39.不気味な静寂
別荘で半月ほど過ごした後、私はユーグ様と共にまた王宮に戻ってきた。もう二人ともすっかり回復していて、元通りの生活が送れるようになっていたからだ。
優雅な曲線を描く王宮が遠くに見えてきた時、私の胸を懐かしさが満たす。ああ、やっと帰ってきた。気がつけば、そんなことを思っていた。
私はデルトの人間だ。ここリエルに足を踏み入れてから、ほんの数か月しか経っていない。それにここに来るまではずっと、リエルのことを野蛮な恐ろしい国だと思い込んでいた。
それが今では、リエルの王宮を懐かしいと思ってしまっている。今の私にとって、ここが帰る場所だった。ユーグ様がいて、ジネットたちもいる。私のことを疑いながら、それでも受け入れてくれた人たちがいる場所。
別荘でよくそうしていたように、ユーグ様と手をつないだまま王宮の廊下を歩く。そうしてそのまま、マルセル様の部屋に向かった。
きっとみな、大騒ぎで迎えてくれるだろう。その様が今から目に浮かんでしまい、思わず笑いが漏れた。ユーグ様はそんな私を見ると、優しく微笑みかけてくれた。
「あっお帰りユーグ、やっと求婚したって本当かな!?」
マルセル様の部屋に入るや否や、そんな言葉が飛んできた。
「本当に決まってるでしょマルセル、だってほら、前よりもずっと親密な感じになってるじゃない」
「やっぱり、私がこちらに残って正解でしたね。良かったわね、ロザリー様」
そこにいたのはマルセル様と、仕事を手伝っているカロリーヌ様、それにジネットだった。すっかりおなじみの顔ぶれに、自然と笑みが浮かぶ。三人は一斉にユーグ様に駆け寄ると、肩やら背中やらをばんばんと叩き始めた。中々に暑苦しい愛情表現だ。
「やっと、これで僕も孫の顔が見られそうだねえ」
「どっちに似るかしらね。楽しみだわあ」
「二人とも、何を先走っているんですか!」
「ユーグ様の言う通りですよ。まずはデルトに連絡を取って、ロザリー様をめとりたいって申し出ないと。って、そういえば国交がないんでした。こうなったら本気で停戦しちゃいます?」
「確かにそうなんだが、頼むから落ち着いてくれジネット」
すっかり浮かれているマルセル様とカロリーヌ様、それとジネットの三人に、ユーグ様が顔を真っ赤にしながら反論している。それでも私の手を離さないでいてくれたことが嬉しかった。
「ところで、デルトの方はどうなっているんだ?」
どうにかして話題をそらそうとしたのか、ユーグ様がジネットに問いかける。ジネットはなめらかな頬に指を当てて、目線を上にやった。
「そうですね、デルト側はとても静かです。国境地帯にも、兵の姿はないみたいですね」
「えっ? そんな筈ないのに、どうして」
思わず口を挟んでいた。フィリベルト王子は私をリエルに放り込むよりも前から、大規模な戦いの準備を進めていた。私がマルセル様を首尾よく殺すことができれば、すぐにこちらまで攻め込むのだと本人の口から聞いた。それなのに、国境にデルトの兵がいないだなんて、何かがおかしい。
「あれ、君もおかしいって思うんだね。実はついこの間まで、国境付近のデルトの軍はどんどん数を増していたんだ。それが急に、みんないなくなっちゃったんだよ」
マルセル様も首をかしげている。私の顔色が変わったのを見て、ユーグ様が静かにつぶやく。
「……君の知るフィリベルト王子は、そう簡単に戦をあきらめるような人物ではないんだね」
「はい。あの方はたとえ国を傾けてでも、リエルを叩きのめすことを優先する方でした」
フィリベルト王子の、自信に満ちた傲慢な笑みが脳裏をよぎる。死の呪いから解放された今でも、彼の存在は私の心の中に重くのしかかったままだった。
よみがえってきた暗い記憶にうつむく私の顔を、ユーグ様がそっとのぞきこんでくる。
「そうか。何だか気になるね。もう少し詳しく調べてみた方がいいかな」
「はい、お願いします。私も何だか……胸騒ぎがするんです」
私を安心させるように小さく笑いかけると、ユーグ様はつないだ手を放してマルセル様とカロリーヌ様のところに歩いていった。そのまま、三人で何事か話し合っている。
