3.美しい敵国
粗野で粗暴で、最低最悪な人間たちの集まり。それが敵国リエルなのだと、小さな頃からずっとそう聞かされてきた。私だけではなく、我がデルト王国の民はみなそう思っている。戦場から生還した兵士たちは、リエルの兵がどれだけ恐ろしいか、どれほど野蛮であるかということを、みな震えながら語っていた。
そんな連中の親玉が巣くっている王宮は、きっととんでもなく恐ろしく、そして危険なところなのだろうとずっと想像してきた。間違いなく、その全ては禍々しい黒い影に覆われているのだろうと。
けれど目の前に建っている王宮は、そんな想像とはまるで違っていた。
リエルの濃く鮮やかな青い空に、色鮮やかな王宮がよく映えている。それはまるで一枚の絵画のように美しい光景だった。
優美な曲線が多く用いられた、見慣れない様式の門と建物。その全体に細かく複雑な彫刻がなされ、目に楽しい様々な色が散りばめられている。デルトの城とはまるで違う、精巧な細工の宝石箱のような城だった。
建物のあちこちにある大きな窓は全て開け放されていて、真っ白なカーテンが優しく揺れている。王宮の中から、とてもかぐわしい風が吹き抜けてきた。どこからか、ゆったりとした弦楽器の音までもが聞こえてくる。
あまりに優雅で、そしてのんびりとした雰囲気に驚きを隠せず、従者と二人して呆然と立ち尽くす。そんな私たちの前に、色鮮やかな衣をまとった若者が駆け寄ってきた。
腰に剣を下げていることから見て、彼は出迎えの兵士か騎士なのだろう。しかしそれにしては、彼の顔にはあまりにも緊張感がなかった。
敵国であるデルト王国の使者がやってきたのだと、彼は本当に理解しているのだろうか。思わずそう問いたくなるくらい、彼は楽しそうな笑みを浮かべていた。見ているこっちの緊張を問答無用でほぐしてしまうような、不思議な雰囲気の若者だった。
「デルト王国の使者様ですね。陛下がお待ちです、どうぞこちらへ」
はきはきと彼が言った言葉に驚かされる。どうやら彼は、私たちが敵国の使者なのだとちゃんと理解した上で、こんなにものんびりと構えているらしい。戸惑う私たちをよそに、彼はくるりとこちらに背を向けて歩き出した。
開放的な廊下をゆっくり歩きながら、彼はあれこれと説明をしてくれている。あそこの窓から見える景色は素晴らしいのだとか、こっちの中庭は涼しくて昼寝に向いているとか。どう考えても初対面の、しかも敵国の人間に話す内容ではない。
失礼にならない程度に受け答えしながら、目の前を行く若者の背中を見つめる。
複雑な模様を染め抜いた色鮮やかな黄色の布をゆったりと体に巻き、腰帯で留めたようなその服は、祖国デルトで見慣れたものとはあまりにかけ離れていた。時折すれ違う他の者たちも、彼と同じようにゆったりとした服装をしている。
王宮の廊下で出会った者たちはみな、足を止めて私と従者の姿をまじまじと見ていた。といっても、その視線に敵意は全く感じられない。むしろ、興味と好意に満ちているように思える。そして相変わらず、どこにも黒い影は見えない。
私は困惑に首をひねりながら、気持ちのいい風が吹き抜ける廊下をただひたすらに歩き続けた。
やがて若者は大きな扉の前で足を止めた。その扉にはとても繊細な透かし彫りが施されていて、うっすらと向こうが透けて見えている。扉を通り抜けたかぐわしいそよ風が、私の鼻を優しくくすぐった。どうやらこの扉は、香木でできているらしい。
「使者の方をお連れしました」
若者が扉の奥に向かって呼びかけると、どうぞ、という男性の声が返ってきた。その声にもやはり緊張感はなく、むしろ楽しげなものだった。
「案内をありがとうございます。助かりました」
ここまで案内してくれた若者に礼を言うと、彼は一瞬きょとんとし、それから一気に笑み崩れた。
「いえ、俺は仕事をしただけですから。……それと、使者の方」
「ロザリーと申します」
「ロザリー様ですね、覚えました。それでロザリー様、俺達にはもっと砕けた感じで話してください。デルトではどうなのか知りませんけど、うちはみんな大ざっぱですから」
「そうなのですか?」
若者にそう尋ねながらも、私は内心大いに納得していた。彼といい、ここまでにすれ違った者たちといい、みな王宮の使用人とは思えないほど大らかで、慎みというものがなかった。デルトの王宮であんな振る舞いをしていたら、あっというまに解雇か処罰だ。
「あ、驚きました? 実はそうなんですよ。特に、陛下ときたらもう……」
「おーい、全部聞こえてるよー」
