1.破滅のお茶会
子供の頃から、黒い影におびえて生きてきた。
それは色々なものに重なるようにしてぼんやりと存在している。人だったり、物だったり、場所だったり。
黒い影が危険を意味していることに気づくまで、そう時間はかからなかった。
お父様に害をなそうとしていた使用人、屋敷の近くに紛れ込んでいた凶暴な野犬、傷んでもろくなっていたバルコニーの手すり。そういったものに、私はいち早く気づくことができた。あの黒い影のおかげで。
そして私以外の誰にも、あの黒い影は見えていないようだった。どうして私だけに、あんなものが見えているのだろう。あの影はいったい何なのだろう。そんな疑問で頭が一杯になった私は、ついに両親に打ち明けることにした。
二人はたいそう驚き、影についてくわしく問いただしてきた。そうして私の話をじっくりと聞いた後、両親は「その影について決して口外してはならない」と言い含めた。
それも当然だろう。私の家は王家とも縁のある公爵家なのだ。そこの娘が得体の知れない影が見えるなどと言って回ろうものなら、あっという間に悪い噂が立ってしまいかねない。
両親の対応は貴族としては正しいものだと分かってはいたけれど、ほんの少しだけ寂しかった。受け止めてもらえなかった不安が宙ぶらりんのまま心の中で漂い続けるのを感じながら、私は両親の言いつけに従うことにした。
私が十八歳になった今も、あの黒い影の正体は分かっていない。いつしか私は、黒い影から目を背け、見ないふりを決め込むようになっていた。あの影を見なければ、あの影に気づかなければ、普通の令嬢として生きられるのだから。
けれどそんな決意をあっさりとぶち壊すような光景が、今私の目の前に広がっていた。
それは王子が開いたお茶会でのことだった。彼の婚約者として出席していた私の目の前で、王子はティーカップを口に運ぼうとしていた。ゆっくりと、とても優雅に。
ごくありふれたその光景を、出席者たちは和やかに見つめている。しかし私はただ一人、背筋が冷たく凍りつくのを感じていた。
王子が手にしたティーカップには、恐ろしいほど真っ黒な影がまとわりついていたのだ。ここまで真っ黒で不吉な影は、今まで見たことがなかった。
私の視線に気づいていないのか、王子はとても楽しそうな笑みを浮かべたままティーカップを持ち上げていく。
恐怖に身がすくみあがる。駄目だ、あれを飲ませてはいけない。止めなくては。でも、どうやって。
そうやってためらっている間に、王子の唇がティーカップに触れた。もう、一刻の猶予もない。
どうにかして制止しようと、王子に向かって勢い良く手を伸ばす。あわてていたせいか手元が狂い、私の手は王子の頬を思い切り張り飛ばしていた。
驚いた王子がティーカップを取り落とし、黒い影をまとったお茶が辺りにまき散らされる。少し遅れて、ティーカップが割れる澄んだ音が聞こえてきた。
辺りに静寂が満ちる。その静けさを破ったのは、怒りで真っ赤になった王子の低い声だった。
「……ロザリー、お前……自分のしたことが、分かっているのだろうな!」
そう言い放ったフィリベルト王子の姿には、いつの間にか薄ぼんやりとした黒い影がからみついていた。
そうして今、私は窓のない部屋で一人ぼんやりと座っている。小さな机と椅子、それに寝台があるだけの簡素な部屋だ。入口の扉には外から鍵がかかっている。要するにここは、貴族用の牢獄だ。居心地は悪くなかったけれど、私の心は重く沈んでいた。
お茶会でフィリベルト王子を殴ってしまった私は、すぐにここに押し込められた。我がデルト王国の法律では、王族に手を上げるのは重罪だ。たとえ、傷一つつかないような平手打ちであったとしても。
それにフィリベルト王子は烈火のごとく怒り狂っていた。今頃、頭から湯気を出しながら私の処分を決めているに違いない。彼の気性から言って、大目に見てもらえる可能性は恐ろしく低いように思われた。
一瞬だけ、彼を止めなければ良かっただろうかという考えが頭をよぎった。ゆるゆると首を横に振って、その考えを隅に押しやる。
おそらくあのお茶には、毒か何かが入っていたのだろう。もし彼があのお茶をそのまま口にしていたら、きっと良くないことが起こった筈だ。小さな頃から黒い影を見てきた私には、そう確信できた。
深くため息をつきながら、そっと背もたれに寄り掛かる。今の私にできることは、ただ待つことだけだった。
