山桜ひと枝、柚子のジャムとパンケーキ。
少しだけ、特別な気分になる事をする。それはとっても簡単な事。
私が三十歳の時に、当時付き合っていたオトコを、パンケーキとジャムとハーブティーが攫っていった。
――、バスルーム、窓の外には勿忘草色の空。平日ならば仕事をしている時間に、新緑色した湯船に身を沈めている私。
「この入浴剤、いい感じだわ」
肩こり腰痛に効くと同僚に勧められたソレは、炭酸系統なのか、ザラリと白湯に入れた途端、シュワシュワとしながら溶けた。
「ハァ、分かってるけど、私……、バカ。今年も来るだろうって思っていた事が、バカ、せっかくの休日だったのに……、もしもって、思って惨めったらしく、ずっと家に居たのもバカ!誕生日はとうに過ぎて、奴から連絡もない!終わったんだわ!」
子供みたいにブクブクと鼻から下を沈めてみる。鼻の中にツンっと、来る。スイミングスクールの温水プールで泳いだ、子供の時を思い出す。
……、きっと良い人が出来たんだよ……、スタッフさんだっけ?フォトに可愛い人、写ってたし……。
『田舎だけど、お客様も付いてるんだ。一緒に来ない?』
彼の叔父さんが経営していた、パンケーキとハーブティーが名物のカフェを継ぐことになった奴に、そう言われた三十歳のバースデー。
歩いて数分でコンビニ、バス停。自家用車等無くても不便を感じない街育ちの私。当時仕事で大きなプロジェクトに参加する事も決まっていて……、やりたい事も沢山あって、それらは全て街で居るからこそ出来る事。
考えさせてね。並んで座る焼き鳥屋のカウンターで、焼酎のお湯割りをやりながら、即答をさけた。マドラーで沈む梅干しをツンツン突く。ゆらゆらとヒゲの様に朱い果肉が蠢く。その横で美味しそうに、好きな砂肝に齧りついていた奴。
私の言うセリフは既にわかっていた奴は、後日返事を返すと、いいよと笑って言ってくれた。
ついていかなかった。
それでいいよと言われた。
あっさりと奴は田舎へとIターン。
これで終わりかな。そう思っていたのは私だけ。
『もしもし、起きてる?』
私が寝る時間になると、週に何回か電話をしてくる奴。
「起きてるし、持ち帰りの仕事してるし、ビール飲んでるし!終わりじゃなかったの?」
『終わりってなによ!俺はそんな気は無い!』
「だって私プロポーズ蹴ったし」
『一度蹴られた位じゃ諦めないよ、それとも君の仕事の事も何にも考えず、独り決めた俺の事嫌いになったか?』
それならこれっきりにするけど……、そう言われたら。
そんな事ないよ。好きだけど、みんな捨てていっしょに行く勇気が無いだけ。ズルい答えを返した私。
それから十年。別居夫婦の様な関係が続いている。
思えば十年前、お互いの部屋を行ったり来たりしていた時も、始終べったりな関係じゃなかった私達。月に一回は、土日を使い今やっている店へと必ず、手伝いに向かってたし。
ゴールデンウィークも手伝いに向かってたし。連休があれば私との予定よりも、店の手伝いを優先してたし……、だけどそれを特別、寂しいとも思わなかった私。
なぜなら、お帰りって待ってるのが、実は楽しかった。
しょうもないお土産を持ってくると、私に覚えたレシピを作ってくれる事が嬉しかった。
周りの皆には、そんな身勝手な男やめとけ!と言われてても、奴が来ると特別な気分になって、幸せいっぱいだった。
私のリズムを崩さない、付かず離れずの関係が心地よかった。
だから街と田舎と離れて暮らしていても、奴から心が離れていく事はなかった私。
遊びに来る?と聞かれても。
電車とバスを乗り継いで行く手間が、面倒くさかった私は、離れてからは一度も行ったことが無い。
そして奴も、電話と時々、宅配便を送ってくるけれど。
街に車を飛ばして来ることはなかった。
☆
風呂上がりは冷えたビールを飲むのが好き。どっかのフリマで買った、シーグラスで作られた、海色のグラスに注ぐ。
「コレは冷たい物専用なのよね、作家さんに言われた」
