27.大切に思うもの
そうして私たちは波乱万丈の視察を終えて、無事に王都に戻ってきていた。四人揃ってマルセル様の執務室に顔を出すと、前以上に疲れた様子のマルセル様と、相変わらずおっとりとして可愛らしいカロリーヌ様が出迎えてくれた。
「お帰り、みんな。どうやら無事に終わったみたいだねえ。……いいなあ、僕も行きたかったなあ」
「お帰りなさい。あなた、だったら今度二人で視察に行きましょうか。わたし、行ってみたいところがあるのよ」
「いいねえ。仕事はユーグに任せて、遊びに行こうか。僕だってたまには羽を伸ばしたいしね」
「あなた、本音が漏れてるわ」
仲良くそんなことを言っている二人に、旅の間にあったことをユーグ様が手短に話していく。光る海のくだりはごく軽くさらっと流されたが、その話になった時にカロリーヌ様がジネットとうなずき合っているのが見えた。何故か二人ともどことなく満足げな顔をしていたのは、決して気のせいではないと思う。
笑顔で話を聞いていたマルセル様とカロリーヌ様だったが、港町での出来事を聞くと顔色を変えた。
「違法な取引って、本当に? しかももっと増やす気だったって? ……うわあ、危ないところだったねえ。これ以上こっちの仕事を増やされてたまるものか、だよ。ロザリーには感謝してもしきれないね」
「ロザリーが『幸福の瞳』だなんて、まあ素敵。ユーグ、彼女にちゃんとお礼は言ったの?」
両頬に手を当ててうっとりとしているカロリーヌ様に、ユーグ様がもちろんですよ、と返している。私も力いっぱいうなずいた。
帰りの馬車の中でも、ユーグ様はことあるごとに礼を言い続けていたのだ。黒い影のせいで礼を言われることになるなんて思ってもみなかった私は、ただひたすらに戸惑うことしかできなかったけれど。
その時のことを思い出してもじもじしている私に、マルセル様とカロリーヌ様は黙って温かい目を向けていた。
そうして報告も済み、ジネットと二人自室に向かう。のんびりと歩く私たちの後ろから、ぱたぱたと軽やかな足音が追いかけてきた。振り返ると、にっこりと笑ったカロリーヌ様が立っている。
「ちょっとお話したいんだけど、いいかしら」
断る理由もないので、そのまま近くの中庭に向かう。ジネットは礼儀正しく少し離れたところで待ち、私はカロリーヌ様と並んで長椅子に腰を下ろした。
「ねえ、あなたは幸福の瞳について今まで知らなかったのよね?」
「はい。港町でユーグ様に教えていただくまでは、何も」
「それで、ユーグはあなたに何て説明したの?」
カロリーヌ様がやけに食い下がってくるのを不思議に思いながら、ユーグ様の説明をできるかぎりそのまま繰り返した。私の話を聞いているカロリーヌ様の眉が、そっとひそめられる。
「もしかしたら、と思ったんだけど……やっぱりあの子、肝心なところは説明してなかったのね」
肝心なところとは何だろう、と首をかしげていると、カロリーヌ様は花が開くような見事な笑みを見せた。
「幸福の瞳っていうのはね、本人とその周囲の大切な人たちに幸福を運ぶ、そういう存在なのよ」
カロリーヌ様は、大切な人、という言葉をことさらにゆっくりと、強調して発音した。その言葉にユーグ様の顔が真っ先に浮かんでしまい、思わず息を呑む。そんな私にまた笑いかけると、カロリーヌ様は小首をかしげて意味ありげに言った。
「今回あなたが見たものは、別にあなた自身に害をなすものではなかったでしょう?」
そう指摘されて、あ、と目を見開いた。確かに、リエルの人間が違法な取引をしていたところで、デルト王国の使者でしかない私にとっては痛くもかゆくもない。ならばどうして、彼らの上に黒い影が見えたのか。
「あなたはリエルに幸福をもたらしてくれた。いえ、ユーグに、かしらね?」
どこか嬉しそうに笑いながら、カロリーヌ様が言う。彼女の笑顔を見ていると、胸が苦しくなった。
