28.(思いは秘めたまま)
視察から戻った次の日の昼下がり、ユーグは身なりを質素なものに改めて城下町を歩いていた。しばらく王都を留守にしていたということもあって、そろそろ状況を一度確認しておきたいと、そう彼は考えたのだ。
城下町の様子について、彼は配下の者から日々報告を受けている。けれどやはり、自分の目で見て回るのが一番だ。民の生活を実際に見て、肌で感じる。そうして得られるものは、この国を治めるという彼の職務において、とても役に立っているように思えてならなかったのだ。
いずれマルセルの後を継ぎ王となれば、こうやって出歩くことも難しくなってしまう。だからユーグは、こうして折を見てはせっせと城下町に顔を出しているのだった。父がうらやましがりながら指摘しているように、この視察がユーグにとって良い気分転換になっていることは否定できなかったけれど。
久しぶりに見る城下町は、いつも通りの姿を見せていた。そのことに安堵しつつ、ユーグは大通りをゆったりと歩き続ける。そうしているうちに、彼の頭の中には様々な思いがめぐっていた。
このところ、デルト王国はずいぶんとおとなしい。以前であれば、デルトはリエルとの国境に大量の兵を展開させ、隙をついてリエルの砦を制圧しようと仕掛けてくるのが常だった。それなのに、最近では国境警備のわずかな兵のみを残して、軍を引いてしまっている。
デルトは和平の使者を送り込んできているのだし、当然といえば当然の行いなのだろう。しかしユーグも、王であるマルセルも、デルトが真に和平を望んでいるとは考えていなかった。デルトの動きには、必ず何か裏がある。決して油断してはならない。
今までのデルト側のやり口からすれば、そう思うのが当然だった。三百年近い戦いの歴史の中で、リエルは幾度となく和平を申し入れていた。国を富ませ、他国と交流するのに忙しいリエル王国は、デルトと戦うことを労力の無駄遣いだと考えていたのだ。
けれどデルトがそれに応じることは一度たりともなかった。罵倒が連ねられた書状を送りつけられたこともあったし、和平のために遣わした者が斬られたこともあった。
デルトに気を許してはならない。そう思うたび、ユーグの脳裏に浮かぶ姿があった。
鮮やかなリエルの衣をまとって嬉しそうに笑うロザリー。彼女はリエルの文化に戸惑いながらも、懸命にこちらになじもうとしていた。城下町に連れ出した時も、視察の間も、彼女はずっと目を輝かせていた。彼女は気づいていないのだろうが、そういう時の彼女はまるで子供のように純真な笑顔を見せていた。
ユーグは口元に笑みを浮かべながら、ふと自分の手を見た。光る海を一緒に見た時の彼女の手の温もりが、まだそこに残っているような気がした。幸運の瞳について知った時に彼女が浮かべた泣き笑いの表情を思い出すと、彼の胸はひどくざわめいた。あの時に触れた彼女の髪の感触が、今でもありありと思い出される。
どうしてここまで、彼女のことが気になって仕方ないのだろうか。ユーグは自問自答する。彼女に初めて会った時からのことが、次々とよみがえってくる。
彼が彼女に近づいたのは、あくまでも彼女の事情を探るためでしかなかった。けれどそうやって彼女をあざむいているのが申し訳なく思えて、ユーグは自然と彼女から距離を取るようになっていた。
王子として、リエルを治め守る者として、彼女からもっとたくさんのことを聞き出さなければならない。そう理解してはいても、彼は罪悪感に勝てなかったのだ。
どうしていいか分からずにただ苦悩するユーグに救いの手を差し伸べてくれたのは、意外にもロザリーその人だった。
彼女はユーグに避けられていることが寂しいと、そう言ってくれたのだ。そして臆病で気弱な彼女が、無謀にも一人で王宮を飛び出してしまったその理由を知った時、ユーグは驚くと共に、どうしようもないほどの愛おしさを感じていた。
