16.二人の帰り道
ユーグ様の胸にすがって泣いていると、遠くから人の気配が近づいてきた。男たちの仲間だろうか、と身をすくめる私の肩を、ユーグ様がぽんぽんと優しく叩く。大丈夫、となだめてくれているような動きに、こわばっていた肩の力が抜けていくのが感じられた。
「アンリ様、どこですか!?」
「ああ、ここだ」
聞こえてきた声にユーグ様が返事をする。ここは城下町だし、彼はお忍びの方の身分で来ているのだろう。
そう考えた時、かすかな違和感に気がついた。泣くことも忘れて顔を上げると、すぐ目の前にユーグ様のつややかな黒い髪が垂れ下がっているのが見えた。
髪型が違う。前に城下町に来た時のユーグ様は、髪を頭の後ろの方で結い直していた。でも今は、首の横で緩やかに結わえて胸元に垂らした、いつもの髪型のままだ。服も、いつもの豪華なもののまま。
私の視線に気づいたのか、ユーグ様が苦笑する。近づいてくる足音の方に目をやると、小声でささやいた。
「急いで飛び出してきたからね、髪や服を直している暇がなかったんだ」
そうやって飛び出してきたのは、もしかして私を探すためなのだろうか。そう考えると、不思議なほど胸が浮き立った。口を開きかけた時、誰かが近くまでやってきた。
「ああ、やっと追いつきました。あっ、ロザリー様! 良かった、ご無事で」
全身で安堵を表現しながら近づいてきたのは、なんとレミだった。ずっと走っていたかのように、大きく肩で息をしている。
「もう、俺が着替える間くらい待っててくださいよ、アンリ様」
いつもは王宮の兵士としての制服をまとっているレミは、今は比較的質素ななりをしていた。自分で言っているように、着替えてからこちらに来たのだろう。王宮の兵士がこんなところにいたら、さすがに目立ってしまう。
ユーグ様はそんな彼に優しい目を向けると、少しばかり言い出しにくそうに口を開いた。
「君を待たなくて正解だったよ。あと少し到着が遅れれば、彼女は無事では済まなかっただろうから」
「えっ、そうだったんですか!?」
レミが驚きに目を見張りながらこちらを見る。泣きはらした私の目に気づいたのだろう、気まずそうに顔を伏せた。そのまま倒れている男に目をやる。見る見るうちに、彼は悲しそうにうなだれてしまった。
「……済みません、ロザリー様。俺、間に合わなかったみたいですね」
「いいえ、来てくれて嬉しいわ」
さっきまで泣いていたせいなのか、私の声はまだ濡れていた。恥ずかしくなってうつむこうとすると、すぐ目の前にユーグ様の胸が迫ってくる。
今頃になって、私は自分が置かれた状況に気がついた。細い裏路地とはいえ公の場所で、男性の胸元にすがりついて大泣きした。危機一髪のところを救われたからだとはいえ、あまりにもはしたない行いではなかったか。
さらに間の悪いことに、レミの後を追いかけるようにして次々と人がやってきた。街の警備を担当する兵士たちだ。彼らは警戒しながらも小走りでこちらに近づき、倒れている男を見て驚きを顔に浮かべる。
「ああ、いいところに。彼らは私の知り合いの令嬢に剣を向けていたから、気絶させておいたよ。少しばかり手元が狂ってしまったかもしれないけど」
恥ずかしさのあまりに真っ赤になる私をそっと抱き寄せながら、ユーグ様がわずかに怒りを含んだ声で兵士たちに話しかけている。
こんなことをされたら余計に恥ずかしい、と抵抗しようとして、思い止まる。こうやっておとなしくしていれば、これ以上誰かに情けない顔を見られなくて済む。
「これは……おそらく傭兵ですね。全く、リエルの民に危害をなすとは不届きな」
苦々しげにつぶやいた兵士の言葉に、ユーグ様の体がこわばった。けれどそれも一瞬のことで、すぐに何事もなかったかのように受け答えをしている。
「まったくだ。あとは任せていいかな。私は彼女を家まで送り届けてくるから。レミ、彼らに協力してやってくれ」
「分かりました、アンリ様。後で報告しますね」
