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45.希望に向かって

「良かった、ロザリー様、あなたが無事で。本当に良かった」


 私に抱き着いたまま涙目でそんなことを言っているのは、なんとジネットだった。彼女は今回の旅には同行していなかったのに、どうしてここにいるのだろう。


「ジネットは女官長だが、同時に隠密でもあるんだ。今回は、陰から私を護衛するためについてきていた」


 ユーグ様がそう説明する。ジネットがまとっているのはいつものリエルの装束ではなく、デルト風の質素な服だった。


「……隠密って、どこかに潜入してこっそり情報を集めたり、要人を陰から警護したりする、そういう仕事……だったかしら」


 驚きながらそうつぶやくと、ジネットは力強くうなずいてきた。思わず彼女の顔をまじまじと見る。


 言われてみれば、納得できなくもない。私に護身術を教えてくれたカロリーヌ様よりも、ジネットは遥かに強かった。それに彼女は頭の回転が速く、魅力的で人当たりもいい。彼女なら、隠密という仕事もこなせるかもしれない。


 そう思いつつも、どうにも驚きを隠しきれない。ジネットはそんな私に笑いかけると、涙のにじんだ声で説明を始めた。


「私の今回の任務は、何があろうとアンリ様を守り抜くことだったの。だから、あなたがフィリベルト王子にさらわれた時も、追いかけていくことができなくて……ほんとにもう、心配で」


「ごめんなさい、心配かけて。でもどうにか、無事に逃げ出せたから。……カロリーヌ様のお陰で」


 その言葉に、ジネットは引っかかるものを感じたらしい。私の両肩をつかむと、いぶかしげな目で私を上から下までじっくりと見た。


「あの王子、いけ好かない顔をしてるなとは思ったけど……あなたが護身術を使わなくてはいけないようなことをしたのね、あの男は?」


「えっと、それは、その」


 余計なことを口走ってしまったかと、思わず身じろぎする。その拍子に、まとっていた外套がずれた。さっきフィリベルト王子に引っ張られて裂けたドレスの縫い目があらわになる。ジネットが目をつり上げて、怒りを押し殺したような声で小さく叫ぶ。


「これ、は……あなた、あの男に何をされたの!?」


 鬼気迫る表情のジネットに気おされながら、誰か助け船を出してくれないかと辺りを見渡す。レミたちは気絶している兵士を縛り上げるのに忙しいのかこちらを見てもいないし、ユーグ様は食い入るような目でこちらを見ていた。どことなく顔色が悪い。


「あの、されたというか、未遂というか……」


 しどろもどろになりながらそう答えると、ジネットは難しい顔をしたまま私の口元に耳を寄せてきた。ひとまず私だけに説明してちょうだい、ということなのだろう。


 仕方なく、フィリベルト王子と何があったのか、彼をどうやって叩きのめしたのかについて説明する。ジネットはじっと耳を傾けていたが、やがてぷっと吹き出して、それからくすくすと笑いだした。


「……なるほどね。とってもいい気味。よく頑張ったわね、ロザリー様」


 ジネットはどうやら納得してくれたようだった。しかしもう一人、全く納得していない人物がいた。


「ロザリー……良ければ、私にも話してくれないか」


 真っ青になったユーグ様が、かすれた声でそう言った。先ほど起こったことについてジネットに話すのはともかく、ユーグ様に話すのはかなり恥ずかしい。


 私が困っているのを見て取ったのか、ジネットがユーグ様にそっと耳打ちした。ユーグ様の眉間のしわが、みるみる深くなっていく。どうやら彼は私の武勇伝をおかしがるのではなく、ひたすらにフィリベルト王子に対して憤っているようだった。


 ユーグ様は額に手を当てて、うつむいたまま大きく深呼吸している。明らかに、怒りを鎮めようとしている仕草だった。私たちが見守る中、彼は大きく息を吐き、顔を上げた。


「王子の行いは許しがたいが……まずは、ここに来た使命を果たすべきだろう」


 彼の表情はほぼいつも通りだったが、その声にはまだ怒りの名残がにじんでいた。彼の手にそっと触れると、彼は一瞬目を見張って、それからこちらに笑いかけてきた。


 そんな彼に大きくうなずきかけて、思うところを述べる。


「フィリベルト王子には停戦の意思はありません。ですから、陛下のところに行くしかないと思います。陛下なら、私たちの話を聞いてくれるかもしれません」


 停戦の使者である私たちをだまし討ちにするなどという卑劣な罠は、おそらくフィリベルト王子が単独で仕掛けたものだろう。


 陛下と話す機会はそう多くなかったが、こんな行いをよしとされる方ではなかった。それに、先ほどすれ違った兵士のうち一部は、私に剣を向けることなくぽかんと私を見送っていた。フィリベルト王子の命令は、全ての兵士に行き渡っている訳ではないらしい。ならばまだ、希望はある。そう思いたい。


