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10.現実からは逃げられない

 すっかり日も落ちて、リエルの王宮には驚くほど涼しい風が吹き抜けている。昼間はあんなに暑かったというのに、日が落ちたとたん急激に気温が下がっていた。


 晩餐と湯あみを済ませて部屋着に着替えた私は、窓辺の長椅子に腰かけて星空を眺めながら、今日あったことを思い出していた。




 朝一番にユーグ様に会って、一緒に出掛けることになったこと。驚いたことに城下町をお忍びで歩くことになったこと。見るもの全てが珍しくてすぐにきょろきょろする私に、ユーグ様があれこれと教えてくれたこと。


 ユーグ様は身分を隠していても、他人に頼られる立派な方だった。揉め事もすぐに解決してしまったし、私のことも気遣ってくれていた。いきなり抱え上げられた時は、さすがにどうしようかと思ったけれど。


 帰ってきてからも、もうひと騒ぎあった。私がユーグ様に抱えられて戻ってきた時のことだ。出迎えてくれたジネットは目を思いっきり見はって、ぽかんと口を開けたまま固まってしまったのだ。


 何かと自由奔放なリエルにおいても、さすがにこの状況はおかしなものなのだろう。あわててユーグ様の腕から降りようともがいたものの、がっちりと抱え込まれてしまっていてびくともしない。


 どうしよう、といたたまれない気持ちになった時、ジネットが歓声を上げながらうっとりと両手を組みあわせた。


「あらまあ、いつの間にそんなに仲良くなっちゃったの? 素敵ねえ」


 そうして彼女は、全力で私たちのことを冷やかし始めた。こういう時どうすべきかなんて、デルト王国の淑女教育では習わなかった。もがくことも忘れて呆然としていると、すぐ上からユーグ様の声がした。


「ジネット、彼女は靴擦れができてしまっただけだよ。早く手当てをしてやってくれないかな」


「はいはい。でも、どうして靴擦れができるほど歩かせちゃったんですか?」


「ああ、私のいつもの街歩きにつき合わせてしまってね」


「やっぱり仲がいいんじゃないですか。一日ずっと一緒にいたんですよね、うふふ」


 手際良く傷を手当するための準備をしながら、ジネットが顔いっぱいににやにやした笑いを浮かべている。ものすごく楽しそうだ。どうして私たちが一緒にいると彼女が楽しいのか、この辺りの理屈はよく分からない。


 興味津々のジネットからそっと目をそらしていると、ユーグ様が私の体をそっと長椅子に下ろした。ようやっと体が離れてほっとするのと同時に、少しだけ残念にも思ってしまう。


「あら、ロザリー様もまんざらではないって顔をしてる気がするんだけど……」


 私の表情がほんの少し変わったことに目ざとく気づいたらしく、ジネットがさらに目を輝かせて詰め寄ってきた。困り果ててユーグ様の方をちらりと見ると、彼は苦笑しながら小さく肩をすくめていた。この表情の意味は分かる。私にはどうしようもないよ、ということだ。


 そんな私たちを交互に見て、ジネットが楽しそうな笑い声を上げる。彼女があまりに楽しそうだったこともあって、つい私たちもつられて笑い声を上げてしまった。


 王宮の客間に、明るい笑い声が響く。それはデルトの王宮ではまずありえないほど、底抜けに明るくさわやかなものだった。




 夕方のそんなやり取りを思い出してくすりと笑いを漏らした時、目の端で何かが光っていることに気がついた。何気なくそちらに目を向ける。


 黒い影を透かすようにして、左手首の腕輪がぼんやりと淡い光を放っているのが見えた。さっきまでのふわふわとした幸福な気持ちが、一瞬で消し飛ぶ。


 私はここに物見遊山に来た訳ではない。私はリエルの国王であるマルセル様を、殺すためにここに送り込まれたのだ。そんな冷たい現実に、一気に引き戻された。


 寝台の上に大急ぎで飛び乗ると、左手首を胸の前に隠すようにしてうずくまり、掛布をすっぽりとかぶる。震える指を伸ばして、光る腕輪にそっと触れた。すぐに、聞き覚えのある堂々とした声が腕輪から聞こえてくる。まぎれもない、フィリベルト王子の声だった。


