25.幸福の瞳
黒い影をまとっていた二人について、ユーグ様に話し始めてしまった。もう後戻りはできない。
けれどさすがに、あれだけの言葉ではさすがのユーグ様も状況が理解できないだろう。もう少しまともな説明ができないかと必死に頭を働かせていると、今度はユーグ様が静かに口を開いた。
「どうしてそう思うのか、聞かせてもらってもいいかな」
「……私にも、分からないんです。ただその人たちを放っておいたら、良くないことが起こるかもしれません」
あの黒い影のことを伏せている以上、私に言えるのはこれくらいだった。ユーグ様の顔からすっと表情が消える。ああ、また私は失敗したのだろうか。ユーグ様もフィリベルト王子のように、私を叱り、なじるのだろうか。
冷たい恐怖に身がすくむ。ユーグ様は目を伏せると、小さな声で言った。
「……君は理由もなく誰かをおとしめるような女性ではないと思っていたのだけどね。私の見込み違いだったのかな」
その言葉に、胸が痛くなる。悲しくて苦しくて、涙がこみあげてくる。
ここで何も言わなければ、きっと誤解されてしまう。でも黒い影のことを説明したところで、信じてもらえるか分からない。下手をすれば、言い訳のための作り話だと思われてしまうかもしれない。
口を開きかけては何も言えずに黙り込み、また恐る恐る何かを言いかける。そんなことを繰り返す私を、ユーグ様はただ黙って見ていた。
そうしているうちに、私の心の中にはある種の確信のようなものが生まれ始めていた。ユーグ様は、私が自分の口で説明するのを待ってくれている。見込み違いだったかなどと言いながら、それでも私に弁明の機会を与えてくれている。
ユーグ様はフィリベルト王子とは違う。もしかしたらユーグ様は、あの黒い影について話しても、それを受け入れてくれるかもしれない。
心が軽くなった隙をつくようにして、一気に言葉を紡いだ。自分に思い悩む暇を与えてしまえば、きっとまた口ごもってしまうから。
「私には、黒い影が見えるんです。子供の頃からずっと、それにおびえて生きてきました」
突然の告白に、ユーグ様が大きく目を見開いた。彼が口を挟まないのをいいことに、次々と語り続ける。黒い影のこと、それらが何か良くないものと関わっているらしいということについて。
「リエルに来てからしばらくは、黒い影を見ることはありませんでした。初めてリエルで見た影は、城下町で私を襲った傭兵たちにまとわりついていたものです」
とても真剣な顔で私の話に耳を傾けていたユーグ様が、また少し目を見張る。
「そして、今日会った人たちの中に二人、同じような黒い影をまとった人がいたんです。今までの経験から言えば、きっとあの二人には何かがあると……そう思います」
「……そうか。確かにそんな理由があったのなら、君が言い出しにくそうにしていたのもうなずけるな」
ユーグ様の声音は、いつもの穏やかなものに戻っていた。そのことに安堵したせいか、ふっと気が緩む。気がつけば、今まで誰にも話したことのなかったことまで喋ってしまっていた。
「はい。このことを知っているのは両親だけです。よそでは喋るなと言われていましたし……私が『黒い影が見えた』というたびに、両親はどこか気味悪がっているようでした。そんなこともあって、私はこのことをずっと秘密にしていたんです」
「……『幸福の瞳』か」
唐突にユーグ様が口にした言葉に、今度は私が首をかしげる。ユーグ様はこちらをいたわるような目をしながら、ゆっくりと説明を続けた。
「『災いを退ける目』とも言うね。災いを見ることができる、周囲の者に幸福をもたらす存在だと、リエルでは古くからそう言い伝えられているよ。……私も、実際に会ったのは初めてだ。とても珍しい存在だから」
「あの……もしかして私が、その『幸福の瞳』ということなのでしょうか」
「間違いないだろうね。言い伝えの内容と、君の話は一致しているから。デルトには『幸福の瞳』の言い伝えはないのかい?」