ピシピシと細かにヒビが入るような模様。素朴な厚いガラスは、棄てられたガラス瓶が割れて海の波で揉まれ洗われ丸くなったのを、海岸でひとつずつ集めて溶かして作ると聞いた。
「沖縄かぁ、一度位、奴と旅行に行っとけば良かったな」
風が欲しくてベランダの窓は開け放している。今の時期ならまだ虫は入ってこない。勿忘草色の空が薄墨色に変わっている。
……、去年迄は誕生日に、宅配便が届いてたんだよね。私も奴の誕生日にはプレゼント送って……。今年は無かったなぁ。
数日前にめでたく四十才となった私。マンションの部屋には、最近ペットショップで見つけた同居人が、カラカラ、カラカラと滑車を機嫌よく回している。
「まっ!いいか。ね!ハム、トウフ食べる?」
飼育ケースには、ゴールデンハムスター。子供の時に飼っていたからこの子に決めたんだけど……、こいつ。
「食べる顔が奴にそっくりなんだもん!」
グラスを置いて近づくと、フンフン近づいてくるハム。育った家では、何代かハムスターを飼っていたのだが、可愛い名前をつけても、何故か。
ハムスターのハム。に改名されていた。だからこの子の名前はハム。ゲージから取り出し手の上に乗せると、銀色のヒゲをヒコヒコ動かす。丸い目がキョロキョロ辺りを探る。
「少し丸くなったんじゃない?太り過ぎはいけない」
手のひらの上で二本足になったり、うずくまったり、せわしなく繰り返すハム。おやつの袋から、乾燥トウフの小さな白い欠片を食べさせる。
もこもこ、と頬袋にしまい込むハム。この時の一生懸命な顔が、どうしてもご飯を食べていた奴の顔に重なる。
思い出すとクスクス笑いが止まらない。お家に入って食べな、とゲージにハムを戻した時。
チャイムの音が響いた。誰だろ?荷物?少しときめくのをしかめっ面で押し込めながら、インターホンの画面を見れば。
思いっきり怪し気な花泥棒が、肩からクーラーバックを掛けて立っていた。
☆☆
「ええ!桜の花じゃない!どっから盗ってきたの?」
ドアを開けて開口一番、諌めた私。本当は飛び上がるほど嬉しいのを、必死で抑えて隠そうとしていたから。
「だって今の時期、水仙かコレしか、庭に咲いてなくて。お誕生日おめでとう」
十年分、年取った奴がそこにいた。
「ど!どうしたのよ。遅いし!今の今まで来たことなかったのに!そ、そりゃ私も行くこと無かったけど……、だって電車とバスで3時間、遠くない?」
「あー、十年は街に来ないって、店をやり始めてから決めたんだ。何ていうか、すごい不便だから、街に帰りたくなりそうで……、本当は誕生日に来たかったけど、定休日じゃなかったから……サプライズしたかったし」
モゴモゴとすまなさそうに話す奴を、このまま追い返すのも何なので、上がる?と聞けば嬉しそうに頷いた。
ガチャン。ドアが閉まる。
「その、帰りたくなくなりそうな、すごい不便な所にいっしょに来ないって、よくも言ったものね」
「若気の至り、あ!ハムスターがいるし!」
十年前と同じ様に、シンクへ向かう奴。
「パンケーキ、材料持ってきた!後、柚子のジャムもね」
テキパキとクーラーバックから、持ってきた品物を広げる。
「キッチン使っていいって言ってない」
少しだけむくれる私。ウソウソ、心の中は狂喜乱舞して花が舞っているというのに!
「このジャム、庭の柚子なんだ。去年美味しかったって、言ってくれたよね」
笑顔を向けられ、うん。としか言えない私。
だって胸いっぱいで、嬉しくて、照れくさくて。手にしている大振りな枝。紅い葉と共に、白い五弁がしとやかに咲いているソレを活けなきゃね、と奴に悟られない様にしようと、私は花瓶を探しながら話しかけた。
「パンケーキ、腕を上げたかとっても楽しみ」
そう?楽しみに待ってて。背中で声が聞こえる。
少しだけ特別になった休日。
とっても特別になった休日。
薄暗くなって来たから、パチンと蛍光灯のスイッチを押した。甘い香りとカラカラ滑車の回る音が混じり合う部屋で、山桜がクスクス笑って咲いている。
終。