48.和解の第一歩
「ロザリー、大丈夫か!」
ユーグ様が血相を変えて叫ぶ。すぐに駆けつけてきたジネットたちが、私たちとフィリベルト王子との間に立ちふさがった。
「大丈夫です、腕をかすっただけですから」
フィリベルト王子は、ユーグ様の隙をついて隠し持ったナイフで切りかかったのだ。けれどそのナイフは、とっさに割り込んだ私の外套を引き裂いて、腕にかすり傷を負わせただけだった。
「またお前が私の邪魔をするのか、ロザリー!」
フィリベルト王子の恨みに満ちた声が、ジネットたちの向こうから聞こえる。彼の顔が見えないことにほっとしていると、ユーグ様が私の手を取った。傷を確かめ、手早く布を当てて止血している。
「決闘の勝敗がついた後に不意打ちとは、卑怯だと思わないのですか」
はっきりと怒りを含んだ声で、ユーグ様はフィリベルト王子に呼びかける。返ってきたのは、おおよそ想像通りの答えだった。
「リエルの連中相手に、卑怯も何もあるものか! 野蛮で礼儀知らずの、泥棒たちに!」
その言葉に、遠巻きに見ていたデルトの兵士たちがざわめき立つ。彼らもまた、かつての私のように、リエルは不倶戴天の敵だと思っているのだろう。そして、目の前のユーグ様たちの姿に戸惑っているのだろう。
きっと兵士たちはこう思っているに違いない。フィリベルト王子の言いたいことは分かるが、目の前の光景は、その言葉とまるで違っている。礼儀知らずなのは王子の方で、リエルの人間たちではない。
「そこまでだ、フィリベルト」
混乱する中庭に、陛下の声が響く。ざわめいていた兵士たちが、一度に静まり返った。
「もう、終わりにしよう。これ以上、憎しみを受け継がせてはならん。我らの、未来のために」
「……父上?」
「済まなかった、フィリベルト。お前が古い考えに、ずっとデルトの王族を縛っている感情に染まっていくのを、ただ黙って見過ごしてしまった」
陛下はひどく悲しそうに、一言一言を噛みしめるように口にする。みな、陛下の言葉に聞き入っていた。
「本当は、お前も分かっているだろう。デルトとリエルの戦いにおいて、我らに道理がないということを」
フィリベルト王子が、真っ青になりながら歯を食いしばっている。その表情は、陛下の言葉が当たっていることをうかがわせるものだった。
「このままでは、デルトは滅ぶ。白枯病がなかったとしても、それは同じことだ」
「ですから、リエルを攻め落として、再び我がデルトの領地とすれば!」
「それが不可能なことも、お前には分かっているだろう? 密偵を通じて、リエルの真の姿を知っているお前ならば」
子供に言い聞かせるようにゆっくりと話す陛下の声は、とても優しいものだった。かつて陛下とフィリベルト王子が話し合っていた時のよそよそしい冷たさは、どこにもなかった。
「しかし、お前がすぐにその憎しみを捨てられるとは思わない。だから、王位は他の者に譲ることにする」
はっと顔を上げたフィリベルト王子に、陛下は静かに微笑みかける。
「お前ひとりを追いやりはしない。わしも、潔く王の座から降りよう。お前が曇りなき目で二つの国を見られるようになるまで、わしはお前と共にあろう。たった一人の、父として」
陛下がゆっくりとこちらに歩み寄る。石畳に膝をついて、フィリベルト王子の顔を正面から見つめた。
フィリベルト王子は何も言わず、うつむいた。その肩は、小さく震えていた。
後味の悪い決闘を終え、私たちは堂々と会議室に足を踏み入れていた。そこに、今デルトをむしばんでいる白枯病についての全ての情報が集められているのだ。
大臣たちが戸惑いがちに、私たちを出迎えた。その幾人かは、かつて妃教育を受けた際の顔見知りだった。彼らは私を見て微笑んだが、すぐに顔を引き締める。陛下の命で協力することにしたのはいいが、やはりリエルの人間と関わることは恐ろしいと思っているような顔だった。
「……資料を見せていただけますか」
一歩前に進み出てそう頼むと、大臣たちはそろそろと大机の上を指し示した。デルトの国土全てが記された大きな地図のあちこちに、印がつけられている。