レミがユーグ様のお忍びに同行することがあるというのは事実らしい。彼はよどみなくユーグ様の偽名を口にし、王子に対するものとはとても思えないほど大雑把な敬礼をしてみせていた。
「行こうか、ロザリー。君もこんなところからは一刻も早く離れたいだろう」
言うなりくるりと向きを変えて、ユーグ様は私の肩を抱いたまま路地の奥の方に歩き出す。進む方向が違うんじゃないか、とは思ったが、とにかくここを離れたいのも確かだった。
だから何も言わず、背を押されるまま進むことにした。背後に聞こえるレミと兵士たちの話し声が、少しずつ小さくなっていくのを感じながら。
ユーグ様は少しも迷うことなく、細い路地をひたすらに歩き続けた。時々角を曲がり、しばらく道なりに進んではまた曲がる。どうして大通りに出ないのだろう、と首をかしげていると、すぐ横からユーグ様の声がした。
「表の通りに出ないのが気になっているみたいだね。この服装は目立つから、できるだけ人目を避けているんだよ。私はついさっきまで君を探してたくさんの人に聞き込みをしていたから、今さらかもしれないけれど」
苦笑するようなそんな声が聞こえてきた後、ユーグ様が足を止めてこちらに笑いかけてきた。
「それに、君もあまり人目につきたくないだろうと思ったんだ。……遅くなって、済まなかった。恐ろしい思いをさせてしまったね」
悲しそうに目を伏せるユーグ様を見ていたら、思いもかけない言葉が口からこぼれ出ていた。
「ユーグ様は……私を、探しに来てくださったんですか? ずっと避けられていると思っていたのに」
自分が切実な声で口にした言葉に、自分で驚く。そんなことを言うつもりはなかったのに。この場での正解は、助けてくださってありがとうございます、だ。そう言って微笑みかけるのが、淑女として一番無難な振る舞いだ。
しかし言ってしまったものはどうしようもない。うろたえる私をよそに、ユーグ様は考え込んでしまった。このところ王宮でよく見せていた、あの表情だ。
「……そうか。君はそんな風に感じていたのか。気づかなくて、済まなかったね」
また謝られてしまった。どうしていいか分からないまま黙っていると、ユーグ様が言葉を選びながらゆっくりと話し出した。
「別に、君の事を避けていた訳ではないんだ。ただ少し、悩み事があってね。それでつい、上の空になっていたのかもしれない」
「悩み事、ですか? ……私では、力になれませんか」
また口が滑った。今日の私は、どうかしている。公爵家の令嬢として、そして未来の王妃として厳しくしつけられてきた私は、言葉の持つ重みについてはたっぷりと教え込まれている。それなのにさっきから、揺れ動く心のままに素直な言葉がぽんぽんと飛び出てしまう。
けれどユーグ様の反応は意外なものだった。彼は一瞬驚きに目を見張った後、悲しそうに眉を下げて笑い、謎めいた言葉を返してきたのだ。とても温かく、ほのかに甘い声で。
「ほかならぬ君にそう言われてしまうとは、少し複雑だね。でも、嬉しいよ。ありがとう」
こんなに優しい目で見つめられたのはいつぶりだろうか。もしかしたら初めてかもしれない。彼の鮮やかで深い青をした瞳から目が離せないまま、そんなことを考える。
「私は君を避けたりしない。君とちゃんと向き合うと、約束するよ」
「……はい。ありがとう、ございます」
一気に頬が熱くなるのを感じながら、ぎこちなくそう答える。そんな私の姿がユーグ様の目にどう映っていたのかは分からないが、少なくとも悪いものではなかったのだろう。だって、ユーグ様は素晴らしく穏やかな微笑みで答えてくれたのだから。
「話したいことも聞きたいこともあるけれど、まずはいったん帰ろう。それまで、待ってくれるね?」
「はい!」
ユーグ様がいてくれれば怖いものなんてないけれど、ここはまだ城下町だ。人に聞かれては困る話もある。だからまずは、王宮に帰ろう。
すっと背筋を伸ばすと、ユーグ様と並んで歩きだした。頭上に広がる青い空は、私の心を映したかのように晴れ晴れと澄み渡っていた。