私にとってユーグ様は、そしてユーグ様が愛するリエル王国は、大切なものになってしまっていたのだ。密命という重しがずっしりと乗っていたにもかかわらず、私は自分の心を止めることができなかった。その証拠が、港町で見たあの黒い影だ。
「ねえロザリー、どうかこれからも、私たちに幸福をもたらしてちょうだいね」
また可愛らしく笑って、カロリーヌ様が去っていく。その後ろ姿に、何も声をかけることができなかった。
できることなら、私だってそうしたい。ずっとここで、大切なみんなの力になりたい。
そんなことは許さないぞと言わんばかりに、左手首の腕輪にまとわりつく黒い影がゆらりとうごめいた気がした。
自室に戻った後も気が晴れなかったので、一人でその辺をぶらぶらすることにした。王宮の中なら危険もないので、ジネットも快く送り出してくれた。
相変わらず心地良い風が吹き抜ける王宮の廊下をあてもなく歩いていると、知った顔にばったり出くわした。
「お久しぶりです、ロザリー様。なんでも先日まで、視察に出られていたと聞きました。いやあ、本当にリエルの方々は親切ですなあ」
それは私と一緒にデルトからやってきた従者の男性だった。確か彼は、ここで文官としての仕事をもらっていると聞いた覚えがある。
ちょっと見ない間に、彼はずいぶんと変わってしまっていた。仕事が充実しているのかいい表情をしているし、食事が気に入ったのか少々太ったようだ。
「ええ、場所ごとに街並みが違っていて、とても楽しかったわ。みな、親切にしてくれたし。あなたはどう、元気にしているの?」
そう問いかけると、彼はすっかり肉付きの良くなった顔に大きな笑みを浮かべた。
「はい、おかげさまでとても元気にしておりますよ。最近では、このままリエルに移住してはと言われておりまして……私には身寄りもありませんし、それもいいかもしれないと思っているところです」
なんのためらいもなくそう言ってのける彼に、ほんの少し嫉妬した。私は、口が裂けてもリエルに移住したいだなんて言うことができないから。
私の両親は、当然ながら今もなおデルトにいる。私がデルトを捨ててリエルに寝返ったなどとフィリベルト王子に思われてしまったら、両親がどんな目に合わされるか分からない。私の家は貴族の中でも最上位の公爵家だが、デルトにおける王の、そして王子の権力はとても強いのだ。
そんな思いを隠しながら、あくまでもにこやかに彼に答える。
「そうね、それもいいと思うわ。もしそうなったら、フィリベルト王子には私の方から言っておきましょう」
彼もまた、私の密命については知らない。私がまともにデルトに戻れる見込みがないことも知らない。私はリエルに残ることなどできないということも知らない。
だから私は、こんな当たり障りのないことしか言えなかった。けれど彼は嬉しそうに笑い、もしそうなったらよろしくお願いしますと言って頭を下げてきた。
弾むような足取りで去っていく彼の後ろ姿を、またしても何も言えないまま見送る。私はこうやって、秘密を飲み込んでばかりだ。
ふらふらと歩いているうちに、いつの間にか外庭に出ていた。いつかユーグ様と話したあの場所だ。今日も色とりどりの蝶が飛び交い、幻想的な雰囲気をかもしだしている。
ここなら、蝶以外に聞く者もいないだろう。小川のほとりに膝をつき、小声でつぶやく。せせらぎの音が私の声を隠してくれることを願いながら。
「ユーグ様も、この国も、とても大切で……みんなには幸せでいてもらいたいのに」
そうやって声に出してしまったら、もう止まらなくなっていた。次から次から、言葉があふれ出てくる。
「今の幸せは続かない、だって私はこの幸せを壊すためにここにいるのだから」
時折周囲に耳を澄まし、誰か来ていないか確認する。この期に及んでそんな保身に走っている自分がいらだたしかった。いっそ全てがばれてしまえば、こんな苦しみも終わりにできるかもしれないのに。そう、私の死をもって。
「できることなら私だって、ずっとここにいたいのに……」
誰も聞くことのない私の小さな叫びは、軽やかな水の音に飲み込まれて消えていった。




