29.穏やかなひととき
視察から戻ってきたとたん、私は驚くほどの退屈を持て余してしまっていた。カロリーヌ様による護身術の修行も終わったし、王宮の中は一通り見て回った。マルセル様やユーグ様は相変わらず忙しくしているようだし、ジネットやレミと話しているのも落ち着かない。
ジネットたちは私のことをこれっぽっちも疑っていない。彼女たちのあっけらかんとした笑顔を見ていると、いくつも隠し事をしている自分がとてつもなく醜いもののように思えて仕方がなかったのだ。自然と私は、人のいないところを選んで歩き回るようになっていた。
けれどそんな場所はそう多くない。比較的人の少ない外庭ですら、時折誰かしらが涼みに来ている。リエルの人間は仕事中であっても割と気軽にあちこち出歩き、休憩を取っているのだ。
この暑い気候と彼らの自由な気質のせいなのだろうが、一人になりたい今の私にとっては彼らのそんな習性はうらめしい限りだった。
そうして行き場をなくした私は、滅多に足を踏み入れない王宮の奥の方に迷い込んでいた。
王宮の中心からも、涼しい庭からも離れたこの辺りには人の気配もなく静まり返っていた。けれどここは廊下のど真ん中だし、こんなところで突っ立っていたらいつ誰に出くわすか分からない。
その辺の部屋にでももぐりこんでしまおうかと辺りを見渡していると、柱に隠れるようにして小さな階段があるのが目についた。ふと頭をもたげた好奇心に駆られるままに、階段をそっとのぞき込む。
細いらせん状の階段が、ぐるぐると上に続いている。小さな明かり取りの窓がいくつかあるだけのその空間は、明るく開放的なリエルの王宮には似つかわしくないものだった。ただそれだけに、今の私にとっては魅力的なものに見えてしまう。ためらうことなく前に進み、階段を上る。
どうにか人一人が通れるくらいの幅しかない狭い階段をひたすらに上り続けると、いきなり視界が開けた。息を呑むほど鮮やかな青が、一面に広がっている。
ここはどうやら塔の上のようだった。目の前には大きな窓が青空を切り取っていて、その下には城下町が小さく見えている。色とりどりの屋根が無秩序にひしめき合っているさまは、そのまま城下町の熱気を表しているように思えた。
耳を澄ませば、人々のざわめきが聞こえてくるような気さえする。いつかユーグ様とお忍びで出かけた時のことを思い出して、自然と笑みが浮かんできた。
「素敵……上から見ると、こんな風になっているのね……」
ため息をつきながらふと横を見た時、文字通り飛び上がった。どういう訳か、そこにはユーグ様がごろりと横たわっていたのだ。よく見ると、彼は自分の腕を枕代わりにして昼寝しているようだった。安らかな寝息が聞こえる。
一番会いたくて、でも一番会いたくない人。思わずその場を立ち去りかけて、ふと足を止める。ついうっかり、ユーグ様の寝顔に見とれてしまったのだ。
いつも私の目を釘付けにする青い瞳は静かに閉ざされていて、長く黒いまつ毛がかすかに揺れている。そっと近づいてみたが、目を覚ます気配はない。
足音を殺しながら彼のすぐ隣の床に膝をつき、眠る彼を見下ろす。ただ何も言わずに彼を見つめていられるこの時間は、とても贅沢なもののような気がした。
彼が目覚める前に立ち去らなくては、そう思いながらも中々決心がつかなかった。もう少しだけ、あと少しだけ眺めていたい。
そうしていると、突然ユーグ様が薄く目を開けた。しまった、と思ったのも束の間、彼はぼんやりとした目つきのまま手を伸ばし、私の腕をぎゅっとつかんでしまった。そしてそのまま私の手を自分の頬に当て、目を閉じて微笑む。
何が起こったか分からずにぽかんとしていると、彼はまた眠りについてしまった。私の腕をつかんだ、その姿勢のまま。
彼につかまれた手を通して、暴力的なまでの温もりが押し寄せてくる。嬉しくはあるが、ずっとこのままでは私の心臓がもたない。残念だけど、一度離れよう。
