31.密命を果たす時
城下町で女性に襲われたことで、私の悩みはさらに深く、複雑なものになってしまっていた。密命を果たすのか、密命から逃げるのか。あるいはデルトとリエルの和平のために動くのか。それぞれの道を選びたい理由、選びたくない理由。そんなものが頭の中で入り乱れて、とても苦しかった。
そうやって思い悩んでいたある日、いきなり思わぬ方向に事態が動いた。
「ロザリー、今もしかして暇だったりしないかい? 良ければ、ちょっと付き合ってよ」
いきなりマルセル様が私の部屋を訪ねて、にこにこと笑いながらこう言ったのだ。
「はい、大丈夫です。でも何をするのですか?」
「うん、ちょっとそこまで釣りに行こうと思って。君、馬には乗れる?」
「はい、乗れますが……」
まさか、国王じきじきに釣りに誘われるとは思っていなかった。ぽかんとしながらうなずくと、マルセル様は肉付きのいい顔をさらにほころばせた。
「よし、だったらすぐに出かけようか。二人きりで釣りっていうのも、おつなものだよ」
これは密命を果たす絶好の好機だった。けれどどうにも実感が湧かないまま、私はジネットに手伝ってもらって外出の準備に取り掛かっていた。
王都から馬で一時間ほどのところにある湖のほとりで、私たちは二人並んで釣り糸を垂らしていた。
湖の周囲は一面の森で、人家のたぐいは一切ない。明るくにぎやかな鳥の声だけが盛んに響き渡っているだけだ。周囲の風景をぼんやりと見渡しながら、私は内心大いに困り果てていた。
これは密命を果たす、絶好の好機だ。マルセル様が訪ねてきた時そう思ったが、絶好どころではない。最高だった。
マルセル様は従者一人連れてこなかったし、ジネットも留守番を命じられた。ここにいるのは私たち二人だけだ。
ここは王都よりもデルトとの国境に近いし、馬もある。無理をすれば丸一日ほどでデルトまで戻れるかもしれない。しかもマルセル様は「夕方までじっくり釣りをするから、邪魔しないでね」と周囲に言っていたのだ。逃げるための時間もたっぷりある。
そしてとどめに、マルセル様は休憩の時に飲むのだと言ってお気に入りのワインを持ってきていた。隙をついてあのワインかグラスに毒を盛れば、それで終わりだ。あとは事が明るみに出る前に、馬に乗ってひたすらに逃げればいい。
あまりにも私にとって都合の良すぎる状況に、混乱してしまって考えがまとまらない。仕方なく目の前の釣り竿に意識を集中していると、マルセル様がいつもと同じのどかな調子で声をかけてきた。
「釣り、楽しんでるかい? 無理やり誘ってしまって悪かったかなって思ってるんだけど、やっぱり僕のことを知ってもらうにはこれしかないかなって」
「初めてなので勝手が分かりませんが、こうやってのんびりするのも悪くないと思います」
「そう言ってくれるんだね、嬉しいよ。釣りはこの待つ時間も醍醐味の一つだっていうのに、カロリーヌもユーグも分かってくれなくてねえ」
私たちが垂らしている釣り糸はぴくりともしない。けれどマルセル様は気にしていないらしく、さらに楽しげに話し続けている。
「だいたい、みんなばっかり君と楽しく遊んでずるいよね。僕だってもっと、君と仲良くなりたいのにさ」
その言葉が思いっきり胸をえぐる。今まさに私は、彼を暗殺することを考えていたのだから。
できることなら私だって、マルセル様と仲良くなりたい。けれど彼を殺さなければ、いずれ私はフィリベルト王子に殺される。
幾度となく繰り返した、堂々巡りで出口のない悩みがまた浮かび上がってくる。私がうっかり黙り込んだその時、マルセル様は「ちょっと用足しに行ってくるね」と言って近くの森の中に消えてしまった。
私の胸元には猛毒が隠されたペンダント、目の前にはマルセル様のワインが入った革袋。そして私は一人きり、誰も見ている者はいない。このペンダントの中身をあの革袋に入れれば、それで何もかも終わりにできる。そうすればもう、何も悩まなくていい、考えなくていい。
のろのろとペンダントを首から外し、手に取る。相変わらず黒い影をまとったそれを強く握りしめ、革袋を見つめた。
何の感情もなく革袋をつかみ、ペンダントの隠し蓋を開ける。あとはこの中身を、革袋に入れるだけだ。