彼ははっきりとは自覚していなかったが、既に彼の心の中には、彼女の儚げで優しい笑顔が居座ってしまっていたのだ。
今もなお罪悪感はちくちくと彼の胸を刺してはいたけれど、彼はそれを飲み込んでしまうことにした。彼女を苦しませることを思えば、これくらいの痛みなどものではない。
彼の口元に薄く浮かんでいた笑みが、満足げなものに変わる。すれ違う人々の目を引いていることにも気づかずに、ユーグはさらに歩き続けていた。
そうしていつしか自分の考えに没入してしまっていたユーグは、不意に現実に引き戻された。
「あっ、アンリさん、お久しぶりです」
道端の露店の中で一人の男性が手を振り、ユーグの仮の名を呼んでいる。ユーグがそちらに足を向けると、男性は人懐っこい笑みを浮かべた。
「この間はずいぶん急いでたようですが、大丈夫でしたか?」
そう言いながら、男性は大通りから枝分かれしている細い路地の入口に目をやった。ロザリーが危機にさらされたあの日、ユーグは全速力であの入口に駆け込んだ。そちらに彼女が向かっていったと教えてくれたのが、ほかでもないこの男性だったのだ。
「ああ、その節はありがとう。おかげで、探し人を無事に連れ戻すことができたよ」
「それは良かったです。あの後、スサナの傭兵が悪さをしたって騒ぎを聞いて、心配してたんですよ。アンリさんが探してた女性が、巻き込まれてないといいなあって」
どうやらこの男性は、あの日の騒ぎについて詳しく知っている訳ではないらしい。そう察したユーグは、あいまいに笑ってうなずいた。
男性も愛想良く笑い返すと、そのまま世間話を始めた。人通りの少ない時間帯ということもあって、暇を持て余しているらしい。
「最近、スサナの傭兵も増えましたね。デルトとの戦いが落ち着いてきたらしいとは聞いてるんですけど、それで暇になった傭兵がこっちで暴れるのは迷惑ですし、何とかなりませんかねえ」
その言葉にユーグは一瞬どきりとしたが、どうにか動揺を顔に出さずにあいづちを打った。彼が浮かべた笑みはほんの少し不自然なものになっていたが、幸運にも男性に気づかれることはなかった。
目の前の男性は、ユーグのことをどこぞの貴族の三男坊だとしか思っていない筈なのだ。それを分かっていても、ユーグは王子としての自分に今の言葉をぶつけられたような気がして仕方がなかった。
「なんか、デルトとの間で停戦に向けて動きがあるらしいって噂もありますよね。そうなったらいいんですけど。アンリさんは、何か知りませんか?」
「……あいにくと、私には何も言えないな。もしそうなったなら、とても喜ばしいことだとは思うけれど」
嘘にならないぎりぎりの線を見極めるかのように慎重に言葉を選びながら、ユーグがそう答える。男性はユーグの声にひそんだためらいに気づくことなく、相変わらずお喋りを続けている。
怪しまれずに済んだことに内心安堵しながら、ユーグは素知らぬ顔で雑談を続けていた。と、彼の目が露店の売り物に止まる。にぎやかに喋っていた男性が、商売人の顔になって目を輝かせた。
「それ、今人気なんです。この間アンリさんが探していた女性に、きっとよく似合うと思いますよ」
先ほどまでの鈍さとは打って変わって、男性は抜け目なく商品を勧めてくる。ユーグは売り物の一つを慎重に手に取って、じっくりと眺めた。繊細な作りをしたそれは、確かにロザリーにはよく似合うだろう。
「……そう、だね。これをもらえるかな」
ユーグはつい、そんなことを口にしていた。男性は大喜びで金を受け取り、頭を下げる。
店を立ち去ったユーグは、贈る当てのないものがしまわれた懐をそっと押さえていた。おそらく彼女は、特に理由もなくこれを渡しても気にすることはないだろう。いや、それどころかきっと、頬を染めて喜んでくれる筈だ。
それを確信していてなお、ユーグはそれを彼女に渡す決心がつかなかった。ずっと彼の胸に巣くっていた罪悪感が、またちくちくと存在感を増してくるのを、彼は感じていた。