「そうだな。ロザリー、デルト王のおられる場所に心当たりはないか」


 私が停戦のために、ユーグ様のために力になれることを嬉しく思いながら、デルトで暮らしていた頃の記憶をたどる。


「……この時間なら、きっと執務室におられます。私が案内しますから、ついてきてください」


 正直、先頭に立って歩くのは恐ろしかった。ぐずぐずしていたらフィリベルト王子がまた追いかけてこないとも限らない。私がちゃんとみんなを道案内できなければ、今度こそ無事では済まないかもしれない。


 そんな不安を心の底に押し込めて、みんなに力強く笑いかける。大股で歩き出し、陛下の執務室に急ぐ。


 ありがたいことに、陛下の執務室は先ほど連れ込まれたフィリベルト王子の私室とは反対方向だ。急げば、王子に見つかる前にたどり着けるかもしれない。そんなことを考えていたせいか、どんどん急ぎ足になってしまう。


 気がつくと、私は小走りに廊下を駆けていた。そうしていないと、心の奥底からにじみ出してくる恐怖に負けてしまいそうだったから。


 足がもつれて、体が前のめりにつんのめる。けれど次の瞬間、私の体はしっかりと支えられていた。すぐ後ろを歩いていたユーグ様が、とっさに腕を伸ばして私を抱き留めてくれたのだ。


「ロザリー……大丈夫だ、君は私が守る。もしまたフィリベルト王子が現れても、君には指一本触れさせない」


 ユーグ様は、私が抱えた不安に気づいてくれた。そうして、今の私が欲しい言葉をくれた。嬉しさににじむ涙を拭って、彼に微笑みかけた。本当は感謝の言葉を述べるところなのだろうけれど、うまく言葉が出てこなかったのだ。


 彼が差し出す手につかまり、もう一度歩き出す。今度は、落ち着いたしっかりとした足取りで。




 陛下の執務室まであと少しというところで、またデルトの兵士に出くわした。立ち止まり様子をうかがう私たちに向かって、兵士は剣を向けてくる。どうやら彼らもまた、フィリベルト王子の手の者らしい。


 ユーグ様が私をしっかりと抱き寄せ、レミたちが格闘の構えを取る。しかし決着は、あっという間についてしまった。


 その場の誰よりも速く、ジネットが動いていたのだ。彼女は動きにくいデルトの服をものともせずに駆け出すと、あっという間に兵士を全て気絶させてしまっていた。あまりに速すぎて、動きが何一つ見えない。


 前にカロリーヌ様と手合わせをしていた時のジネットは、とても強かった。しかし今目にした彼女の強さは、その比ではなかった。彼女なら、騎士たちの集団を相手にしても勝てるかもしれない。


 ぽかんとしながらそんなことを考えていた私の耳元で、ユーグ様がひそひそとささやきかけてくる。


「驚いたかい? ……彼女は強いんだよ。剣を振り回すのは苦手だけれど、素手での戦いならリエルいちかもしれない」


「そこまで、強かったんですか……」


「ああ。男としては微妙な気分ではあるけれど、私も彼女には敵わないんだ」


 倒れた兵士たちをやけに清々しい顔で見下ろすジネットを見ながら、私たちはそんな内緒話に花を咲かせていた。




 そうして、私たちは陛下の執務室の前にたどり着いた。部屋の前を守っている兵士は私たちに剣を向けることなく、うやうやしく出迎えてくれた。


 彼らに用件を説明し、陛下に取り次いでもらう。やがて、中に入るようにという指示が出た。


 私たちは顔を見合わせると、ゆったりと部屋に足を踏み入れた。ここで、リエルとデルトの未来が決まる。事の重大さに身震いする私に、ユーグ様がこっそりと笑いかけた。同じように笑い返しているうちに、不安はすっと消えていった。


 部屋に入った私たちに、ゆったりとした声がかけられる。


「客人が来ているとは知らなかったが……そのいでたちは、もしかしてリエルの者か」


 執務室の大きな椅子に腰かけた陛下は、とても穏やかな目をこちらに向けていた。

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