18.小さな恋心
色とりどりの蝶が飛び交う外庭で、ユーグ様は私の手を取って何かを言おうとしていた。私は彼の声にうっとりと聞きほれながら、じっと言葉の続きを待っていた。
けれど、結局その言葉を聞くことはできなかった。ちょうどその時、すぐ近くで短い叫び声が上がったのだ。同時に、何か大きなものが水に落ちたようなぼちゃんという音がする。
ユーグ様はすぐに身構え、片膝をついて私を背にかばう。緊張しながら様子をうかがう私たちの耳に、じきに明るい声が飛び込んできた。
「もう、何するんですか陛下。俺たちがいるの、ばれちゃいましたよ」
「まあまあ。君のおかげで僕は濡れずに済んだしね。王宮の兵士としては本望だとでも思ってよ」
そんなことを話しながらこちらにやってくるのは、マルセル様とレミだった。レミはまだ城下町にいた時のままの服装だったが、全身ずぶ濡れだった。さっきの水音は、レミが小川に落ちた音なのだろう。
「父さん、レミ? どうしてここに」
「俺はさっきの城下町での事件について、報告しに来たんです。ただそうしたら何故か、陛下がこそこそと物陰に隠れて、お二人のことを覗いてるところに出くわしちゃったんですよね」
「レミ、人のことを不審者扱いしないで欲しいなあ。これでも一応、君の主なんだけど」
「十分すぎるくらいに怪しかったです。それで陛下が、今いいところだから邪魔するなって言って、俺のことも物陰に引きずり込んだんですよ。あげく足を滑らして転びそうになって、その勢いで俺を川に突き落とすし……」
「ずっと中腰だったから、足がしびれちゃったんだよ。不可抗力だね」
「何をしてるんですか、父さん……」
ユーグ様が警戒を解いて、途方に暮れたように頭を抱える。一方のマルセル様はとても楽しそうだった。
「だって、なんだかお前たち、いい感じだったじゃないか。邪魔するなんて野暮だよ」
いい感じ。傍からはそんな風に見えていたのか。嬉しいと思ってしまう気持ちと、遅れてやってきた恥ずかしさが一度に押し寄せて、頭が真っ白になる。
「お前たちのことはジネットから聞いてるよ。ロザリーの元気がないらしいって聞いて、僕も心配してたんだ。だから、忙しい職務から逃げ出してお前たちを見守って……」
「逃げ出してどうするんですか。そろそろ母さんも外交から帰ってきますし、ばれたら叱られますよ」
「あのー、済みませーん。報告だけしちゃっていいですか? 俺、暇じゃないんですよ」
もう半分くらい乾いてきた衣が体に張りつくのか、あちこちを引っ張りながらレミが割り込む。全員の注目が集まったところで、彼は胸を張り言葉を続けた。
「結論から言うと、ロザリー様を襲ったのはスサナの傭兵でした。まあ、見たまんまでしたね。リエルとデルトが一時休戦になって暇を持て余したせいで、王都まで出てきたみたいです」
その国の名前にはかすかに聞き覚えがある。私の祖国であるデルト王国とは国交がない、海の向こうの大きな島国だったと思う。
「やはり、そうだったか。あんな不届き者を寄こしてこないよう、一度スサナにはきつく言っておく必要があるな」
「そうだねえ。レミ、その連中の身柄をこちらに渡してもらえるかな。今度スサナと交渉する時の、いい材料になるからね。うちの城下町で騒ぎを起こした分の落とし前は、上につけさせよう」
「ただ、そうすると城下町での出来事について、彼女の証言も必要になると思うのですが……」
にやりと不敵に笑うマルセル様とは対照的に、ユーグ様はどこか浮かない顔だ。
「あれ、もうお前が聞き出したんじゃないのかい? 城下町からずっと、彼女と一緒だったんだろう?」
「いいえ、まだ尋ねていませんよ。あんなに恐ろしい思いをしたばかりの彼女に、事件のことを語らせるのは酷だと思いましたので」
そのまま二人の目が同時にこちらを向いた。さっきのことを思い出そうとしたとたん、目の前が真っ暗になったような気がした。思い出すだけで、怖い。
怖がっていてはいけない、と自分を叱咤する。どうやら二人は、私の証言を必要としているらしい。私の言葉が、二人の役に立つのだ。しっかりと地面を踏みしめ、大きく息を吸う。