その瞬間、頭上でひときわ大きく鳥が鳴いた。弾かれるようにそちらを見た私の目に、青い青い空が飛び込んでくる。ユーグ様の瞳の青。
冷や水を浴びせられたように、頭の中にかかっていたもやが晴れる。革袋を放し、震える手でペンダントの隠し蓋を閉じた。そのままペンダントを思いっきり放り投げる。どうやら近くの岩場にでも落ちたらしくからんという乾いた音がして、忌まわしいペンダントが視界から消えていった。
恐ろしいほどの虚脱感と、それを超える安心感が身を包みこむ。これでもう、私がマルセル様を殺す方法はなくなってしまった。いずれフィリベルト王子によって私は殺されてしまうだろうけれど、後悔はなかった。
これでやっと、ユーグ様に恥じることのない自分でいられる。それに、こうなってようやっと実感できた。そもそも私には、暗殺などできない。誰かを殺めた罪悪感を抱いて生き続けていくことなんて、私にはできない。
ちょうどその時、マルセル様が森の中から戻ってきた。何も変わらずにこやかな彼に、私は心からの笑顔を向けた。久しぶりに、何のためらいもなく笑えたような気がした。
その日の夜、またフィリベルト王子からの連絡があった。
『状況はどうだ』
「はい、順調に進んでいます。あと少しで、密命を果たせるかと」
そんな大嘘をしれっとついてしまえることに笑いそうになりながら、彼の返事をじっと待つ。きっといつも通りに、彼はすぐに連絡を終わらせるだろう。そして私はまたわずかな猶予を得たことに安堵しながら、自分の胸元に迫る刃の幻影から目を背けて生きるのだろう。
しかし今日に限って、王子はいつもと全く異なる言葉を口にした。
『その言葉は聞き飽きた。いい加減に結果を出せ。あとひと月だけ待ってやろう』
今までずっと続けてきたその場しのぎのごまかしが、とうとう限界を迎えたことを悟る。だったら最後に、一つだけ聞いておきたいことがあった。この前女性の刃が押し当てられた首元を無意識に触りながら、静かにつぶやく。
「……フィリベルト様、和平は……成らないのでしょうか」
『成るわけがないだろう、愚か者が。こちらはいつでもそちらに攻め入ることができるよう、準備を整えているところだ。いいか、お前が密命を果たせばすぐに、今までにないほどの大規模な戦になる』
当然の答えが返ってきた。彼が和平に応じるなんてことは万に一つもないと分かってはいたけれど、こうもはっきり否定されると、やはり少し悲しい。
『いいか、あとひと月だ。その間にお前が密命を果たせなければ、死の呪いを発動させる』
「ですが、王に近づくことはできても、他の者の目があって中々……」
『ならば色仕掛けでもなんでもして、二人きりになればいいだろう。寝所で不意打ちでもしてみたらどうだ? お前は素行の方には難があるが、見た目は悪くないからな』
これが元婚約者にかける言葉だろうか。たった一発の平手打ちがここまで彼の態度を変えてしまうなんて、かつての私は露ほども思いはしなかった。
『いいか、忘れるなよ。密命を果たせなければ、お前に戻る場所はないのだと』
最後にもう一度だけ念を押して、フィリベルト王子からの連絡は終わった。
すっかり元の静けさを取り戻した自室で、ゆっくりと大きく息を吐く。彼がああ言ったからには、一か月後には必ず死の呪いが発動するだろう。フィリベルト王子は、そういう行動力だけはある。そして彼にとって私の命はただの手駒であり、惜しむようなものではない。
私の余命はあと一か月。突然突き付けられたその現実に、どういう訳か私の心は全く動かされていなかった。あの傭兵や女性に襲われた時に取り乱していたことを思えば、おかしなほど落ち着き払っていった。
理由は分かっている。あのペンダントを投げ捨てた時に、私はもう覚悟を決めてしまっていたのだ。デルトに戻れなくてもいい、大切な人がいるここリエルで、最期まで幸せに生きようと。
思ったよりもずっと早く終わりが来てしまうことだけが残念だったけれど、せめて残りの時間は後悔のないように過ごそう。
深い青の中できらめく星々を見上げていると、自然と笑みが浮かんでくる。そのまま寝台に倒れこみ、目を閉じた。