「ありません。……だから私は、ずっとこのことを隠し続けてきたんです。黒い影が見えるなんて知られたら、きっと疎まれてしまうと思って」
「そうだったのか。……今まで、よく頑張ったね。私には想像するしかできないけれど、さぞかし苦労してきたんだろうね。さっきはひどいことを言って、済まなかった」
「いえ、その、頭を上げてください。いきなり不穏なことを言った私が悪いんですから」
そう言って立ち上がった拍子に、涙の粒が頬を転げ落ちていった。いつの間にやら、また私は泣いてしまっていたらしい。
小さな頃から、どうして私だけこんなものが見えるのだろうとずっと疑問に思っていた。その謎がやっと解けたという解放感が、胸を満たしている。そして、ユーグ様に拒絶されずに済んだという安心感も。心はとても穏やかに凪いでいるのに、どうにも涙が止まらない。
デルト王国にいた頃は、こんな風に泣くことはなかった。あの国の貴族たちは、大笑いすることも人前で泣くこともない。いつも上品に微笑んでいるだけだ。けれどここリエルでは、誰も彼もが大いに笑い、泣いている。そもそも国の頂点たる国王夫婦が、驚くほど表情豊かなのだ。
二つの国の流儀に、上下も優劣もないのだろう。でも私は、リエルのやり方を好ましく思ってしまっているようだった。頬を流れる温かい涙の感触が、なんだか愛おしいもののように感じられて仕方がない。
顔を上げたユーグ様が、私を見て目を見張る。私はぽろぽろと涙をこぼしながら、そんな彼に微笑みかけた。
ユーグ様は立ち上がると、大きな手をそっと私の頭に置く。また子供扱いされているな、と少し不満ではあったものの、手の温もりがとても心地よい。
どうせ子供扱いされるのなら、この前のように抱きしめてもらいたかったなどと図々しいことをこっそりと考えながら、そっと目を閉じた。
次の日、私たちは視察の続きと称して町長の仕事場を見せてもらっていた。これが済んだら、次は商人の組合が入っている建物を訪ねる予定だ。ちょうど、黒い影をまとっていた二人の仕事場を回る形になる。
元々の予定を変更してまでそれらの場所に足を運ぶことを提案したのはユーグ様だ。もしかしたら二人の仕事場にも黒い影があるかもしれないと、彼はそう推測したのだ。
ユーグ様が町長と話し込んでいる間に、私はジネットとレミを連れて町長の仕事場の中をぶらぶらと歩き回っていた。建物の中はたくさんの職員でにぎわっていて、私たちがほっつき歩いていてもそこまで目立ってはいないようだった。
「ロザリー様が『幸福の瞳』だったなんて、すごいですね! 話には聞いたことがありますけど、実物に会うのは初めてです。帰ったら家族に自慢していいですよね」
「レミ、声が大きいわよ。ロザリー様、それで影は見えるの?」
「ええ、昨日見たのと同じ、あの人のところに。あと、この部屋にある机と書類棚にも影が……」
周囲をはばかりながら小声でそう答えた時、レミが目を輝かせて身を乗り出してきた。
「えっ、どれですか? どの机が、あ痛っ」
レミがそこまで言ったところで、ジネットが思い切り彼の足を踏みつけた。痛みに顔をしかめる彼の耳元で、ジネットがささやく。
「だから声が大きいって言ってるのよ。黒い影が見えるってことは何か良くないものなんだから、まずはユーグ様の判断を仰がなくちゃ」
「俺にも影が見えるかなー、って思っただけなのに……」
「見える訳ないわよ。前に城下町で暴れた傭兵、あれも影をまとってたって話だけど、あなたそれに気づいた?」
「……気づきませんでした」
「ほらね。とにかく今は、ユーグ様が戻ってくるのをこのまま待つわよ」
そんな二人のやり取りを聞きながら、私は自然と微笑んでいた。今までずっと、黒い影について一人でおびえていた。誰にも相談できないまま、ただ一人でうろたえ続けてきた。
でも今は、こうやって黒い影について話すことができる。どう対応するか、一緒に考えてくれる人がいる。
たったそれだけのことがとんでもない幸福のように思えてならない。部屋の向こう側にうごめいている黒い影も、もう怖くはなかった。