「私の証言が必要なら、お話しします。どうぞ、役に立ててください」
ユーグ様がはっと目を見開く。そんな彼に小さくうなずきかけてから、私は順を追って話し始めた。あの男たちに出くわしてからユーグ様に救われるまでの、一部始終を。
よみがえる恐怖に身震いしながら、腹に力を込めて話し続ける。どうにか話し終えた時には、ずっと握りしめていた手が固くこわばってしまっていた。気が抜けた拍子によろめいて倒れそうになったが、すぐにユーグ様が支えてくれた。
「……君を臆病と言ったことを、訂正させてくれ。君は私が思っていたよりも、ずっと強く気丈だった」
「ほうほう。見直したということだね?」
静かにささやくユーグ様に、すかさずマルセル様が合いの手を入れる。私の肩を支えているユーグ様の手に、わずかに力がこもった。
「茶化さないでください、父さん。それよりも、今の証言を早くまとめてしまいましょう」
「お前は仕事熱心だねえ。僕よりも、よっぽど王に向いているよ」
「それはもう聞き飽きました。私は彼女を部屋まで送っていきますから、父さんは先に始めていてください」
言うが早いか、ユーグ様は私の肩を抱いたまま素早く方向を変え、建物の方に向かっていく。
「たまには僕の愚痴も聞いておくれよユーグ……って、相変わらず行動が早いなあ。仕方ない、レミ、僕の話を聞いてくれないかな」
「俺もまだ仕事が残ってるんで、全力で辞退します。ほら陛下、仕事がまだ山積みなんですよね?」
「どうしてみんな、そんなに働き者なんだろうねえ……」
そんなにぎやかな会話が、後ろから響いてきていた。
ユーグ様は何も言わずに私を自室まで送り届けると、優しく笑ってすぐに去っていった。私の証言をまとめるという仕事に気を取られているのかまた上の空だったけれど、それを寂しいとはもう思わなかった。
その日の夜遅く、私は眠れないまま夜空を眺めていた。なぜかリエルでは、星すらも鮮やかに生き生きとして見える。
昼間、ユーグ様は何を言おうとしたのだろう。気丈だと褒めてもらえたのは嬉しかった。今、ユーグ様は何をしているのだろう。まだ仕事だろうか。それとももう眠りについているだろうか。もしかしたら、私と同じように夜空を眺めているかもしれない。
気づけばそんな風に、ユーグ様のことばかり考えていた。どういうことだろうと戸惑ったが、それは形だけのことだった。その理由に、心当たりがなくもなかったから。
きっと私は、ユーグ様に惹かれ始めているのだ。
デルト王国では、ほとんどの貴族は親が決めた相手と結婚する。ましてや私は、貴族の中でも最上位である公爵家の娘だった。
だから恋愛なんてものとは一生縁がないのだと、子供の頃からそう信じ切っていた。恋だの愛だのといったことに憧れはあったけれど、決して手の届かないものだと思っていた。ちょうど、夜空に輝く星みたいなものだ。
そうして決まった婚約者、あのフィリベルト王子は、全く惹かれるところのない人だった。仕方のないことだとは思っていたけれど、子供の頃から秘めていた綺麗な夢が壊れてしまったように思えて、少しだけ寂しかった。
ため息をつきながらもう一度夜空を見上げる。きらきらとにぎやかに輝く星々を従えた深い青に、ユーグ様の瞳を思い出す。鼓動が少しずつ速くなっていく。
運命とは皮肉なものだと、高鳴る胸をそっと押さえながら目を細めた。
黒い影をきっかけとして望まぬ婚約は破棄され、ずっと恐れ続けていた敵国に放り込まれた。けれどそこは聞かされていたのとはまるで違っていて、みんな親切で優しかった。そうして私はこの敵国で、生まれて初めての恋を知った。
胸がきゅっと苦しくなる。けれどそれは、不快な感覚ではなかった。むしろ、喜びに近い。
できることならずっと、この感覚に浸っていたかった。そんな思いを追いやって、大きく息を吐きだす。
今の私には、逃げることすら許されない。左手首の腕輪にまといつく黒い影が、そう言っているように思えた。
こんな思いを知らなければ、もっと簡単に密命を果たすこともできたのかもしれない。けれど胸に宿った小さな炎は消えることなく、静かに私の心を温め続けていた。