37.静かな海辺
目の前には青と緑に透き通った一面の海、ただ静かな波の音だけが聞こえてくる。なめらかな板張りの床に腰を下ろし、ぼんやりと海を眺める。
横に目をやると、同じように海を眺めているユーグ様の横顔が見える。私の視線に気づいたのか、彼もこちらを向いて微笑んだ。
ここは王宮にほど近い、海辺の別荘だ。死の呪いを分け合ったことで生命力をごっそり持っていかれた私たちは、しばしここで静養することになったのだ。
小さいとはいえ王家の者が滞在するための建物なのだし、本来ならば離宮と呼ぶのが正しいのだろう。ただマルセル様をはじめとした王家のみな様は口を揃えて、ここのことを「別荘」と呼んでいた。
ユーグ様は「仕事があるから」と言って王宮を離れることに難色を示していたけれど、カロリーヌ様がまた職務を代行すると言い張り、私たちは二人揃ってここでゆっくりと休むことになった。「ユーグばっかりいいなあ。僕も仕事を誰かに押しつけて休みたいよ」とマルセル様がぼそりとつぶやいていたのが印象的だった。
今回はジネットもついてきていない。自分は王宮で留守番している方がいいから、と言って彼女は意味ありげに笑っていた。それがどういうことなのか、いくら尋ねても教えてもらえなかった。しつこく食い下がった結果、「そんなに気になるんなら、後でユーグ様に聞いてみるといいわ」という謎の言葉だけが返ってきた。
ここに来る前に、私は自分がリエルに送り込まれることになった事のてん末と、フィリベルト王子の企みについて洗いざらい打ち明けていた。フィリベルト王子は今すぐにでもリエルに攻め込むつもりのようだったし、注意を促しておきたかったのだ。
私の打ち明け話を聞いたマルセル様とカロリーヌ様は、一瞬だけ目を丸くした後揃ってにやりと笑い、「情報をありがとう、心配しなくていいよ」と答えた。私のもたらした情報についてある程度予測していたような、そんな反応だった。
そんなこんなで私とユーグ様は一日中のんびりと、こうやって海が見える部屋でくつろいでいるのだ。使用人たちはみな下がっていて二人きり、誰にも邪魔されることなく。
この部屋は海に面した側だけ壁がない。板張りの床の先は、いきなり砂浜に続いている。けれど床が高くなっているので砂が入り込んでくる心配はないし、とても見晴らしが良い。おまけに、海風が床板の下を通り抜けるのでとても涼しいのだ。ユーグ様によれば、リエルでは昔からある様式の建物らしい。
こぢんまりとしていて装飾も控えめなここは、肩ひじ張らずに過ごせる場所だった。これなら『離宮』ではなく『別荘』と呼びたくなるのもうなずける。
柱と梁、そして床が目の前の風景を四角く切り取っていて、一枚の絵画のように見える。肌をなでる風とかすかな潮の香り、そして優しい波の音がなければ、とても現実の風景とは思えないくらいに美しかった。
空の青に海の青、輝くような白い砂浜を見やって、もう何度目になるのか分からない言葉をつぶやく。
「……海、きれいですね」
「ああ。私も好きなんだ」
ユーグ様の答えも、いつもと同じ。特に意味もないこんな会話を、それでも私たちはとても楽しんでいた。
「……あの、ユーグ様」
「何かな」
「ジネットが王宮に残ることにした理由、分かりますか? 『後でユーグ様に聞きなさい』ってはぐらかされてしまったんです」
何の気なしに、そんな問いを口にする。あれからずっと考えていたけれど、やっぱり理由が分からなかったのだ。
きっと気軽に答えが返ってくるものだとばかり思っていた。しかしユーグ様の反応は予想外のものだった。彼は口元を手で押さえると、赤面しながら明後日の方向を向いたのだ。
「あの、もしかして聞いてはいけないことでしたか?」
「いや、違うよ。……そうだね、一度きちんと言っておくべきだろう」
そう答えながら、ユーグ様がこちらを向いて居住まいを正す。つられて背筋を伸ばした私に、ユーグ様は苦笑した。
「緊張しなくていいよ。悪い話ではないから」
ユーグ様は小さく咳払いして、また視線をそらす。一体彼は、何を言おうとしているのだろう。
「ジネットはね、気を利かせてくれたんだ。彼女や両親がいると、私がうまく動けないだろうって、彼女たちはそう判断したんだろう。当たっているのが悔しいね」
「うまく動く……って、どういうことでしょうか」
何のことを言っているのか分からずに首をかしげたとたん、ユーグ様が小さく笑った。それはいつもの優しい笑みとは少し違っていて、そしていつもよりずっと楽しそうだった。
思わずどきりとして見とれる私を、ユーグ様は勢い良く抱きしめてきた。突然のことに、鼓動が急に速くなる。
「こういうことだよ。……あの時ははっきりと言えなかったからね、今、言わせてくれ」
ユーグ様の髪が頬をくすぐる。彼の声が、とんでもなく近くから聞こえてくる。期待に胸が高鳴るのを感じながら、じっと言葉を待った。