大臣たちは私には目もくれず、ちらちらとユーグ様たちの方を見ていた。敵国であるリエルの人間にこんな機密を見せていいだろうかと、彼らの顔にはそう書いてある。
ユーグ様たちも、彼らを気遣っているのか入口に突っ立ったままだ。どことなく気まずそうに、大机から視線をそらしている。
私は祖国デルトを救いたくて、デルトとリエルの和平を成立させるためにここまでやってきた。そうして無事に陛下の説得に成功したし、一番の障害であるフィリベルト王子もどうにか黙らせることができた。けれど、まだデルトの人々はリエルを恐れたままだ。
仕方ないと自分に言い聞かせようとしても、駄目だった。悔しくてたまらない。ユーグ様は、ジネットは、レミは、リエルのみんなは、とっても素敵な人たちなのに。
「……リエルは、とても美しい国でした」
そんな言葉が、ひとりでに口をついて出た。みなが目を見張って、こちらを見た。
「みんな明るくて、優しくて、とても自由で。デルトとはまるで違っていたけれど、決して野蛮でも粗野でもありませんでした」
話しているうちに、勝手に涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。しゃくりあげそうになるのをこらえながら、必死に言葉を紡ぎ続けた。
「デルトとリエルは、手を取り合えます。私はリエルで過ごして、そう確信しました。だから」
ついにこらえきれなくなって、うつむいた。胸元でぎゅっと手を握り、叫ぶように言い放つ。
「だから、どうか、リエルを恐れないでください。自分の目で見たものを、信じてください。この人たちが、野蛮で恐ろしい人間に、見えますか!?」
最後の方は涙でぐしゃぐしゃになっていて、聞き取るのもやっとだっただろう。必死に泣き声をこらえている私の傍にユーグ様がやってきて、そっと肩に手を置いた。そのままユーグ様の胸にすがって泣き続ける。
しばらくして、ようやく涙が止まった。そろそろと顔を上げると、こちらを見ているユーグ様と目が合った。とても優しい微笑みを浮かべている。
彼のすぐ後ろに大臣たちが立っているのが見える。彼らは、心配そうな目を揃ってこちらに向けていた。やがて、中の一人が口を開いた。
「……彼らがリエルの人間だというのなら、今まで私たちが信じてきたものは何だったのでしょうか」
「デルトの兵が戦っていたのは、他国の傭兵です。その印象が、誤って伝わったんです」
かつてリエルの城下町で出くわしたスサナの傭兵の姿を思い出しながら、そう答える。本当は、フィリベルト王子のような考えを持った歴代の王族たちが、故意に誤った情報を流していたのだろう。けれどそのことは、公にする必要がない気がした。
「……つまり、私たちは今までの間違いを正すべきだと、そうおっしゃるのですか、ロザリー様」
「はい。リエルとデルト、二つの国の幸せな未来のために」
肩に置かれたままのユーグ様の手の温もりが、私に勇気をくれていた。二つの国が本当の意味で和解するには、途方もない時間と努力が必要になる。それは分かっている。けれど、だからと言ってひるむ訳にはいかない。まずはここから、最初の一歩を踏み出すのだ。
落ち着いた声で答えを返す私を、大臣たちはまだ戸惑いながら見つめ続けていた。しばらくして、彼らは互いに顔を見合わせると、同時に大きくうなずいた。
「分かりました。すぐに、認識を変えることは難しいですが……それでも、努力しなければ何も変わりませんね。ましてや、あなた方はデルトを救うために来てくださったのですし、恐れて遠巻きにするなど、失礼でした」
大臣たちは一斉に、ユーグ様たちに向かって頭を下げる。次に顔を上げた時の彼らの顔には、清々しい表情が浮かんでいた。
「それでは、改めて状況を説明しましょう。みなさま、大机の周りに集まってください」
大臣たちはいそいそと、ユーグ様たちはためらいがちに、大机に近づく。数百年の間一度も見られなかった光景が、そこにはあった。




