13.正反対の言い伝え
久しぶりに訪れたマルセル様の部屋は、この間と同じ涼やかな香木の香りで満ちていた。
「やあロザリー、やっと君と会う時間が取れたよ。十日ぶりかな? ともかく、君が元気にしているようで良かった」
前と同じ福々しい笑顔で、マルセル様が出迎えてくれた。しかしそのふっくらとした顔には、わずかに疲れが見えている。彼に勧められるまま、空いた長椅子に腰を下ろす。
部屋に置かれた別の長椅子にはユーグ様が座っていて、どこか物憂げな目でこちらに笑いかけてきた。けれどすぐに彼は目を伏せ、ゆっくりと指を組んだ。わずかに目尻の下がった穏やかな顔に、何かを考えこんでいるかのような重々しい表情が浮かんでいる。
気のせいか、日に日にユーグ様の表情が冴えなくなっているように思える。一緒に城下町に行った時にはあれこれと色々なことを話してくれていたのに、このところいつも上の空だ。最初の頃は楽しく弾んでいた会話も、どこかぎこちない。
今も、彼はほとんどこちらを見ようとしない。もしかしたら私は避けられているのかもしれない。その可能性に思い当たった時、胸がちくりと痛んだ。一瞬死の呪いに何かが起こったのかと焦ったが、どうやらそちらとは関係がないようだった。
そのことに安堵しながらもそっと胸を押さえる。心を満たしている何とも言えない不可解な感情に、思わず首をかしげた。
彼にどう思われていようと、私の密命にはこれっぽっちも関係がない。むしろ、密命が果たされてしまえば、彼はどうしようもなく傷つくことになるだろう。かつてこの部屋で見たユーグ様とマルセル様の仲のいいやり取りが、嫌でも思い出される。
そもそも、私は彼にとって敵でしかないのだ。なのにどうして、こんなにも辛いと思ってしまうのだろう。ユーグ様の穏やかで優しい笑顔をもう一度見たいと、そんなことを切望してしまうのだろう。
もやもやした思いを断ち切るようにユーグ様から目をそらし、マルセル様を見つめた。私が殺さなくてはならない相手。今は少しでも彼に近づき、情報を集めなくては。
「お招きありがとうございます。それで、今日は何のお話でしょうか」
「うん、それなんだけどね。君の使命に関わる話がしたいなって、そう思っているんだよ」
飛び上がらずに済んだのは幸運だった。それくらい私は驚いていた。私の使命、と言われた時に、まさか密命のことがばれてしまったのか、と考えてしまったのだ。
「ほら、僕たちは二国の和平に向けてこうして交流している訳だしね?」
どうやら怪しまれずに済んだらしく、マルセル様は笑顔を全く崩さないままそう言った。ほっと息をついた拍子に、またユーグ様と一瞬目が合った。彼がどこか悲しげな表情をしていたのは、私の気のせいだったろうか。
「どうもね、二国の間には色々と行き違いがあるんじゃないかって、僕は思うんだ」
そんな私たちの様子に気づいているのかいないのか、マルセル様は相変わらずにこやかに話し続けている。
「例えば、我がリエル王国とデルト王国が争うことになったきっかけだけど、そちらではどう言い伝えられているのかな?」
「あ、はい。その、かなりそちらには不愉快な言葉になってしまうとは思うのですが……」
「構わないよ。そのまま言ってごらん」
「……リエルの人間は、かつて我がデルトから豊かな土地を奪ったこそ泥だと、だから奴らを打ち滅ぼすことこそが、我らの悲願なのだと……私たちはそう、教わっています」
暗記するくらい言い聞かされた言葉を口にしているうちに、恥ずかしさに声が小さくなる。目の前の二人がこそ泥の子孫だなんて、到底思えなかったから。
「なるほど、そちらではそんな風に言われているんだね。僕たちからしてみれば、言いがかりに近いんだけど」
「五百年ほど前まで、リエルはデルト王国の一地方だったんだ。けれど当時既に、リエルはほぼ独立した国に近い状態だった。当時の支配者たちの話し合いにより、円満にリエルは独立したんだよ。リエルの王宮の宝物庫には、その時に取り交わした書状が残されている」
ユーグ様がゆったりと、マルセル様の言葉を引き継ぐ。彼の言葉こそが真実なのだと、そう無邪気に信じることができれば良かったのに、という思いが胸をまたちくりと刺した。
「だからね、戦に関しても僕たちの方から仕掛けることなんて滅多にないんだ。デルトがちょくちょく攻めてくるから、仕方なく国境の守りを固めてはいるけれどね」
その言葉に、思い出したくもない記憶が勝手によみがえる。かつてフィリベルト王子が、意気揚々と戦の準備をしていたことを。それも、一度や二度のことではなかった。
そうして出陣から戻るたびに、彼は戦の成り行きとそこで上げた成果について詳しく語ってくれたものだが、耳を塞ぎたくなるくらい私はそれらの話が大嫌いだった。どうして人が死ぬ話について上機嫌で語れるのか、その神経が全く理解できなかった。
「何か、辛いことを思い出させてしまったのかな」
つい暗い顔をしていたのだろう、ユーグ様が目線をこちらに向けた。鮮やかな空の青を写し取ったような瞳に、前と変わらない穏やかさが浮かんでいる。ただそれだけのことが、とても嬉しかった。
つい微笑んでしまいそうになるのを抑えながら、精いっぱい深刻な顔で短く答える。
「いえ、その……デルトが戦を仕掛けている、という言葉に心当たりがあったので」
フィリベルト王子のことは出さない方がいいだろう。なんといっても今の私は、彼の命によって送り出された和平の使者なのだから。彼の真意を知られてしまったら、私の密命についてもばれてしまいかねない。
そうやって隠し事を増やしている自分に嫌気が差していたが、同時にユーグ様の言葉が嬉しいと思ってしまっていた。何を思い出していたかなんて絶対に言えないが、それでも彼が私のことを案じてくれたことが、ただひたすらに嬉しかった。
私たちはそれからしばらく世間話に興じていた。相変わらずユーグ様は口数が少なかったけれど、その分を埋め合わせるかのようにマルセル様が熱心に喋り続けていた。
ユーグ様がやたらと私に良くしてくれていた理由も分からないけれど、マルセル様が妙に友好的であけっぴろげな理由も分からない。彼らのことを知れば知るほど、余計に分からないことが増えているような、そんな気さえする。
けれどこれだけ友好的なのであれば、うまく頼み込んで近づくことで暗殺の機会を得ることができるかもしれない。そうして密命を果たしてしまえば、私はデルト王国に戻れる。彼らのことで思い悩まなくても済む。もやもやした思いも、ちくちくする胸の痛みも、全部忘れてしまえばいい。
身振り手振りたっぷりに話しているマルセル様の笑顔を見ながら、そんな考えをあわてて打ち消した。焦ってはならない。ただマルセル様を暗殺すればいいというものではない。少なくともその後、国境までどうにかして逃げなくてはならないのだ。
暗殺の手はずを整えながら、逃げる算段もつけておく。それはとても、難しい課題のように思われた。しかもこのことについて考えるたび、頭の中にユーグ様の面影がちらついて、どうしようもなく胸が苦しくなる。
夕方になって私がマルセル様の部屋を出た時、私の胸の中には様々な思いが渦巻いてしまっていた。吐き出すことも飲み込むこともできないその思いは、ずっしりと私の胸にのしかかっていた。