そう思って手を引っ張って抜こうとしたものの、ユーグ様はびくともしなかった。それどころか彼は眠ったままさらに私の腕を引っ張り、しっかりと抱きかかえてしまった。引っ張られた勢いで姿勢が崩れ、床に寝転ぶ羽目になる。
冷たい石の床が頬に当たっているというのに、顔が燃えるように熱かった。吐息がかかるほど近くに、ユーグ様の顔がある。まつ毛の一本一本まで数えられてしまう。
この状況は良くない。嫁入り前の令嬢としてあるまじき状況だ。いや、フィリベルト王子との婚約はもう破棄されてしまったのだし嫁に行く当てなんてもうないけれど、駄目なものは駄目だ。
すっかり混乱しながら無駄な抵抗を続けていると、ユーグ様がまた目を開けた。空と海の青を合わせたような美しい瞳が、まっすぐに私をとらえる。視界が全て青で満たされたような錯覚に、心臓がひときわ激しく高鳴った。
「……ん? どうしてここに君が……まさか、夢ではなかったのか」
そんなことをつぶやきながらも、ユーグ様はすぐに私の腕を放してくれた。そのまま身を起こし、横になっている間に乱れた髪を結び直している。珍しく、その顔が赤く染まっている。
「あ、あのっ、私何もしていませんから」
とっさに口をついて出たそんな言い訳に、ユーグ様は苦笑しながらうなずいている。
「うん、大丈夫だよ。それは分かっているから。どちらかというと謝らなければならないのは私の方だね。寝ぼけていたとはいえ、その、済まなかった」
それきり二人揃って黙り込んでしまった。どうにも気恥ずかしい沈黙が流れる。
石の床に座り込んだまま視線を泳がせていると、突然ふわりと水の匂いが鼻をかすめた。
「ああ、通り雨だね」
同じように明後日の方向を向いていたユーグ様がほっとしたように顔を上げ、窓の外を見る。さっきまで澄んだ青をたたえていた空は、重く暗い灰色によどんでいた。
ユーグ様が窓に近づき、手招きする。彼の横に並んで外を見ると、激しい雨が打ちつけるさあっという音と、むせかえるような水の香りが私を包んできた。さっきまでどこか気だるげなぬるさを帯びていた風もひんやりと冷たく、雨の音と相まってとても涼しげだ。
眼下の城下町に目をやる。通りを歩いていた人たちも軒下に避難したのだろう、道には人影がなく、建物や屋台が雨に洗われて鮮やかな色を見せていた。けれど雨の勢いはもう弱まってきていて、次第に辺りが明るくなっていく。
「ほら、見てごらん」
そう言いながら、ユーグ様が空の一点を指し示す。そちらに目をやると、大きくて見事な虹が姿を現していた。デルトにいた頃に見たものよりも、色鮮やかな気がする。
「わあ……とっても綺麗です」
思わず窓枠に手をかけ、ほんの少しだけ身を乗り出す。ユーグ様が私の腕をそっとつかんでまた苦笑した。聞き分けの悪い子供を諭すような、そんな笑顔だ。
「あまり身を乗り出すと危ないから、気をつけて」
「大丈夫です、落ちたりしません。……ユーグ様は時々、私のことを子供扱いしていませんか? 私はもう十八の、一人前の女性なんですよ」
「おや、そうだったかな」
「そうです。確かに、ユーグ様の方が少しだけ年上ですけど」
とぼけるユーグ様に、ふくれっ面をしてみせる私。二人の間にのどかな空気が流れたのもつかの間、ユーグ様の小さなつぶやきがかすかに聞こえてきた。
「……子供扱いをやめたら、私は歯止めが利かなくなってしまうかもしれないからね」
その言葉の意味を尋ねたかったけれど、きっとはぐらかされてしまうと思った。だからユーグ様に寄り添ったまま、黙って虹を見ていた。きっとこれくらいなら許されると思ったから。
お互い何も言わないまま、ただじっと虹を眺める。それは思いもかけないほど穏やかで、心満たされる時間だった。永遠にこんな時間が続けばいいのにと切望してしまうほどに。