呼びつけた文官にてきぱきと指示を出しているユーグ様を見ていたら、胸がぎゅっと苦しくなった。こんなに立派な男性が私を愛してくれていて、私に求婚してくれた。いずれ彼は、私の夫になる。
そう考えたとたん、顔が一気に熱くなった。頬から耳まで、まるで火を噴いているかのように熱い。顔を手で押さえてうろたえる私に、マルセル様たち三人はとても優しい目を向けていた。ユーグ様は作業に集中しているようにも見えたが、その横顔には照れくさそうな笑みが浮かんでいた。
マルセル様の部屋を後にした私は、ジネットと一緒に自室に向かっていた。何か手伝えないかと思ったけれど、どうやら今のところ私の出る幕はないようだった。それに、まだ完全に体力が回復していないので、少し疲れていたのも事実だった。
「どうしたの、後ろを気にして。もしかして、ユーグ様と離れるのが寂しいの?」
「……うん。別荘ではずっと一緒だったから」
照れくささを隠し切れないままそう答えると、弾むような足取りで歩いていたジネットが優しく笑った。
「ほんと、すっかり仲良くなったわね。……色々あったけど、こうして丸く収まったようで良かったわ」
その言葉に、思わずうつむく。その『色々』のほとんどは、私が持ち込んだようなものなのだ。
「……死の呪いのこと、黙っていてごめんなさい。それと、私の密命のことも」
目を合わせずにそう言う。視界の端で、ジネットが首をかしげる気配がした。
「あなたたちに隠し事をしているのが、ずっと辛くて、申し訳なくて……」
話しているうちに、どんどん涙がにじんでくる。それ以上何も言えずに口を閉ざすと、ジネットが明るく笑い、こちらをのぞきこんできた。
「それは仕方ないわよ。それに、私たちだってあなたにはたくさん隠し事をしてたんだし、お互い様ってことでどう?」
いつも以上に軽く、いたずらっぽく彼女は話しかけてくる。彼女が私を元気づけようとしてくれていることを嬉しく思いながら、笑顔でうなずいた。
「それにしても、一時はどうなることかと思ったわ。ほんっと、手間をかけさせてくれるんだから」
しかしジネットは、突然半目になってそんなことを言い出す。思わず首を引っ込めると、彼女は私の肩をつかみ、やけにあわてた様子で首を横に振る。
「ああ、違うのよ。私が言ってるのはユーグ様のことだから」
「ユーグ様が、どうかしたの?」
思わぬところで彼の名前が出てきたことにきょとんとする私に、ジネットは声を落としてささやきかける。
「ユーグ様ったら、あなたのことをとっても気に入っているのが丸分かりなのに、なんだかんだ理由をつけて全然手出ししようとしないし」
「て、手出しってそんな」
「あなたがユーグ様にすっかり惚れ込んでるのもばればれなのに、当の本人だけ全く気づいてないし」
「そんなにばればれだったの?」
「ええ、丸分かりよ。それなのにユーグ様ったら、鈍いにもほどがあるわよねえ。あなたもそう思わない?」
「ジネット、あの、恥ずかしい……」
蚊の鳴くような声で抗議しても、ジネットは全く取り合ってくれない。彼女はそれはもう楽しそうに話し続けている。
「どうにかしてあなたたちをくっつけなくちゃって、私たちはずっと気を揉んでたのよ? カロリーヌ様がいきなり視察を命じたのも、そのせいなんだし」
「ええっ、そうだったの?」
「そうだったのよ。素敵だったでしょ、あの光る海?」
意味ありげに大きく笑ったジネットが、不意に遠くを見るような目をした。
「……だから、ユーグ様があなたの呪いを分かち合う、って言いだした時、少し……嬉しかったのよ。やっと、ユーグ様が一歩踏み出したんだな、って」
その言葉に、死の呪いを分かち合った時のユーグ様の苦しげな姿がよみがえる。彼は私のために、あんな決断をしてくれたのだ。
私も、彼のその思いに答えたい。彼が私を助けてくれたように、私も彼の力になりたい。でもそのためには、もっと強くならなくては。
窓の外に広がる空は、今日も青く澄み渡っていた。ユーグ様を思わせる鮮やかな青を、私はじっと見つめていた。