虚ろな目でぼんやりと部屋の中を見つめているうちに、今日のお茶会のことが次々と思い出されてきた。
フィリベルト王子が開いた今日のお茶会には、多くの令息や令嬢が招待されていた。立食形式だったということもあって、みなてんでに歩き回りながらお喋りに花を咲かせている。会場となった王宮の中庭は、とても華やかでにぎやかだった。
招待主であるフィリベルト王子はひときわ精力的に動き回り、様々な相手としゃれた会話を楽しんでいた。彼はこうやって、大勢で集まるのが好きなのだ。そしてそこに出席して彼に付き従うのは、彼の婚約者である私にとっては当然の義務だった。楽しくなかろうと興味がなかろうと、欠席するという選択肢は私にはなかった。
このお茶会も、そんな集まりの一つでしかなかった。ずっと立ちっぱなしということもあってそろそろ足が痛くなってきたのだが、彼はそのことには気づいていないらしく、さわやかに笑いながら声をかけてきた。
「楽しんでいるか、ロザリー。今日は絶好のお茶会日和だな」
フィリベルト王子は心底楽しくてたまらないといった顔をしている。彼は上品に整った面差しをしたかなりの美男子だが、少しばかり己の容貌を鼻にかけている節がある。
「はい。お招きありがとうございます、フィリベルト様」
「そうかしこまるな。ほら、君ももっと他の者と話すといい。未来の王妃たるもの、他者との交流も立派な仕事なのだからな」
私は未来の王妃で、彼は未来の王だ。ならば私たちにはもっと、他にやるべきことがあるのではないか。喉元まで出かかったそんな言葉をあわてて飲み込み、あいまいに微笑んでうなずく。
デルト王国は、国境を接する敵国リエルと長い間戦争状態にある。民には兵士として戦うことが義務付けられていて、徴兵された彼らは国境での戦いに投入されている。
そうしてその戦争にかかる費用は、恐ろしいほどデルト王国の財政を圧迫していた。妃教育の一環としてそのことを初めて知った時は、思わずうめき声を上げかけたほどだ。
正直、お茶会などといったことにうつつを抜かしている余裕など、私たちにはない筈なのだ。このままでは、いずれ国が傾きかけない。
けれど気が短く自己中心的なフィリベルト王子に、そのことを伝える勇気はさすがになかった。そもそも彼は、私が妃教育として政治や経済について学ぶことにあまりいい顔をしていなかった。君は私に付き従い黙って微笑んでいればいいんだ、と直接言われたこともある。
私の悩みはそれだけではなかった。フィリベルト王子と婚約してから頻繁に王宮に出入りするようになった私は、真っ黒な影をまとった大臣を見かけて目をむくことになった。子供の頃からたくさんの影を見てきたけれど、基本的に影が濃いほどより危険だ。
散々迷ったあげく、親の言いつけを破ってフィリベルト王子におそるおそる進言してみた。あの方は何か良くない気がします、一度しっかりと調べてみては、と。
けれど返ってきたのは「根拠もなく我が臣を疑うとは、見損なったぞ」という冷たい叱責だけだった。影についてきちんと説明できないのだから仕方ないとはいえ、それでも悲しくてたまらなかった。私は彼の婚約者なのだし、もう少し話を聞いてもらえるのではないかと期待してしまっていたのだ。
そうこうしているうちに、その大臣の影はどんどん濃くなっていった。今ではもう、彼の顔は影に隠れてしまって全く見えないくらいだ。
お父様に頼んで調べてもらおうかとも思ったけれど、その大臣はお父様とは全く接点がない。理由もなく調べて回るのは難しそうだった。特に、フィリベルト王子のお叱りを受けた後では。
色々な問題が山積みになっているのに、何もできることがない。自分の無力さに、日々ため息は増えていくばかりだった。
そんな暗い私の気分を置き去りに、和やかにお茶会は進んでいった。フィリベルト王子は私の作り笑顔に気づいているのかいないのか、上機嫌で色々な相手と話し続けていた。
黒い影をまとったあのティーカップが新たに運ばれてきたのは、ちょうどそんな時のことだった。
そこまで思い出したところで、私は物思いから引き戻された。突然扉の外が騒がしくなったのだ。がちゃがちゃという金属の音に続いて、扉が乱暴に開け放たれる。
「お前の処分が決まったぞ、ロザリー」
近衛兵を二人と宮廷魔導士を連れたフィリベルト王子は、顔をゆがめて笑った。王子たちはみな、寒気がするほど真っ黒な影をまとっていた。