっかり眉をひそめてしまった私に、ユーグ様が小さく頭を下げる。王子らしからぬその振る舞いに、思わず飛び上がった。
「あっ、いえ、その、ユーグ様が謝られるようなことではありません」
大あわてでそう言いながら、頭の中にちらりとある考えがよぎった。あのフィリベルト王子は、一度たりとも誰かに頭を下げるようなことはなかった。それは王子としては当然の振る舞いなのだろうが、同時に彼の高慢さをも表していたのかもしれない。
「……そうだ、おわびといってはなんだが、少し出かけないか? きっと面白い体験ができると思うんだ」
頭を上げたユーグ様が、どこかいたずらっぽく笑いながらそう提案してくる。
私に、断るという選択肢はなかった。密命を果たすためには、ユーグ様にも近づいておいた方がいい。そしてそれを抜きにしても、私は彼について知りたいと思っていた。ただ純粋に、彼に興味があったのだ。
私の返事を聞いたユーグ様は嬉しそうに笑うと、ついておいでと言いながらゆっくりと歩き出した。
てっきり王宮のどこかに連れていかれるのだろう。そんな私の予想は、あっさりと裏切られてしまった。
ユーグ様はまっすぐに王宮の門に向かうと、そのまま外に出てしまったのだ。供も護衛も連れず、馬車にも乗らず。
「あの、ユーグ様……これからどこに向かうのでしょう」
王宮の前にかかる橋を渡ったところで、ついにこらえきれなくなった。失礼かなと思いながらもそう尋ねると、ユーグ様は律儀に答えてくれた。世間話でもしているかのように気軽に。
「ああ、城下町だよ。あそこには色々なものがあるからね。きっと君も気に入るよ」
「王子がたった一人で城下町を歩いてもいいのでしょうか……」
「今回は一人ではないよ、君がいるからね。……まあそんな冗談は置いておくとして」
ユーグ様は束ねて首の横に垂らしていた髪をほどくと、頭の後ろで結い直した。緩く波打つ黒髪が、彼の歩みに合わせてゆったりと揺れる。
「私は身分を隠して、時折お忍びで城下町に出かけているんだ。城下町にいる間の私は『貴族の三男坊アンリ』だからね、間違えないよう頼むよ」
「は、はいっ」
力んでしまったせいで、声が裏返る。それがおかしかったのか、ユーグ様は声を立てて笑った。草原を渡る風を思わせる穏やかな声が、心地良く私の耳をくすぐる。
「そうかしこまらないでいいよ。というよりも、もう少し肩の力を抜いてくれ。そうでないと、私まで怪しまれてしまう」
言葉こそ厳しかったが、その声音はとても優しかった。自然と顔がほころぶのを感じる。
「はい、気をつけます」
「口調だって、もっと崩してくれていいよ。父さんじゃないけれど、私ももっと気さくに話してもらいたいと思っているんだから」
ユーグ様は愉快そうに笑いながら、そんな無理難題を投げかけてくる。気さくに、と言われてもどうしていいのか見当もつかない。困り果てた私は、ただ目を白黒させることしかできなかった。
王宮の外に出た私たちは、そのまま貴族たちの屋敷がある区画を並んで歩いた。デルトの様式とは全く違う作りの屋敷が立ち並ぶ様はとても興味深く、はしたないと思いつつもついついあちこちに目がいってしまう。
明るい色のしっくいが塗られた壁には、様々な色で美しい模様が描かれている。屋根はなだらかな曲線を描いていて、そして窓がやたらと多い。
「そんなに面白いかい? 私からすれば、珍しくもなんともないのだけれど」
屋敷に見とれながら歩く私に、ユーグ様が不思議そうに話しかけてくる。私が興奮を隠しきれずにうなずくと、ユーグ様は楽しげに笑って色々なことを教えてくれた。
壁の模様や色にはそれぞれ意味があるのだとか、屋根の形には流行りすたりがあって、屋根を見ればその屋敷がだいたいいつ頃に建てられたのかがすぐ分かるのだとか。
彼の説明を聞いて、疑問に思ったことを口にする。するとまた、すぐに返事が返ってくる。それはとても好奇心を刺激するやり取りで、とても楽しかった。
しかしそうやって話しているうちに、私たちはどんどん区画のはずれに向かってしまっていた。すぐ近くに、城下町を囲う塀が見えている。ここからどうするのだろうと思った矢先、前を進んでいたユーグ様がふらりと門をくぐった。
散歩にでも出るような気軽さで、彼は城下町の外に出てしまったのだった。予想外の行動にぽかんとして、そのまま足が止まる。それに気づいたユーグ様がこちらを振り返り、小さく手招きした。
デルトにいた頃は、こんな風に徒歩で街の外に出たことはない。少しだけわくわくしているのを感じながら、私は彼の後を追いかけた。




