12.暗殺と和平
私がリエル王国に来て数日が経った。特にすることもないので毎日王宮の中を歩き、色々なものを見て回ったり、出会った人に話を聞いたりしている。
おかげで、少しずつではあるけれどリエルについても詳しくなってきたと思う。表向きの目的、両国の理解のための情報収集は着実に進んでいた。
けれど裏の目的、マルセル様の暗殺については全く進んでいなかった。私は武器の類は全く扱えないし、腕力もない。人を殺めようと思ったらフィリベルト王子から渡されたペンダントに隠されている毒を使うしかないだろう。
となると、次はどうやってこの毒を盛るかという問題になる。厨房に入ることはできるが、マルセル様の料理にだけ毒を入れる方法はどうやっても思いつかなかった。
結局はマルセル様に近づいて、彼の隙をついて手近な飲み物か何かに毒を入れるほかないようだった。けれど彼も王だけあって忙しいらしく、最初の日以来会うこともできなかったのだ。
もっとも私は、そのことに安堵してしまっていた。このままの状態が続けば、私はマルセル様を殺さずに済むし、フィリベルト王子に殺されずに済む。
けれどいずれまた、フィリベルト王子は魔法の腕輪を通じて状況を尋ねてくるだろう。その時に「何も進んでおりません」などと返事をしたら、きっと彼は怒り狂う。そのことを思うと、今から気が重い。
そんな私の重い気分を表すかのように、ペンダントと腕輪は相変わらずぼんやりとした黒い影をまとっていた。ここリエル王国に来てから、私が目にしている唯一の黒い影。
敵国に滞在している今の私にとって唯一危険なものが、よりによって祖国デルトから持ち込んだものだなんて、皮肉にもほどがある。
リエルの色鮮やかな衣をはためかせて王宮をふらふらと歩きながら、誰にも気づかれないようにそっとため息をつく。窓の外に広がる空は今日も快晴で、ユーグ様の瞳を思わせる澄んだ青一色に染まっていた。
そうやって落ち着かない日々を過ごしていたある日、私は王宮の廊下で見知った顔と再会した。
「ロザリー様、お久しぶりです」
私の名を呼びながらにこやかに近づいてきた中年男性が誰なのか、一瞬分からなかった。どこかで見たような気がする、そう思いながら立ち止まる私の目の前で、彼は大仰なお辞儀をした。デルト風の、優雅でゆったりとした動きだ。
その仕草を見てようやっと、彼の正体に気がついた。彼は、私と一緒にリエルにやってきた従者の男性だ。彼もまた王宮でもてなされているとは聞いていたけれど、実際に顔を合わせるのは数日ぶりだ。
そもそもの話、使者の従者を別口でもてなしているというのも妙だとは思う。けれどこのリエルの王宮は何から何まで型破りなことばかりだし、そういうことがあってもおかしくないと思えてしまうあたり、私もここに慣れてきたのかもしれない。
ついこないだまで悲痛な顔をして背筋を丸めていた彼は、今や驚くほど快活な笑顔を浮かべていた。マルセル様の笑顔に、ちょっとだけ似ているかもしれない。
私と同じようにリエル風の色鮮やかな衣をまとった彼は、頭を上げると弾んだ声で話しかけてきた。
「ロザリー様もお元気そうでよかった。ここリエルの王宮は、デルトで聞いていたものとはまるで違いますね」
「あなたも元気そうでよかったわ。今は何をしているの?」
そう尋ねると、彼は手にした紙の束を掲げてみせた。一見したところ、日常の事務に関する書類のように思える。
「最初は私も客としてもてなされていたんですが、働かずにごろごろしているのも気が引けまして。何か雑用でもいいので、することをくれませんか、と頼んでみたんです」
「それが、その手の書類なのね。でもとても、雑用には見えないわ」
こういう場合の『雑用』とは、簡単な肉体労働とかそういったものを指すと思う。でも彼がどこか得意げに見せている書類からして、彼に与えられたのは頭脳労働だ。
「ええ、私がデルト王国にいた頃に携わっていた職務と、ほぼ同じものなんです。それはまあ、私は文官の中でも下っ端中の下っ端ですが……でもまさか、敵国であるリエルで同じような仕事ができるとは思いませんでした」
彼はそう言いながら嬉しそうに笑う。ここに向かう旅の間、ずっとおどおどとして不安げにしていたとはとても思えない、幸せそうな笑みだった。
