43.一矢報いる
隠し通路の先は、フィリベルト王子の部屋に続いていた。かつて彼の婚約者だった頃に、幾度か来たことのある部屋だ。
王子は大股に長椅子の前までやってくると、担いだままの私をその上に放り投げた。カロリーヌ様から教わった受け身を取ることもできずに、体をしたたかに打ちつける。その拍子に、まとっていた外套が脱げて床に落ちた。
「それにしても、お前が『幸福の瞳』だったとはな。これはいい拾い物をした」
長椅子にうずくまる私に、どこか残忍さを感じさせる声で王子が言い放つ。その言葉に、引っかかるものがあった。
「……幸福の瞳のことを、ご存じなのですか」
恐る恐るそう尋ねると、彼は得意げにうなずいた。
「ああ。王家に伝わる、古い言い伝えだ。おとぎ話だと思っていたが、実在したとはな」
意外な返事に、呆然とする。もしも私が黒い影についてフィリベルト王子に伝えていたなら、私はこんなにも長い間黒い影を恐れずに済んだのかもしれない。あのお茶会で、彼にちゃんと危険を伝えられたのかもしれない。
「そういえば、前にお前が調べてみろといった大臣がいただろう? あいつこそが、私をお茶会で暗殺しようとした張本人だったよ。お前はあいつを、その『幸福の瞳』で見分けたのか?」
まだぼんやりとした頭で、こくりとうなずく。フィリベルト王子はそれを見て満足げに笑った。
「なるほど、幸福の瞳というのは面白いものだな。何とも便利な道具だ」
その言葉に、またいらだちがこみあげてくる。ユーグ様は、幸福の瞳が周囲に幸福をもたらす存在なのだと、穏やかに微笑みながら教えてくれた。私が幸福の瞳だと知ったカロリーヌ様は、素敵だと言ってはしゃいでいた。
分かりきっていたことだけど、フィリベルト王子は彼らとは比べ物にならないくらい嫌な人物だ。こうやって改めて本人を目の前にして、心からそう思う。
私の沈黙をどう解釈したのか、彼はさらに残忍な笑みを浮かべてこちらを見下してきた。
「しかし、お前はてっきり呪いで死んだのだと思っていたがな。いったい何がどうなって、こんなことになったのだ」
彼はことさらにゆっくりと腕を伸ばし、私の肩をぐっとつかんだ。その不快さに身じろぎする私にはお構いなしに、彼はなじるような口調で言葉を続ける。
「お前はどういう訳か死の呪いを逃れ、あきれたことにリエルの使者としてデルトに戻ってきた。訳が分からないにもほどがある。それに何だその服は。目がちかちかするにもほどがある。まったくもって、下品だな」
お気に入りのドレスを馬鹿にされた怒りで、ようやく頭がしゃんとしてきた。そうだ、いつまでも呆けている場合ではない。
ユーグ様たちが自力でこの部屋にたどり着くことは期待できないだろう。彼らは隠し通路の入口を見つけられないだろうし、隠し通路がここに通じていることも知らない。私は自分の力で、ここを乗り切らなくてはいけないのだ。
しっかりとフィリベルト王子を見据えて、口を開く。
「私は、デルトを白枯病から救うためにここに来ました。そして、デルトとリエルを和解させるために」
私の言葉を聞くと、フィリベルト王子はまた怒りに顔を赤くして、はっ、と吐き捨てた。汚らしいものでも見るような目でこちらを見ている。
「和解、だと? それがありえないことを、お前はよく知っているだろう。あの薄汚いこそ泥どもなど、一匹残らず滅ぼしてやらねばならんのだ」
かつて、リエルはデルトから独立した。数百年経った今でも、そのことを根に持っている人間はいる。フィリベルト王子も、その一人だ。いや、私が知る限り、彼こそがリエルに一番敵意を抱いている人物だ。
忌々しげに顔をゆがめているフィリベルト王子をじっと見つめ、考える。彼は女性や身分の低い者を見下し、道具のように扱う。でもそれは、デルトでは珍しくない考え方だ。その考え方がおかしいのかもしれないと、私はリエルに来てようやく気づくことができた。
だから、リエルとデルトは戦いをやめ、手を結ぶべきだ。そうすれば凝り固まったデルトの考えに、新しい風を呼び込むことができる。そしてリエルも、戦いに備えてわざわざ傭兵を雇わなくて済むようになる。私のこのドレスのように、二つの国は互いのいいところを取り入れてより栄えることができるかもしれない。
でもそれには、フィリベルト王子、あるいは陛下を説得しなければならない。私にできるかは分からないけれど、やるしかない。
「……白枯病を止めて欲しいのなら、リエルと和平協定を結んでください」
私が口にした言葉に、フィリベルト王子が大きく息を吸い込む。その顔は赤を通り越して、青ざめていた。
