20.王妃もまた型破り
予告通り、カロリーヌ様は次の日の午前中にふらりとやってきた。妙に張り切っている。
「おはよう、ロザリー。早速だけどわたしについてきて」
ふんわりとした笑みを浮かべたと思ったら、次の瞬間にはもうきびすを返して歩きだしている。気ままな子猫のようなカロリーヌ様を、ジネットと一緒にあわてて追いかけた。
王宮の廊下を軽やかな足取りで歩いていたカロリーヌ様が、突然とある部屋にするりと入っていった。続いて足を踏み入れたそこは、何もないだだっ広い部屋だった。大きな窓がずらりと並んでいて、他の部屋よりも風通しが良い。
既に何かを察したらしいジネットは、面白がっているような苦笑しているような不思議な笑みを浮かべている。
「ユーグから聞いたのだけれど、あなたはとっても怖い目にあったんですってね。女の子に剣を向けるなんて、ひどい人たちもいたものねえ」
カロリーヌ様が言っているのは、城下町でのあの事件のことだろう。私が無言でうなずくと、カロリーヌ様は眉間にしわを寄せて両手を組み合わせた。
「何もできずにただ逃げるだけって、恐ろしいわよね。またそんなことが起こると決まった訳でもないけれど、備えておくに越したことはないわ。だから、わたしが鍛えてあげる」
きっと私は、間の抜けた顔になってしまっていただろう。カロリーヌ様の言葉がとっさに理解できず、あっけに取られることしかできなかったのだ。
「鍛える……ですか?」
「ええそうよ。わたし、これでも護身術くらいは使えるから。遠慮しないで、ね」
こちらに向かって手を差し伸べながら、カロリーヌ様がおっとりと笑う。王妃手ずから護身術の指導だなんて、やっぱりリエル王国は変わっている。
しかしカロリーヌ様はほっそりとしていてとても華奢だし、うっかり強くつかんだりしたら怪我をさせてしまいそうだ。どうしていいのか分からず戸惑っていると、ジネットが苦笑して前に進み出た。
「カロリーヌ様、ご自身がか弱く見えるのを忘れておられませんか? ロザリー様が困ってますよ」
「でも、わたし結構強いのよ?」
「ええ、私は分かっていますよ。ですから一手、お願いできますか? 実際の動きを見れば、ロザリー様も納得するでしょうから」
それはいい案ね、かかってきてちょうだいとカロリーヌ様が訳の分からないことを口走った次の瞬間、ジネットが床を蹴ってカロリーヌ様に飛び掛かった。
ジネットの手がカロリーヌ様の腕をつかむ。すぐにカロリーヌ様は腕をくるりと回し、自分の腕をつかむ手をあっさりと外してしまった。そのまま鮮やかな動きでジネットに足払いをお見舞いするが、ジネットは足を踏みかえてかわす。
そうやって二人が交互に動くさまは、一風変わった舞いのようですらあった。見とれる私の前で、二人はくるくると目まぐるしく立ち位置を変えながら動き続ける。
やがて、カロリーヌ様がジネットの首元に手を突き付けた。それを合図にしたかのように、二人の動きがぴたりと止まる。
「はい、わたしの勝ちね。……一度くらい、本気のあなたと戦ってみたいわ」
「さすがにそれは無理な相談というものですよ、カロリーヌ様」
二人は息を弾ませたまま、そんなことを話している。構えを解いたカロリーヌ様が、薄紫の衣をふわりとひるがえして私の方に向き直った。
「ね、わたし強いでしょう?」
「は、はい。……驚きました」
「大丈夫よ、すぐにあなたもこれくらい動けるようになるから」
ひときわ可愛らしく微笑むカロリーヌ様の顔には、逃がさないわよ、と書いてあるように思えた。
それから毎日、私はカロリーヌ様の指導の下、護身術の練習に明け暮れることになった。ふわふわした物腰とは裏腹に、カロリーヌ様はものを教えることについては中々に厳しい人だった。最初の数日は全身ひどい筋肉痛で歩くことすら大変だったのに、お構いなしに練習に誘ってくる。
「君がカロリーヌの相手をしてくれているおかげで、僕の方はとても平和だよ。本当にありがとう」
「母さんはああ見えて、かなり過激だからね……耐えられそうにないと思ったら、いつでも言ってくれ。私に母さんを止められるかは、保証できないけれど」