「子供の頃からずっと、リエル王国はそれは恐ろしいところだと聞かされていましたが、こうして実際に触れてみると意外と良いところだと思えますね。皆様とても親切で」
「ええ、私もそう思うわ。ずっと恐れ嫌ってきた敵国が、まさかこんなところだなんて思いもしなかった」
しみじみとつぶやくような私の言葉に、彼は大きくうなずくとじっと私を見つめてくる。今までのどこか浮き浮きとした様子から一転して、落ち着いた声で彼は言った。
「ロザリー様、私がこのようなことを申し上げるのもおこがましいのですが……和平の使者としての任が、無事に果たされることをお祈りしております」
彼の目に浮かんでいる希望の光を見てしまった私には、彼が言いたいことが分かるような気がした。無事に和平の交渉がうまくいき、両国の間の国交が多少なりとも回復すれば、きっとデルトの民もリエルの真の姿を知ることができるだろう。そうすればいずれ、二国は友好国となれるかもしれない。
もう自分はリエルの民とは争いたくないのだと、彼の顔に書いているように思えてならなかった。そして彼の望みをかなえてやれる立場に、私はいる。少なくとも、彼は本気でそう思っている。彼は私がここにいる本当の理由を知らないから。
「……ありがとう。私に何ができるか、分からないけれど……精いっぱい、頑張ってみるわ」
そんな当たり障りのない、そしてぎこちない返事しかできないことが悲しくて、悔しかった。フィリベルト王子の婚約者であった頃ならともかく、今の私には何の権力もない。一応公爵家の血を引いているだけの、ただの罪人でしかないのだから。そして和平の使者という立場は、ただの嘘っぱちだ。
けれど私はそんなことは欠片ほども表に出さず、笑顔で彼と別れた。きっと今の私はひどい顔をしているのだろうな、と思いながら。
さらに数日、私はただ王宮の中をさまようだけの日々を過ごしていた。王宮の人たちはとても親切で、あれこれと世話を焼いてくれるし、かなり開けっぴろげに色々教えてくれる。あっという間に、私はリエルの治安や財政についても、一通りの知識を得てしまっていた。
けれどその結果、私はさらに考え込むようになってしまった。積極的に他国との取引を行っているリエル王国はとても豊かで、そのせいなのか治安も良い。ほぼ鎖国状態の上に軍事費が常に財政を圧迫していて、いつも懐具合が厳しい我がデルト王国とは大違いだ。
根本的に資本力が違うリエルと戦って、デルトが正攻法で勝つのは難しいように思える。だからこそ、フィリベルト王子も暗殺などというとんでもない策に打って出たのだろうか。
中庭の長椅子に腰かけて一休みしため息をついていた私に、遠くから元気な声が投げかけられた。
「あっ、ロザリー様、ここにおられたんですね」
「レミ、どうしたの?」
腰に下げた剣をかちゃかちゃと鳴らしながら駆け寄ってくるのは、ここに来た最初の日に私を案内してくれた若者だった。
レミという名の彼は王宮勤めの兵士で、他人に警戒心を抱かせにくい容貌と、兵士たちの中でも割と上の方である剣の腕を買われて、ユーグ様のお忍びについていくこともあるらしい。ちなみにこれらの情報は、二度目に顔を合わせた時に本人が得意げに話してくれたものだ。
「陛下とユーグ様が、珍しく二人揃って時間が空いたんだそうです。それで、もしロザリー様もお暇なようでしたら話しませんか、とおっしゃってました」
彼の言葉に、思わず小さく息を吸い込む。やっと、またマルセル様と話せる機会が来た。これで、私の真の使命が一歩前進する。
けれど今の私には、それが喜ばしいことだとはこれっぽっちも思えなかった。マルセル様自体は好ましい人であるのに、彼に近づくのだと思うと気が重かった。
「分かったわ。ご招待にあずかります、と伝えてもらえるかしら」
重い気持ちを見せないように気をつけながら、そう答える。レミはしゃんと背筋を伸ばすと、軽やかに敬礼をした。
「了解です。それでは俺は陛下に返事を伝えてきますので、ロザリー様はゆっくりと歩いてきてくださいね」
レミは元気良くそう言うと、来た時以上の勢いで駆け出していく。その背中をぼんやりと見送りながら、私は重い腰を上げた。