声をひそめて話す若者の言葉にかぶせるようにして、部屋の中から声がかかる。さっき聞こえてきたのと同じ、楽しげで軽やかな中年男性の声だった。
「げっ、陛下」
陛下というからには声の主はリエルの国王だろう。そんな相手に「げっ」だなんて、下手をすれば不敬罪で死刑だ。もし言われたのがフィリベルト王子だったら、間違いなく即処刑だろう。
けれど目の前の若者は苦笑しただけで、扉の方を指し示した。
「……まあ、そういうことですので、あとはぜひご自分の目で確かめてください」
そうして私は若者と従者に見送られながら、涼やかな香りを放つ扉をそっと押し開けた。緊張に足が震えるのを感じながら、ゆっくりと足を進める。
そこは緩やかに弧を描いた高い天井が特徴的な、広く開放的な部屋だった。他の部屋と同じように窓は大きく開け放されていて、そこから外の風が吹き込んでくる。壁や柱にも香木が使われているのか、うっとりとするような涼やかな香りはさらに強くなっていた。
扉と同じように香木を透かし彫りにした衝立がいくつも並び、その向こうに人影が二つ見えている。おそらくあのどちらかが、ここリエル王国の王だろう。なんとしても、殺さなくてはならない相手がそこにいる。
緊張のあまり、思わず手を強く握りこんでしまった。小さく息を吐きながら、意識して全身の力を抜く。こんなに力んでいたら、怪しまれてしまいかねない。まずは、彼らにフィリベルト王子からの書状を渡さなくては。
けれど、どうしても足が動かない。あの向こうにリエルの王がいると思ったとたん、怖くてたまらなくなってしまったのだ。
「どうしたのかな、こちらにどうぞ」
部屋に入ったきり立ちすくんでいる私に、別の声がかかる。さっき案内の若者とやり取りしていた中年男性のものとは違う、落ち着いた優しい声だった。
その言葉と同時に、若い男性が衝立の向こうから姿を現す。おそらく二十代半ばといったところか、さっきの若者よりも豪華な衣をまとった、温和な雰囲気の男性だ。
彼は私を見て目を見張り、驚いたような顔でじっとこちらを見つめた。私もまた、彼の青い瞳に釘付けになっていた。リエルの空をそのまま切り取ったような、澄み渡った深い青。その鮮やかな色は、何故かどうしようもなく私の目を惹きつけていた。
そのまま私たちは、無言で見つめ合っていた。
「どうしたんだい、ユーグ?」
部屋の奥から、中年男性の声がする。その声に、私たちは同時に我に返った。
「いえ、何でもありません」
ユーグと呼ばれた男性はそう答え、私を導くように手を差し伸べた。首の横で緩く束ねられていた彼の黒髪が、その動きに合わせて胸元でふわりと揺れた。
彼に何か言おうとしたが、緊張で舌が張り付いてしまったように動かない。とっさにスカートをつまみ、デルト流の優雅な礼をした。少しためらいながら、彼の手を取る。私の手は少し震えていたが、彼は何も言わなかった。
そうして私は彼に連れられて、衝立の奥に足を踏み入れた。
「おや、女性の使者が来るとは聞いていたけれど、こんなに可愛らしいお嬢さんだとは」
長椅子にゆったりと寝転がった中年男性が、よいしょと掛け声をかけながら起き上がる。最初に扉の向こうから聞こえてきたのと同じ、軽やかで快活な声だった。
「初めまして、僕はマルセル。ここリエルの王だよ。気軽に名前で呼んでくれると嬉しいね」
彼はにっこりと笑うと、驚くほど愛想良く名乗ってきた。少しふっくらとした若々しい顔には、警戒心などかけらほども浮かんでいない。敵国の使者に向けるには、あまりにもふさわしくない笑みだった。
いや、それ以前に王がこんな口調でいいのだろうか。威厳のかけらもないその姿は、子供の頃から想像していた恐ろしい敵国の王の姿とは、似ても似つかない。
「父さん、彼女が困っていますよ。隣国の客人の前なのですし、もう少し王らしく振る舞ってください」
青い瞳の彼が、にこにことしている王をそうたしなめる。王を父と呼ぶ彼は、ここの王子なのだろう。
「ええっ、面倒だよ。僕はいつもこうしているじゃないか。お前は相変わらず堅苦しいねえ」
そんなとんでもないことを言いながら口をとがらせる王を尻目に、青い瞳の彼はこちらに向き直った。
「済まないね、父さんは見ての通り自由な人だから。私はユーグ、この国の王子だ」
「ユーグ、お前も人のことは言えないだろう。僕からすれば、お前の方がよっぽど変わり者だよ」
「それはありません」
「いいや、あるよ」
「……あの、私はロザリーと申します」
私を置き去りにしてにぎやかなやり取りを始めてしまった二人に名乗りながら、私はひっそりと途方に暮れていた。とにもかくにも、先行きが不安で仕方がなかった。