たまたま王宮の廊下で顔を合わせた時、マルセル様とユーグ様はそんなことを言っていた。やはりカロリーヌ様も、一筋縄ではいかない人らしい。
急に忙しくなった毎日の合間に、思い出したようにフィリベルト王子からの連絡があった。久しぶりに彼の声を聞いた私の胸には、ただうんざりだという思いだけが湧き起こっていた。暗殺の密命なんて、もう忘れてしまいたかったのに。
顔が見えなくて良かったと思いながら、淡く光る腕輪に向かって言葉を返す。王妃と接触できました、王とも順調に距離を縮めています、と嘘ではないが掛け値なしの事実とも言いにくい報告を淡々と口にした。王妃には毎日しごかれていて、そのせいで王に感謝されています、だなんて、まず間違いなくフィリベルト王子は信じない。
そして今回も、ユーグ様のことは一言も口にしなかった。彼のことを王子に知られたら、胸に秘めた小さな恋心が汚されてしまうような気がしたのだ。
報告が終わり、腕輪の光が消える。それを見届けて、大きく息を吐きだした。降り注いでくるのではないかと錯覚してしまいそうなほど見事な星空を見上げる。
今はまだ、私はここにいられる。でもいつか、この幸せな時間は終わってしまう。
できることなら少しでも長く、この時間が続きますように。そう祈らずにはいられなかった。
連日の特訓のかいあって、私がどうにかカロリーヌ様の動きについていけるようになってきたある日のこと。
カロリーヌ様は私を連れてマルセル様とユーグ様の執務室に向かうと、愛らしい笑みを浮かべてこう言い放った。
「ユーグ、あなたちょっと視察にいってらっしゃい。ロザリーと一緒に」
「カロリーヌ、お前……突然何を言い出すんだい。この忙しい時に」
何の前置きもなしに繰り出された話に、マルセル様が横から口を挟む。
「だって、彼女は和平のための使者で、デルトとリエルの相互理解のためにリエルを見聞きしているのでしょう? だったら、もっと別の場所も見てもらわなくちゃ駄目よ。王宮に閉じ込めっぱなしだなんて、大問題だわ」
「それは確かに、お前の言う通りだねえ。でもどうして視察なんだい?」
「視察ってことにすれば、二人とも堂々と出かけられるでしょう。ロザリーもどうにか自分の身を守れるくらいにはなったから、お出かけしても大丈夫よ」
「母さん、まさか彼女を鍛えていたのはそのために?」
「あら、今頃気づいたの?」
胸を張って言うカロリーヌ様に、ユーグ様は返す言葉もないようだった。
「ユーグ、そういうことだからあなたが彼女をしっかりエスコートするのよ」
「そうしたいのはやまやまなのですが、今は仕事があるので……」
「わたしが代わってあげるわよ。それなら問題ないでしょ」
「ううん、うらやましい……ユーグ、お前が嫌だっていうのなら、僕が喜んで代わるよ」
マルセル様がそう言うと、カロリーヌ様がにっこりと笑った。いや、よく見ると目が全く笑っていない。
「もう、あなたったら隙あらば仕事から逃げようとするんだから。たまには夫婦水入らずでお仕事っていうのもいいでしょう?」
「まあ……そうだね。ユーグの邪魔をしちゃ悪いしね」
「そうそう。あとは若い二人でゆっくりと、よ」
「父さん、母さん、一体何の話をしているんですか」
二人の会話に割り込むユーグ様の顔がどことなく赤い。珍しいその表情に目を奪われていると、カロリーヌ様がこちらをちらと見て小さく笑った。
「ふふ、こちらの話よ。ともかく、あなたがロザリーと視察に出るのはもう決まりなの。早く準備にかかりなさい」
あっという間に、カロリーヌ様の細腕によって私とユーグ様は室外に押し出されてしまった。呆然としながら隣のユーグ様を見上げると、ユーグ様もまたぽかんとしていた。
「……済まないね、母さんがまた暴走したみたいだ」
「いえ、その……視察、楽しみです」
申し訳なさそうに目を細めるユーグ様に、そう答えて笑いかけた。確かにカロリーヌ様の提案には驚いたが、ユーグ様と出かけられることは純粋に嬉しかったから。