14.一人で街へ
「おかえりなさいロザリー様、今日は……あら、なんだか顔が暗くないかしら?」
マルセル様たちとの話を終えて部屋に戻った私を、いつも通りに陽気なジネットが出迎えてくれる。しかし彼女は私の顔を見るなり首をかしげ、眉をひそめた。思わず自分の頬に触れながら、彼女に尋ねる。
「私、そんなに暗い顔をしているの?」
「ええ。私でよければ、話、聞くわよ?」
どこかうずうずした様子でジネットが顔を近づけてくる。駄目だ、話せない。密命のことも、デルトのことも。
首を横に振りかけた時、一つだけ話せることが残っていたことに気がついた。きっと答えは出ないだろうけど、話せば楽になるかもしれない。
そう考えて、恐る恐る口を開く。
「……ユーグ様のことなのだけれど」
次の瞬間、ジネットが一気に距離を詰めてきた。私の顔のすぐ前で、期待に満ちた目のジネットがわくわくした様子で次の言葉を待っている。
話題の選択を間違えた気がしたが、今さら引き返すこともできない。覚悟を決めて、ゆっくりと言葉を続ける。
「……私、ユーグ様に避けられているような気がして……知らないうちに、何かしてしまったのかなって」
けれど予想に反して、ジネットからは何の返事も得られなかった。彼女はついと横を向くと、口元に手を当てて何事か低くつぶやいている。眉間には深いしわが刻まれていた。
「……ユーグ様が真面目で堅物なのは嫌というほど分かってたけど、こういう感じでこじれるとは予想外だったわ……あげく、彼女をしょんぼりさせるとか……ああ、じれったいったらないわ」
こじれるとはいったい何のことを指しているのだろう。彼女が何を言っているのか分からずただぽかんとしていると、ジネットは何かをごまかすように鮮やかに、そして可愛らしく笑った。
「ひとまず、気にしなくても大丈夫だと思うわ。いずれ落ち着くでしょうし……もしいつまでも腑抜けたままならこちらで何とかするから、心配しないで」
だから、いったい何をどう何とかするというのだろう。気にはなったが、尋ねないでおくことにした。ユーグ様については私よりずっと詳しいジネットがそう言うのだから、彼女に任せておけばいいのだろう。
その代わりとばかりに、ずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「あの、ジネットはユーグ様とどういう関係なの? 女官長と王子にしては、ずいぶんと親しいような気がするのだけれど」
「あら、気になってるの? 心配しなくても大丈夫よ」
彼女は意味ありげに笑い、色っぽく片目をつぶる。別に私は、何も心配などしていないのに。
「私の弟が、ユーグ様の乳兄弟なの。弟は仕事で王宮にはいないんだけどね。そんな縁で、ユーグ様のことは弟みたいに思ってるのよ」
弟みたいなもの。その言葉に、何故か思わず安堵のため息が漏れた。そんな私を見てジネットがにやにやと笑っている。
「……どうして笑っているの?」
「うふふ、内緒。本当、あなたって分かりやすくていいわ」
上機嫌でくるりと背を向け、今日の晩餐について話し始めるジネットの姿を、私はただ戸惑いながら眺めるしかできなかった。
その後も、ユーグ様は相変わらず様子がおかしかった。王宮の廊下で出会っても、どこか申し訳なさそうな顔をして、二、三言葉を交わすだけで去っていく。どうにかして引き留めたいと思っても、何も言葉が出なかった。
おまけにマルセル様もまた忙しくなってしまったらしく、こちらとは顔を合わせることすらできない。無理強いをして怪しまれてしまっては元も子もないので、ただひたすら待つしかできなかった。
そんな日々が数日続いた後、私はふらりと城門の方に向かっていた。呼び止める門番に、少しその辺りを歩いてくるだけだからと言い置いて、たった一人で城門を出た。