『聞こえるか、ロザリー』


 ついこの間まで私の婚約者だった男性、そして私に恐ろしい密命を下した男の声は、これっぽっちも懐かしいとは思えなかった。恐怖からなのかそれとも嫌悪からなのか、むき出しの腕にぞわりと鳥肌が立つ。この様があちらに見えなくて良かったと、そんなことを頭の片隅で考えている自分がいた。


「はい、聞こえています」


 隣の間に控えているジネットに聞こえないように、声をひそめながら手短に答える。


『そうか、首尾はどうだ』


「……リエルの王と接触することはできました」


 最低限のことを答えながら、私は昼間に思い出した虚しさをまた感じていた。彼の頭にあるのは私の密命のことだけだ。私が敵国でどうしているか、どんな気持ちでいるかなんてことにはこれっぽっちも興味がないということが、その声からはありありとうかがえた。


 私が彼の婚約者だった頃から、彼はこういう人だった。王族に手を上げるという罪を犯し婚約破棄された今となっては、私は彼にとってただの手駒でしかないのだろう。


『ならばいい。そのまま任に励め。しくじった場合どうなるかは、分かっているな』


「十分に承知しております」


『いいか、リエルの連中には決して気を許すなよ。奴らはとても狡猾で、非道な連中だ』


「……はい」


 フィリベルト王子はリエル王国の真の姿を知らないのだろう。だからこそ、こんな言葉を何のためらいもなく吐けるのだ。


 今ここで、リエル王国の現状を、そして王と王子の人となりを話してしまおうかと思った。私たちがその気になれば、きっといつでも我がデルト王国とリエル王国は手を結ぶことができるのだと、そう主張してしまいたかった。


 けれど、と唇を噛みしめる。間違いなくフィリベルト王子は、私の言葉に耳を傾けてはくれない。そう断言できるくらいには、彼の傍で彼のことを見てきた。彼は、リエルに強い敵意を抱いている。


 リエルについて感じたことをそのまま話せば、私がリエルにほだされてしまったと彼は考えるだろう。そうなれば、彼は私にかけた死の呪いを発動させ、始末するだろう。敵に情を寄せてしまった使えない手駒など、彼にとっては邪魔でしかないのだから。


 もしそうなったら、と小さく自虐の笑みが浮かぶ。間違いなく彼は、私の死を理由にリエル王国に大々的に攻め込もうとするだろう。和平のために遣わした使者の命を奪うとは、やはりリエルは信用ならん、とか何とか難癖をつけて。


『また連絡する。くれぐれも、気を抜くな。我がデルト王国の未来は、お前にかかっているのだから』


 私が物思いにふけっていることに気づく筈もなく、フィリベルト王子はそんな白々しい言葉をかけて通信を切った。腕輪の光が消え、黒い影だけが残される。


 開放的で天井の高いこの部屋には、私しかいない。それをいいことに、私はそのまま寝台に突っ伏した。この王宮に漂っているのと同じ、涼やかな香木の匂いが私を優しく包んでくれる。


 私は、どうしたいのだろう。何を信じたいのだろう。考えれば考えるほど、何もかもが分からなくなっていった。


 死にたくない。故郷デルトに帰りたい。でもマルセル様を殺したくはない。フィリベルト王子のもとには戻りたくない。自分がわがままを言っているのだと理解できていたけれど、どうしてもそう思わずにはいられなかった。


 泣きたくなるのをこらえているうちに、昼間何度も見たユーグ様の穏やかな青い瞳が目の裏に浮かんでいた。その青さを感じていると、少しだけ心細さが和らぐような気がした。

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