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44.祖国、あるいは敵地

 フィリベルト王子の自室を飛び出して、元の廊下を目指して全力で走る。ユーグ様たちはこの王宮の地理に明るくない。私の方から、ユーグ様たちを迎えに行かなくては。


 かつてフィリベルト王子の婚約者であった頃は、王宮の廊下を走ることなどなかった。そもそもデルトの令嬢は、何があろうと走ったりはしない。いつもしずしずと、ひどくゆったりと歩くだけだ。


 色鮮やかなドレスの裾をひるがえして走り続けているうちに、少しばかり爽快な気分になっていた。すれ違う侍女や兵士たちがぽかんと口を開けてこちらを見ていたが、全く気にならなかった。


 けれどじきに、私は立ち止まる羽目になっていた。行く手の曲がり角から、兵士が数人姿を現したのだった。彼らは私の姿を見て、驚きに声を上げる。


「なっ、こんなところにリエルの人間だと?」


 そう言いながら、彼らは剣を抜いた。どうやら彼らは、フィリベルト王子の配下のようだった。私が身に着けている程度の護身術では、鎧をまとった兵士を倒すことなんてできはしない。一対一ならまだ可能性もあるかもしれないが、これだけ人数がいたらどうしようもない。


 あと少しで、あの廊下に戻れるのに。悔しさに唇を噛みながら、せめて隙をついて逃げられないかと身構えた。


 しかし兵士たちはそのまま動かない。どうも、戸惑っているように見えた。


「……待て、こちらはもしかしてロザリー様ではないか? ほら、フィリベルト様の元婚約者の……」


 どうやら、私の顔を知っている者がいたらしい。彼らは私の方をちらちらと見ながら、声をひそめて話し合い始めた。


「フィリベルト様の命令では、リエルの使者は全て捕らえろ、抵抗するなら痛めつけても構わない、とのことだったが……」


「ロザリー様はデルトの使者として、リエルに旅立たれた筈。それがどうして、あのような姿でここに?」


「何だか不思議な衣だな。色合いは見慣れないものだし、リエルのもののようだが……しかしデルトのものにも似ているし……」


「俺たちが考えていてもどうしようもない。ひとまず、フィリベルト様のところにお連れするか」


「そうだな、そうするか」


 固唾を呑んで見守る私の目の前で、兵士たちはそんな結論にたどり着いてしまった。けれど絶対に、フィリベルト王子のところに連れ戻される訳にはいかない。さっきあんな手を使って逃げ出してしまったのだし、次に捕まったらどんな目に合わされるか分からない。


 兵士たちは剣を収め、両手を突き出しながらじりじりと私に迫ってくる。とっさに走って逃げようとしたら、回り込まれてしまった。


 前には兵士たち、後ろには壁。もうどこにも、逃げ場はない。それでもまだ、私は諦めてはいなかった。胸の前でしっかりと手を握りしめ、限界まで息を吸い込む。


「……きゃああああああああ!!」


 お腹に力を入れて、ありったけの声で叫んだ。突然のことに、兵士たちが目を丸くしている。


 きっとこの近くに、ユーグ様がいる。この声が彼のもとに届けば、きっとここまで駆けつけてくれる筈だ。


 強くなると決めたのに、自分の力で切り抜けようと思ったのに、結局はユーグ様に頼るしかない。そのことが少しだけ、歯がゆかった。きっとユーグ様は、いくらでも頼ってくれと言うだろうけど。


 私が突然上げた悲鳴に、兵士たちがたじろぐ。けれどすぐに立ち直り、またこちらに迫ってきた。


 彼らの腕から逃れようと、じりじりと後ろに下がる。すぐに、背中が壁にぶつかった。そのまま床に座り込み、身を固くする。絨毯にしがみついてでも、この場に留まってやるつもりだった。絶対に、王子のところには戻らない。