特に引き留められもしなかったし、供を連れていけと言われることもなかった。やっぱりリエル王国は、かなり変わっている。でも今は、そのことがありがたかった。今は一人になりたい気分だったから。
王宮の外に用事があった訳ではない。ただ本当に、少しだけ外が見たかったのだ。王宮の中にいると、どうしても気が重くなってしまう。ユーグ様と話せないこと、マルセル様に近づけないこと、本心では暗殺などしたくないということ。それらの悩みが頭の中でごちゃごちゃになってしまって、苦しくて仕方がなかったのだ。
頭上に広がる空は今日も青く、その鮮やかな青はどうしようもなくユーグ様のことを思い出させた。また少し、気が重くなる。
辺りを見渡すと、貴族たちの屋敷が立ち並んでいるのが見える。前に見た時から何一つ変わらない、色鮮やかで優美な、とても風変わりで目を引く建物に目をやって、そっとため息をつく。
王宮にやってきた次の日、ユーグ様に教えてもらった色々なことが頭を駆け巡る。あの時は、本当に楽しかった。何もかもが新鮮で、驚くほど美しくて。色々なものに目を奪われては立ち止まる私を、ユーグ様は笑いながら見守ってくれていた。
にぎやかで華やかな景色の中、言いようのない寂しさがじわじわと胸を凍らせていく。その冷たさから逃げるように、私は小走りでその場を立ち去った。
何も考えたくなくてがむしゃらに足を進めているうちに、気づけば城下町でも人通りの多い、にぎやかな通りに出ていた。両側を埋めるようにぎっしりと店が並び、道いっぱいに人がひしめいている。
ちょうどお昼時ということもあって、人の流れは少し緩やかになっている。他人にぶつからないように気をつけながら、通りをぶらぶらと歩いた。積極的に声をかけてくる店主たちを、愛想笑いでやり過ごす。
リエルのお金は持っていないから、買い物はできない。それでも、色とりどりの品物が積み上げられた店を眺めて歩くのはそれなりに楽しかった。ユーグ様がいてくれたら、もっと楽しかっただろうか。そう思ったとたん、また少し気分が暗くなる。
どうして、ユーグ様は私を避けるようになったのだろうか。ジネットは気にしなくていいと言っていたけれど、だったらいつか、また前のように一緒に出かけられるのだろうか。
フィリベルト王子に密命を下されたあの日からずっと、恐ろしい密命のことがいつも胸に重くのしかかっていた。けれど、ユーグ様と話している間だけは全部忘れていられたのだ。彼は敵国リエルの王子で、私が殺さなければならない人の息子だというのに、私は自分勝手にも彼の笑顔に癒されていた。
自分の図々しさに呆れながらとぼとぼと歩いているうちに、うっかり細い路地に迷い込んでしまっていた。後ろから、にぎやかな人の声が遠く聞こえてくる。迷子になる前に、あちらに戻ろう。
そうきびすを返しかけた私の目に、なじみのある、しかし恐ろしいものが飛び込んできた。細い路地のさらに奥の方に、異様な風体の二人組が立っていた。彼らには、あの黒い影がまとわりついていたのだ。
思わず動きを止め、その二人をまじまじと見てしまった。それが悪かったのか、二人がにやりと笑いながらこちらに近づいてくる。
あの二人に関わってはいけない。本能的にそう感じた私が逃げようとするよりも先に、うちの一人が機敏に動き、私の行く手を塞いでいた。もう一人の声が、すぐ後ろから聞こえる。
「どうして逃げるんだ、嬢ちゃん? 人の顔を見るなり逃げるなんて、失礼だと思わないのかよ?」
「こんなところまでやってくるなんて、暇なんだろ? 俺たちと遊ぼうぜ」
あっという間に、私は行くことも戻ることもできなくなっていた。隙をついて大通りの方に逃げ出そうとしたものの、抵抗も空しく腕をつかまれてしまった。男の太い指ががっしりと腕に食い込んで、もう逃げようにも逃げられない。
「隙をつこうだなんて、俺たちもなめられたもんだな。怪我をしたくないなら、おとなしくしてろや」
そんな恐ろしい脅し文句に、私はおびえて立ちすくむしかできなかった。