「愛している、ロザリー。私たちにはそれぞれの立場というものがあるけれど、そんなものを飛び越えてでも君が欲しいと思えるくらいに」
死の呪いを分かち合ったあの日、私はユーグ様の思いを知った。けれどはっきりと彼の口からこの言葉を聞いたのは初めてだった。嬉しさに身が震え、そのまま彼の胸元にしっかりとしがみつく。
「ずっと前から、君の純真で一生懸命なところに惹かれていたんだ。私に度胸がないせいで、言い出せないままでいたけれど」
「私も、ユーグ様のことを……愛しています。あなたといられるのなら、もう二度とデルトに戻れなくてもいいと、そう思えるくらいに」
こんな言葉を告げられることが幸せでたまらないというのに、なぜか鼻の奥がつんとする。自分でも情けないくらい、涙声になってしまっていた。ユーグ様はゆっくりと私の髪をなでてくれている。
「いつもユーグ様はそうやって、私を励まして、助けてくれました。それが嬉しくて、もっとあなたの傍にいたいと思うようになって……ある日、気づいたんです。これは恋なんだって」
どうにかして思っていることを伝えようと、必死に言葉を紡ぐ。聞き終わったユーグ様は、見とれそうになるほど優しい笑顔を浮かべ、まっすぐに私の目を見つめた。
「君は、本当に不思議な女性だね。臆病かと思えば時に大胆で、それでいて泣き虫で」
「な、泣いてなんか」
そう反論しようとした時、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。悲しみの涙ではなく、感極まった思いがもたらした温かな涙だった。
「いいんだ、もう何も隠さないでくれ。どんな君であっても、愛し続けると誓うよ」
吐息交じりにそう言うと、ユーグ様はそっと私の頬に唇を落としてきた。彼が触れたところが、かっと熱を持つ。それはとても、幸せな感触だった。けれど一つだけ、ほんの少しだけ不満もあった。私は子供ではないのだし、ちょっと物足りない。
わずかに唇を尖らせて、上目遣いに彼の目を見る。驚くことに、それだけで私の言いたいことが伝わってしまったらしい。ユーグ様はまた真っ赤になると、人差し指で私の唇に触れた。そのはずみに、思わず甘いため息がもれてしまう。
「……そちらは、もう少しだけ待ってくれないか。まだ心の準備ができていなくて」
こくんとうなずくと、ユーグ様は申し訳なさそうに笑った。そのまま手を取り合って、見つめ合う。お預けを食らったのは少し残念だけれど、こうやって何の心配もなく彼の傍にいられるのは最高に嬉しかった。
波の音だけが辺りを満たす。彼はふと何かを思い出したように、懐から布にくるまれた小さな包みを取り出した。
「お詫びにといったら何だけれど、これを見てもらえるかな」
慎重に布を開くと、繊細で可愛らしい腕輪が姿を現した。白と桃色の貝殻を幾重にも重ねてつなぎ合わせ、花をかたどったものだ。
「……素敵な腕輪ですね。本物の花みたい……」
「実は、君に似合うと思って大分前に買ったんだよ。でも渡す機会が中々見つけられなくてね」
ほろ苦い笑みを浮かべながら、ユーグ様が腕輪をこちらに差し出してくる。
「君さえ良かったら、この腕輪を受け取ってくれないかな」
「もちろんです!」
ユーグ様が私のために、こんな素敵なものを買ってくれていた。そのことが嬉しくて、つい前のめりになってしまう。
はしたなかったかと身をこわばらせて踏みとどまったが、どうやら私の心配は杞憂に済んだようだった。私の返事を聞いたユーグ様は、思わず見とれそうになるくらい晴れ晴れと笑ったのだ。
そうして彼は、私の左手を優しく取る。そこにはもう、あの魔法の腕輪ははまっていない。
きっとフィリベルト王子は私が呪いにより死んだと思っているだろうし、この腕輪を外しても問題ないだろうと宮廷魔導士が指摘したのだ。どうやっても外せなかった腕輪は、そうして彼の手によりあっさりと外された。その時の解放感は、いまだに忘れられない。
ユーグ様は慎重に、貝の腕輪を私の腕にはめていく。ひんやりとした貝の感触がくすぐったい。思わず口元に笑みが浮かぶ。
「ああ、思った通り良く似合っているね。気に入ってくれたなら嬉しい」
ほっとしたように言うユーグ様に笑顔で礼を言い、左腕を目の前に持ってきてしげしげと眺める。
デルトを発ってからずっと、黒い影をまとった魔法の腕輪がはまっていた左腕。いつしか私は、意識してそこから目をそらすようになっていた。
けれど今は、そこには黒い影はない。代わりにそこにおさまっているのは、ユーグ様がくれた素敵な腕輪だ。優しい桃色をした繊細な貝の花が、昼の光を静かに受け止めている。
「ユーグ様、本当にありがとうございます。大切にしますね」
またちょっと涙ぐみそうになりながら、左腕を掲げてみせた。その向こうに見えるユーグ様は、やはり私を安心させるいつもの笑みを浮かべていた。