「私の密命を放り投げた罪人ごときが、私に命令するか……」
いつもなら思い切り怒鳴り散らされる筈の言葉も、低く静かだった。彼がまとっている黒い影が、じわじわと濃さを増していく。
背に冷たいものが流れるのを感じながら、長椅子の上で体勢を立て直し、彼から距離を取ろうとした瞬間。
フィリベルト王子が突然大きく動く。視界がぐるりと動き、天井が目に入った。あっという間に、私は彼に押し倒されてしまっていたのだ。血走った彼の目が、すぐ近くに迫っている。
「お前をリエルに行かせたのは間違いだった。こんなに生意気な女になってしまって」
彼は両腕でがっちりと私の腕を、両膝で私の足を抑えこんでいる。ろくに身動きすら取れない。こちらをいたぶるような愉快そうな声が、彼の口から漏れた。
「本来なら死罪にするところだが、お前には利用価値がある。まだ生かしたままにしてやろう」
私の肩にかけたままの彼の指が、ドレスの布地に食い込む。今まで必死に張っていた虚勢が崩れていく。どうしよう、怖くてたまらない。
「お前は私のものだ。私の道具だ。お前はこれから一生、私に仕えるのだ」
震える私を見下ろして、彼は勝ち誇ったように言葉を続ける。
「最近、私の婚約者の席を狙って女どもがうるさいのだ。私はリエルとの戦いに備えなければならないというのに、あいつらときたらやかましくさえずるしか能がない。ちょうどいい、お前にあいつらを追い払ってもらうとしようか」
フィリベルト王子は目を糸のように細め、ゆっくりと宣告した。
「ロザリー。その能力、そしてその身と心、全てを私に捧げろ。拒むことは許さん」
ありったけの勇気を振り絞って、がっちりと抑え込まれたまま言い返す。彼の目を見据えて、震える声で。
「嫌です、私はあなたのものではありません!」
「まだ抵抗するか。一度きっちり、しつけてやらなくてはな。私に二度と、逆らったりしないように」
そう言うと、彼は残忍な笑いを浮かべ、さらに手に力を込めた。ドレスの縫い目が裂ける不穏な音が、肩のあたりから聞こえてくる。彼が何をしようとしているのか、分かってしまった。それと同時に、血の気が引いていく。
「お前は性格には難があるが、見た目は悪くない。まあ、妾として置いてやろう。そうやってずっと、私のもとで幸福の瞳として働け」
「や、やめてください……」
「さあて、どうしたものか。お前がひれ伏して乞うというのなら、考え直してやらなくもない」
弱気になってはいけないと自分を叱咤しても、涙が浮かぶのを止められない。それを見た王子の笑みが深くなる。私がおびえきっていると思って油断したのか、肩を押さえつけていた彼の手が外れた。腕と、上体が自由になる。
その瞬間、かすかな希望が胸に芽生えた。両手を胸の前で握りしめ、深く息を吸う。
「ええいっ!」
次の瞬間、私は反撃に出ていた。腹筋と腕の力を使って、上体を一気に引き起こす。少し背中を丸めて、自分の額を思いっきりフィリベルト王子に叩きつけた。
この状態から私が反撃するなど思ってもみなかったのだろう。頭突きは見事にフィリベルト王子の頭を直撃し、彼は頭を抱えて小さくうめいた。その拍子に、足も自由になる。私も少し頭がじんじんするが、どうにか怪我はせずに済んだようだ。
次はどうしよう。どうしたら、彼の手から逃れられるだろう。そう考えた時、カロリーヌ様の声が聞こえた気がした。ロザリー、狙うならあそこしかないわ、と。
まだうめいているフィリベルト王子を見据えて、今度は足を思いっきり蹴り上げた。王子の足と足の間、男性の急所を目掛けて。ためらいがちな蹴りではあったが、こちらもどうにか狙い通りの場所に当てることができた。
フィリベルト王子は床に崩れ落ち、硬直したまま細かく震えている。どうやら声も出せないほど痛かったらしい。
カロリーヌ様にこの戦い方を教わった時は、正直言ってかなり恥ずかしかった。とっても良く効くのよ、と言われても、できることなら一生試したくはなかった。でも彼女の護身術がなかったら、私はフィリベルト王子のいいようにされてしまっていただろう。想像しただけで寒気がする。
デルトの重く動きにくいドレスだったら、こんな風に機敏に戦うことはできなかった。衣装係たちに心の中で感謝を捧げる。
床に落ちた外套を拾い上げ、大急ぎで部屋を飛び出した。この王宮の地理なら、だいたい頭に入っている。早く、ユーグ様のところに向かわなくては。
背後でうずくまり、か細いうめき声を上げているフィリベルト王子のことは、もうどうでもよくなっていた。