 兵士たちが戸惑いながら、私の腕をつかむ。その時、彼らが急にざわめき立った。


 顔を上げると、兵士たちの武骨な鎧の向こうに、鮮やかな色がひらめいているのが見えた。鈍い音がした次の瞬間、兵士たちがばたばたと倒れていく。


 その向こうには、ユーグ様が立っていた。息を弾ませて、心配そうな目でこちらをまっすぐに見ている。


「ロザリー、無事だったか!」


 彼が差し伸べた手につかまり立ち上がりながら、こくんとうなずく。彼は深々とため息をついて、私を抱き寄せた。


「さっきの叫び声を聞いた時は生きた心地がしなかった。……良かった、こうしてまた会えて」


「助けに来てくれて、ありがとうございます」


 彼の胸にすっぽりと顔をうずめたままそう言うと、ユーグ様の体が揺れた。笑っているらしい。


「礼を言われるようなことではないよ。私は君の力になれることが、何よりも嬉しいのだからね。……さっきは守ってやれなくて、済まなかった」


 予想にたがわぬ言葉を返してくれたことが嬉しくて、彼の胸にぎゅっと頭を押しつける。さっきフィリベルト王子に頭突きを食らわせたことを思い出して、ついくすりと笑ってしまった。


「どうしたのかな、突然笑ったりして」


「いえ、幸せだなあって、そう思ったんです。あなたが私のことを心配してくれて、こうやって助けに来てくれて。フィリベルト王子のもとにいた頃は、これっぽっちも幸せではなかったなって」


「……そうだな。君がかつて辛い思いをしたことには、やはり複雑な思いがあるが……それでも、今私が君を幸せにできているのなら、これほど光栄なことはない」


 こうしてユーグ様に触れていると、あれだけ恐ろしい目に合ったことも忘れられた。もう大丈夫だ、そう心から信じることができる。


 そんな喜びに、思わず彼にしっかりと抱き着いてしまっていた。ユーグ様は一瞬驚いたようだったが、すぐに腕に力を込めて、同じように抱き返してくれる。


「あっ、いたいたロザリー様! って、ここにも兵士が!? ……あと、ここって一応敵地なんですが、お二人とも分かってます?」


 レミの軽やかな声が割り込んでくる。ユーグ様から離れて振り返ると、レミとリエルの兵士たちが並んでこちらを見ていた。全員、特に怪我をしている様子はない。そのことに、そっと安堵のため息を漏らす。


「いやあ、驚きましたよ。襲ってくる兵士たちに片っ端から当て身を食らわせて、だいたい片付いたかな、って時にいきなり悲鳴が聞こえてきたもんですから」


 リエルの王宮にいるときと同じようなのんびりとした調子で、レミが説明する。


「しかも、アンリ様が兵士をかいくぐって悲鳴のした方に一人で走っていかれるし。さすがにちょっと焦りましたよ」


「済まない。だが、ロザリーの危機だと思ったら、勝手に足がそちらに向かっていて」


「そうでしょうね。愛されてますね、ロザリー様」


 レミの言葉に、リエルの兵士たちが温かなまなざしを一斉にこちらに向ける。どうにも照れくさくてたまらない。そっと彼らから目をそらし、うつむいた。


 その時、彼らの後ろから人影が飛び出してきた。正体を確かめるより早く、その人影は私に思いきり抱き着いてくる。


 いったい誰だろう。リエルからやってきた人間は全員そろっているし、ならばこの誰かはデルトの人間なのだろう。しかしレミもリエルの兵士たちも、全く警戒している様子がない。隣に立つユーグ様も、少し困ったような顔でこちらを見ているだけだ。


 戸惑う私の鼻先を、覚えのある香りがふわりとかすめる。この複雑であでやかな香りは、あの人がまとっているものだ。でもその人は、ここにいる筈のない人だ。


 驚きながら背をそらし、抱き着いている人物の顔を見る。次の瞬間、私は思わず小さく叫んでいた。


「えっ、どうしてあなたがここに?」

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